NHKEテレ ETV特集「理の人」吉岡斉さん特集 「日本の原子力政策は合理的議論を尽くした末のコンセンサスにもとづいて進められてきたのであろうか」 デタラメな余りにデタラメな日本の原子力政策
- 2024年 3月 11日
- 評論・紹介・意見
- 吉岡 斉福島原発事故阿部 進
先週土曜日(3月2日)、NHKEテレで膨張と忘却 ~理の人が見た原子力政策~ – ETV特集 – NHKが放送されました。2018年1月に亡くなった元九州大学副学長・元福島第一原発事故政府事故調委員を務めた吉岡斉さんです。
そこで、はじめにちょっと吉岡氏との“馴初め”のことを書いておきたいと思います。
吉岡氏の出会いと、初めての単著『テクノトピアをこえて 科学技術立国批判』
吉岡斉さんとは同世代です。彼と初めて会ったのは、1980年代の初頭、僕が本郷の出版社に勤めていたときです。初めて社に現われた彼は背のひょろっとした人でした。“なんか変わった人”というのが第一印象でした。要件は、初めての単著を出すということでした。1982年に出ることになった『テクノトピアをこえて 科学技術立国批判』(社会評論社 )です。そのときは東大の院生だったのではなかったかと思います。さて、担当を誰にするかということになり、社内会議の結果、僕の大学時代の友人であるNが担当することになりました。
編集作業を進めると、Nが言うのです。「また真っ赤になって戻ってきた」。つまり、書き直し、加筆等々が多いのです。初めの原稿の形がまるでなくなるくらいです。当時はパソコンなどありませんから当然、原稿用紙に手書きです。そこにマス目など全く無視して行間、欄外にいっぱい!訂正・加筆されてあるのです。そして、その当時は、組版は、活版です。今のように訂正などモニター上にカーソルを動かして新規にキーボード叩いて、Enterキー押しておしまいなどとはいきません(データ修正)。組版の差替えも一字一字です。現場の組版をしてくれている活版印刷所の職人さんたちにはいろいろ面倒をおかけしたと思っています。なにしろ一字一字(一本一本)活字を拾っての差し替えですから。
Nの苦労は想像に余りあります。Nから聞いて記憶に残っているのは、吉岡氏、「僕の本は歴史的に意味を持つことになるのだから発行年月日を正確に記しておく必要があるのだ」と言っていたことです。それを聞いて何と自信家なんだろうと皆思っていました。でも、その後――そういうことになったのですから、たいしたもんです。それだから、そういう性格だからでしょう、わが国の暗黒の原発政策の闇を打ち破るものになるものを彼はきちんと残してくれたのだと思います。
本郷界隈でも吉岡に付き合えるのは変わっているN だけだろうとも言われていました。そうして付き合いを深めていったN、ある時、「吉岡と一緒に山に登るんだ」と言うのです。そして登山の日、Nから電話が入りました。お昼前だったかと思います。こちらは、今頃二人は山頂かな?などと思っていたところでした。すると、N曰く「もう登って下山してきた」と言うのです。えっ!です。吉岡氏の性格を思わせるエピソードです。
編集では、僕はサブとしてNにつきました。校了時、下版を手伝い、僕は広告版下(写植、それも手動の時代です)を作ったりしていました。そう、思い出したことがあります。原稿に「VTR」など略語があったのです。それがわからず、「なんだ、なんのことだ」と確認したことがありました。今のように直ぐネットで検索とはいかない時代です。
表紙カバーは、もうちょっとましなものにならないかなあと感じていました。その当時この界隈で“人気”があった東京藝術大学出身の“新進気鋭”のデザイナーの作です。僕には、なんだか、筆でザッと何本か線を引いただけというふうにしか見えませんでした。おまけに判型の際ぎりぎりに書名等々を入れてあるものですから、カバーをかけ替えるとき(書店から返品されてきたものにカバーをかけ替え再出荷するのです)、えらく難儀しました。まあ、ある人は「極みの美学だな」などといっていましたが。こんなデザインにして!と、ぶつぶつと文句を僕は言っていました。
“新進気鋭”――そういえば、吉岡氏のこの『テクノトピアをこえて』の広告コピーにもこの語を付けて書きました。
