雑記 ~ 冬を越して
- 2024年 3月 17日
- 時代をみる
- ホームレス
元旦夕方の能登半島地震の際、東京も少しは揺れたが、新宿の中央公園では、越年越冬の「炊出し」を待つ 列が出来始めた頃。
瞬時ただならぬ空気となり、本部ではインターネット ニュースが大音量で流れ、即座に「津波」の警報が鳴り、東北のかつての地震を想起させ、けれど、どうする こともなく、心配そうに、そのニュースに耳を傾け、大きな災害にならぬよう、とにかく祈り続けた。
被災者を思う気持ちは、自らも天災ではなく、社会経 済的な理由ではあるが、突然、仕事を奪われたり、家族が壊れたり、住み処を奪われたりして、今の生活に至ってしまった過去を持つ身にとっては、他人事ではない。通じ合うものがあるのだろう、その願いは、共に生き、共に踏ん張り、諦めずに頑張ろうと、その場に集まった200名近い仲間の瞳は、皆、そう語っていた。
私たちは、すぐさま現地に駆けつけることも、また、現地でのボランティアがすぐ出来る訳ではなく、東京の各地に設置された募金箱に、なけなしのお金を入れることしか出来ないが、「復興」と云うか、「再起」と云うか、そんなことへの思いは、そこに自分を投影しなが ら、己や、その地の「不幸」への怨嗟までをも募らせたりするのである。
ありきたりな言葉ではあるが、心よりお見舞いし、一日でも早い被災者による被災者のための「復興」を願う。
2024年はこうして幕を開けた。
前年、2023年は「コロナ渦」もほぼ終わり、今思えば、とても不可思議であった様々な「規制」「制限」も終了、その対価としての「恩恵」(給付金等)も、終わったものの、これは、一度やったら止められないのか、今度は「物価高対策給付金」に変わって、何だかんだ助かっている内、都市の「インバウンド」も復活し、サービス業を中心とする経済は、嘘のように復活した年でもある。
新宿の街も「コロナ渦」前の雰囲気に戻り、小田急本 店の解体に伴う西口の再開発も開始され、歌舞伎町に大きなビルが開業したりと、まあ、工事だらけの一年であった。建設労働者
に仕事が多く出るのは良いことではあるが、都市の改造と云うのは大掛かりになるだけ、その影響もまた大きい。
理不尽な「追い立て」や、「居場所」が狭まったりすることは、都市の側からすれば、さほど大きなことではないのであろうが、そこでの暮らしを続けている人々にとってみれば、それはそれで大きな出来事でもある。
人の移動の「規制」がなくなったことにより、地方から東京への人の移動も再開された、もちろん恵まれた人々だけが「移動」する訳ではない。食いつぶれた人々や、夢や希望をもって無一文で上京してくる若者も多くなり、それが上手くいけば良いのであるが、この世はそんなに甘くもない。失敗して奈落の底なんて者も当然ながら出て来る。家出少年や少女も多くいる。それぞれ、かつて居た「場所」に窮屈さを感じたり、その「場所」がなくなったりしたり、単純に失業したりと、様々な「不幸」の循環の中、東京を選ぶ者も多い。
「コロナ渦」後の東京は、再びこのような人々を受け入れる都市となり、中には居場所がほとんどなくなり、役所に駆け込んだり、炊出し並んだりと、そんな人々の列が、決して減りはしない。ま、元通りになっただけで ある。
その中でも巡り合わせの悪い者は、「犯罪」や「事 件」に巻き込まれたり、路上生活を余儀なくされたりす る。
みんなコロナのおかげで忘れかけていた問題が、再び 浮かび上がった年でもあった。
………
昨年の秋頃、新宿区の相談所「とまりぎ」からの紹介で、とある場所から「災害用備蓄食料セット」をもらえることとなった。そろそろ賞味期限が切れる前の家庭用の防災品で、箱の中には、簡易トイレや、水、アルファ米、ビスケットと、一式がそろったものである。どのくらい欲しいかと問われ、1000箱ぐらいなら大丈夫だ ろうと、即座にもらい受ける約束を交わした。
連絡会が借りている倉庫には、これまで不用品が山となっていた。それはまずいと、仲間に「片づけ仕事」を出し、一気呵成に片づけたのが昨年の初め。
「仲間の仕事作り」が団体の「使命」でもあると考えている私たちは、何でも「仕事」にしてしまう。正確に云えば「ボランティア仕事」で、報酬もたいして出るものではないが、それを「仕事」と私たちは昔から呼んでいる。