その後も、当時、社が出していた季刊誌の関係等々で、吉岡氏は本郷村に出入りしていました。Nからはまた、科学史の中山茂さんのことをよく話していたとかを聞きました。Nは、その後も長く付き合い、彼の結婚式にたしか参列したはずです。
吉岡氏が本郷村との付き合いができた後、「あの吉岡さんの弟?」と知ることになるのですが、Nや僕らのまわりの人たちは学生時代、彼のお兄さんと知り合いだったのです。時代は「早稲田解放闘争」のときです。その闘いのなかで吉岡兄と皆が知り合ったそうです。世間は狭いものです。
そして月日が経ち、彼が和歌山大学に職を得たということを聞きました。その後、僕は本郷村を離れ、フリーで仕事をすることになって吉岡氏のことはたまに耳に入るくらいでした。
2011年3月11日 東京電力福島第一原発事故、テレビに吉岡氏が
そして、2011年3月11日です。東日本大震災、そして東京電力福島第一原発が津波に襲われ外部電力もアウトとなり、原子炉本体が冷却不能のニュース。原子炉、核燃料が冷却されないということは……。恐怖が襲いました。テレビでは枝野官房長官が「ただちに影響があるわけではありません」「放射能は…検知されていません」そして、しばらくして、今度は「〇キロ圏内の人は避難を…」などと繰り返しています。
そんななか、翌日か、翌々日かテレビを見ていると、田中俊一とともに彼、吉岡氏が出ていたのです。吉岡が出ている!と。そこで「現在の福島第一原発の状況は…」とやっているのです。
その番組で忘れもしないことがあります。外部電力がアウトとり、原子炉冷却にため炉内に注水するための電力が確保できていない。また、その冷却水そのものも確保できていないというのです。要は原子炉を冷やすものも、手段もないということです。そこで、急遽、消防車を使って海水を汲み上げ、炉内に注入するしかないということになったのです。そういう深刻な状況が刻々と伝わり始めてきました。海水を注入するしかないということになったときです。吉岡氏がぼそっと言うのです。「海水を入れたら――6000億円がダメになってしまう…」と! この声をマイクがしっかりと“拾って”しまったのです。
それを聞いて、僕は思わず、テレビに向かって「吉岡!人に命より原子炉(6000億円)のほうが大事なのかよ!」と叫んでしまいました。
出版に至らなかった「吉岡氏に原子力政策、原発事故を聞く」
その後、彼が政府事故調査委員会のメンバーに入ったと聞きました。吉岡なら原子力マフィアと渡り合ってくれるのではという期待を込めてみていました。
事故から3、4年経ったとき、Nらと会って話をしているなかで「吉岡に何か喋ってもらおうよ」となり、その当時いろいろと発言・発信していた宗教学者の島薗進さんとどうだろうかとなり、企画を立て、両氏に連絡、伺いを立てると御両人とも快く承諾してくれ、早速対談日等の手配に入り、対談してもらうことになりました。
場所は、一ツ橋の日本教育会館の会議室を借りて行ないました。吉岡さんと会うのは本郷村以来でしたから三十数年ぶりでした。
対談するにあたって、吉岡さんの几帳面さを垣間見ました。対談を始める前に、メモ用紙(カード式)をテーブルの上にきちんと4枚ほど並べます。話すことの要点が書かれているようでした。
ETV特集でちらりと映っていましたが、それを見たとき、ああ吉岡さんはいつもこうしてメモをとったり、話を記録していたのだなあと思いました。後で、「さすが秀才は違うね」などと言いあったものです。そういう意味では彼、吉岡斉氏は几帳面で「理の人」でした。
対談後、神保町の居酒屋で島薗さん、吉岡さんらと飲んだのですが、お酒は好きで強い人でした。今から思うと、顔を見て話したのは、この時が最後となってしまいました。その後はメールでのやり取りだったのです。テープ起こしを済ませ、吉岡さんにメールで送り、手を入れてもらうなどの作業を進めていました。吉岡さんから手を入れた原稿が戻ってきました。その後、もう一度彼に戻しました。「○月○日までに戻します」という連絡が入り、返事を待つも…。その後、連絡が途絶え、どうしたものかと思案。勝手にこれでOKだとして出すわけにもいかず、時間だけが過ぎていきました。企画はその後、物理学者の池内了さんに差し替え、何とか『科学・技術の危機 再生のための対話』として合同出版から出すことができました。2015年秋のことです。