「仲間のために」と云う「仕事」は、やりがいがあるようで、そういう「仕事」を企画すると、率先して動いてくれるのが、連絡会のスタッフ。何かをやれば、わんさ、わんさと集まり、俺にやらせろ、あーだこーだと、これは伝統なのかどうなのか、昔から変わらない。
そんなこんなで、倉庫は空いていた。が、この倉庫は、とある建物の地下空間。狭いピットの点検口から搬入搬出させなければならぬ。トラック載せて、フォークリフトとパレットで「よいしょ」とはいかない。すべて 人力、手渡し作業。
この「防災品」をもらい受けるためにレンタカーを借り、現場に行く部隊と、それを待ち受けて、運搬する部隊、ピットに入る部隊、10程の体制で2回転の一日仕事。「ひー、ひー、ぜいぜい」云いながら、無事に倉庫に納めることが出来た。
これらの備蓄品、賞味期限が2024年の4月。何に使うかと云うと、箱の中身を出し、レジ袋にアルファ米やビスケットを入れ、年末年始の炊出しに集まった仲間への「おみやげ」(補助食)として提供し、残った水はNPOの一時宿泊事業等の食事提供や、連絡会のおにぎり作りの際、お米を炊くときに使用しよう、残った簡易トイレは賞味期限がないので、いざと云う時のために備蓄用にとっておこうと、そんな思惑であった。
が、これもまた大変な作業。何せ箱数が多い。地下倉庫から事務所に上げ、そこで仕分け作業。水は階段上って2階の厨房まで運び入れる必要がある。それもまた手分けをしながら仲間が「えっさら、えっさら」。
計画通り、この年末年始におみやげを900袋程作り、すべて完売。越年明けて、水だけの箱100箱弱が調理場に残っていたが、これも2月中になくなった。
米をこれで炊くと、「あれ、お米変えたの?」などと利用者さんからは反響があるぐらい、美味しく炊ける。まあ、この冬のプロジェクト、万万歳であった。
何をするのも計画を出し、おぜん立てさえすれば、仲間が率先してやってくれる。私たちが目指していた「仕事作り」は、結局はこういうものだったのだと、今になって、しみじみ実感をしている。
農業もまた同じ、お金をかせぐどころか、持ち出しの方が多いが、その分、楽しい。そして、仲間の強いつながりが出来る。
色々な経験や特技を持つ仲間が、その能力を惜しみなく出してくれるので、それを段取りし、そして、ひとつにまとめていくことだけが支援者の仕事である。
年が明け、2月の南岸低気圧の関係で、東京にも雪が降り、久しぶりの積雪となり、ようやく冬らしくなったが、雪の前には「ホカロン大作戦」。
ありったけのホカロン(携帯コンロ)を都庁の前で 3,000枚以上山積みにして、とにかく「暖まれ!」。もちろんパトロールでも大量投下をして乗り切った。
毛布は年末までが需要のピークで、だいたい必要な仲間には行き届いた。浅草の「ひとさじの会」の和尚さん達も年末に寝袋を配ってくれたこともあり、年が明けてからは新規の仲間、風雪で汚れたのを取り換える、東京マラソンの移動で捨ててしまったのを補充するなど、その程度。
この冬、トータルで600枚は配っただろうか、9月から配布を開始し、毛布があるよとの宣伝もかね、深夜のパトロールでは毛布を台車に乗せ、とにかく回って告知もして来た。そんなデモンストレーションのような行動が仲間に安心感を与える。
防寒着類も箱数で云えば700箱は優に越え、集まり次第の放出を繰り返した。年末年始は7日間連続提供なので、いつものことながら、物資の協力は本当に助かった。年が明けて能登半島地震の影響で寄付品は減るかと思われたが、被災地の方は受け入れ体制がまだ整っていないようで、引き続きこちらにも送られた。何だか申し訳ない気持ちである。
炊出し用、おにぎり用のお米も長野の山谷農場や、越後「いろりん村」などから、その他の食品も含めて多く届けられ、倉庫は再びいっぱいになった。
衣類や物資の場合、それを迅速かつ適切に配ろうとすれば、「仕分け」の体制がどこまであるか、提供の機会がどれだけあるかなのであるが、仕分け作業と云うのは、実際は難しい人力作業である。それを役所が受けるとなると、一品、一品、検品し、記載し、どこに送られたかも記しておかねばならない。何ごとも厳密にしなければならぬのがお役所の仕事。それに比べて私たちは、スタッフが率先して仕分けをしてくれるし、長年の勘で 需要供給の調整も簡単に出来る。また必要なところに必要なものを大量に「どん」と出すことも出来る。
配り方はちと乱雑ではあるが、その「争奪戦」の方が、整然としているより「活気」があり、そして頼もしい。
この場を借り支援して下さった方々に感謝である。