それからしばらくして、吉岡氏が亡くなったという知らせが届いたのです。「えっ!」という感じでした。僕らと同じ歳(彼とNは1953年、僕は1952年生まれ)だというのに…。
この番組で知ったのですが、彼、2017年9月に九州大附属病院に入院したとか。
葬儀には、Nと一緒に参列させていただきました。2018年1月のことでした。今から思うと、原稿のやり取りを始めたあたりから、体の具合が悪くなっていたのかと思います。葬儀に出た後、Nと一杯やったのですが、Nもしばらく彼と会っていなかったのです。N曰く、「僕らもこの歳。会おうと思ったときに会っておかないとね」と。島薗のさんとの対談の時、顔を出せばよかったと嘆いていました。
今も、僕のパソコンには、彼と島薗のさんとの対談原稿がワード原稿のまま仕舞われています。このままにしておくのもと思い、本通信に時々、彼の発言として掲載しているのは、その時の発言からなのです。
この「吉岡文書」に関する報道、1年前の昨年3月に九州地区で「ザ・ライフ ある原子力学者の遺言~未公開資料が語る~」として放送されていたようです。
さて、番組です。番組は原子力政策、原発についての細かなことをあれやこれや取り上げるのではなく(そんなもの何度も―必要なことですが―行なっているので)、我が国の原子力政策決定に関わった人々が、その時、その時、どのように考え、どのような考え方で、または心性で決定を下していったのかを“丁寧”に映像として記録してありました。
トップバッターはあの近藤駿介です。日本の原子力学会等を牛耳っていた人物とも言えます。そして福島原発事故当時、4号機の核燃料プールの冷却水が無くなるかもしれないという時、当時の民主党政権、菅、枝野らに「その時はどうなるんだ」と問われ、「東日本に人が住めない状況になる」と発言した人物です。
その近藤駿介、番組の取材を受け自信満々、「どうだ!」と言わんばかりの姿が映し出されていました。
番組で印象に残ったのは、近藤駿介が取材スタッフから吉岡文書を見せられたときの表情の変化です。口ごもり、脂汗を流し、それまでの傲慢さはどこへやらです。
近藤の顔色が変わります。覗き込むように見ます。「よくこんなもの見つけたね」と。そして、それまでの横柄なしゃべり口とはうって変わって、神妙というか、まずいものが出てきたという感がありあり。その表情としぐさをカメラはしっかりと納めていました。口ごもり、口元は引きつっています。「あの、あの、それ…」という感じでしどろもどろです。汗が出てきたのでしょうか、ハンカチで汗をぬぐい、手にそのハンカチ、時々ぎゅっと握りしめます。そうした細かなしぐさも取材班、カメラマンはしっかりとカメラに収めていました。眼は心の窓とも言います。そうした表情の変化もしっかりと捉えていました。
2011年3.11東京電力福島第一原発事故から13年が経とうとしています。のど元過ぎれば熱さ忘れるというたとえがありますが、まさにその例えどおりか、昨年の秋あたりから原発問題、と言っても再稼働をめざすものとしてのニュースが出始めていました。そして、今年元旦の能登半島地震です。にもかかわらず、再稼働への動きが加速しています。
原発云々についてはさまざま語られ、本なども出ているしある意味結論は出ています。
番組のなかで、ある自民党議員が言ったという「君らが言っていることは全部正しいな。でもねぇ、これは神話なんだ」「嘘は承知で、“出来る出来る”って言ってればいいんだ」「薄く広く電力料金に乗せれば、19兆円(核燃料サイクル存続にあたっての金額。いわゆる「19兆円請求書」のこと)なんてすぐに生み出せる」という発言が紹介されていましたが、それがすべてを表しているでしょう。
また、原子力政策決定に関わる会議のなかにあって、吉岡氏は経産省の「内通者」についても手帳に書き残しておいたようです。
全てが結論ありき、初めから結論は決まっているのです。審議会などは飾りも飾り、国民を欺くための以外の何物でもないということを吉岡文書と、この番組は明らかにしていきます。
ピエロ役を演じさせられた審議委員を務めた伴さん、「これ(吉岡文書)、表に出たら大騒ぎになる話ではないですか」「茶番に付き合わされた」と驚きと落胆です。
まさに、吉岡氏のメモにある「原子力長期計画委をつらぬく無責任の思想」です。
「『カネ』と『嘘』と『おまんま』がグチャグチャになって固まっているんです」
「『結局国民よりも自分たちの飯の種とか立場とかを優先しているんですよ』なのです」
要するに、なんだかんだと難しい言葉を並べ、もっともらしい数式、数字、横文字、専門用語を並べてさももったいぶって言おうとも、所詮はカネ、カネ、カネ、ついでに名誉がついてくれば犬も食わない自尊心を満足させることができるという以上でも以下でもないということでした。
原子力政策、ある意味金融工学と似ています。一般の人々にわからないように装うことができればもうそこで成功なのです。どちらも言っていることは目くらまし以外の何物でもないこと、その化けの皮がはがれているというのは多くの人が指摘していることです。
番組は3.11東日本大震災・東京電力福島第一原発事故までは運動に距離をとり、ある意味「傍観者」だった吉岡氏が、東電原発事故を目のあたりにし、心を決め、市民の側に立って発言していこうと決心したのではと言うのは原子力市民委員会座長を務め、今は龍谷大にいる大島堅一さんです。
また、吉岡氏の教え子という早稲田の綾部広則教授が、彼の“口癖”を紹介していました。
「普通の人が常識的に考えればわかることしか僕は言っていない。なんでそれが共有されないのか。なんでだろう」
原発など、常識で考えればすぐにわかることです。世はSDGsなどといっています。プラスチック製のストローが廃棄され、海に流れ出て、ウミガメの眼に刺さり…ということでその写真等が世に出、動物愛護の立場もあり、すぐに紙製のものと差し代わりました。なのに原発です。放射性廃棄物、十万年単位の話です。東電などは以後300年責任を持つなどといっていますが、まともに受け取る人いないでしょう。これらを見ると、“人間を愛護”するという思想はないようです。
青木美希著『原発はなぜ止められないのか?』(文春新書)に、まだまともだったときの河野太郎の言葉が紹介されています。「300年モニタリングしますと言っていますが、300年前は赤穂浪士の討ち入りですよ」。まさに常識的に考えればわかることなのです(注:この300年はセシウムに関して。プルトニウムストロンチウム等々は万単位の話です)。
エネルギーの大転換、石炭から石油へ大転換をしたとき、炭坑産業がスクラップされました。吉岡氏は島薗氏との対談のなかでも、「それに比べれば原子力産業など大した数ではない」と。上にあげた青木さんも述べていますが、脱原発への道、要はトップの決断なのです。そして、未来を生きる人たちへの責任があるのです。
しかし、よくぞ、こういう構成にして通ったものだと思いました。
これを見た近藤駿介、「よくもあんなところまで撮って、放送したな」と、NHK上層部にねじ込み、取材班に“危害”が及ばなければいいのにと思っています。
こうしたメモ・文章をしっかりと残しておいてくれた吉岡氏。そしてこの膨大な資料は、遺族から寄贈され、今、九州大学に保管されているとのことです。東京電力福島第一原発事故から13年、この「吉岡文書」は、もはや「史料」といえるものです。共有財産です。そのメモの全貌がすべて公開されることを望みます。
しかし、心配もあります。この「吉岡文書」ですが、何か“事故”にあって、「残念ながら、消失(焼失)した」――などとならないことを願うばかりです。原子力マフィア、まさにマフィアですから。「その資料はない。無くなってしまった」と言うのは日本の権力側の常とう手段ですから。そして「水に流しては」いけないのです。
初出:「原発通信」2362号に加筆修正
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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