移動層が多い新宿では、昨年から既存の寝場所への「圧力」が、再開発などの影響で強くなったことで、その部分の「苦労」が続いた。
多くの仲間が就く都市雑業も気まぐれなもので、こちらも労働分野における「規制」も強くなり、浮いたり、沈んだり、ま、これはいつものことであるが、安定はしていない。
それでも現場で支援して下さる方々はまだまだ多くいるもので、民間や教会の炊出しや食料配布やら、夜な夜な巡回して食料を枕元に置いてくれる団体や、時にはお金を配ってくれる個人も居り、食い物などは何とかはなっている。
一部の「炊出し」は路上の仲間に限定したものではなく、(主に生活保護世帯であると思われるが)路上にはまるで縁がない人々も多く並ぶ。世は物価高なので一食でも浮かそうとするのは当然であり、まあ、主催者がそれを容認しているのであれば、それはそれで、見せ物にしたり、政治に利用したりしなければ、良いのであるが …。
が、「炊出し」とは、今回の震災の避難所のよう、寒い時には暖かいものを現場で火をつけ、提供するのが基本である。
民間の場合は様々な配慮が行き届いて、とにかく「温かい」。そして勇気をもらえる。それがこの国の伝統的な「炊出し」の姿である。
年末年始は、そういう「炊出し」の原点回帰。年末に向け早い段階から企画の練り直しをし、また、新宿区の公園課や福祉課との「調整」をし緩やかな「理解」を得、そして、暖かい丼飯を路上の皆々に提供することが出来た。
寒い公園に並ばせるのだから、ホカロンを一人ひとりに配り、待っている間、少し我慢をしてもらい、その代わり暖かいもの食べてもらい、そして寝床に帰ってからも夜食になるような「おみやげ」を出しと、集まった人 数も適正規模だったこともあり、とてもほんわかとした雰囲気の炊出しになった。
大晦日には、「さすらい姉妹」の方々がいつもの路上劇で盛り上げてくれ、コマまわしの「コマタン」さん (その昔、親御さんと一緒にコマ回しを披露してくれた子供だった彼も、今は立派な芸人さんになった)も素晴らしいパフォーマンスをしてくれ、また、五十嵐正史& ソウルブラザーズの皆さんも恒例の激励ライブをしてくれた。
こちらにも感謝
年末年始の相談会の方も盛況であった。私たちは「健康相談」を軸にし、風邪薬等の市販薬の提供、そしてボランティアの医師や看護師さんによる相談に特化する。
「宿」の相談にすると、もっと、わんさか来るのであろうが、年末年始を対象にした新宿区の「厳冬期宿泊」の告知は12月。入所も月末。これはもう終わっている。
年末年始は役所はお休みなので、緊急対応は救急車要請だとか、そんなものになってしまう。「コロナ」規制が解除されたので、ビジネスホテルやら漫画喫茶はインバウンド需要やイベントの復活もあり、どこも一杯。この時期に新宿で「宿」をすぐに探すのは、たとえお金を持っていたとしてもそれはどだい無理なお話し。それを、「開けろ」「用意しろ」と云うのは、タメにするだけの要求。そんなことを言われても役所は困ってしまう。
ま、それでも年末年始だからこそ新宿に来てしまう人々もまた居る。
今回、特殊事情があった仲間で、人道の観点から、どうしても年明け福祉につなげるため宿泊が必要があった 仲間2名をどこに泊めたかと云えば、事務所の一角に布団を引いて、食事を出してと、そんなインフォーマルな「宿」。
何せ、屋外は暖冬といえども寒い。そして、人の流れも冷たい。絶望的な気分になっても不思議はない。この 程度なら私たちは自前の「資源」で対応出来る。なので、役所がお休みでもそう困ることはない。しっかりとした考えを持っている団体に、ちゃんと相談をすれば、一時の「宿」なんてのはどうにでもなるものであり、それがまた、新宿の奥深さでもある。
薬の多くは「風邪薬」と「胃薬」。どこの家庭にもある「常備薬」である。風邪薬は「パブロン」ではなく、「ルル」。
これをオーバードーズにならぬよう、一日分9錠小袋に移し、それを渡す。もちろん渡すのは、長年、連絡会のボランティアを続けてくれている有資格者の熟練スタッフ。薬の怖さを知っているから、欲しいからと、ほいほいは渡せない。ここのさじ加減は経験がものを言う。 毎日とか毎回顔を合わせ、それでも熱がひかなければ、「そりゃ、風邪ではないよ」「福祉に行く?」「病院で 検査してもらう?」と振って、次のステップを互いで探す。「割り切り」と「おせっかい」。
それを繰り返して、医療や治療につなげる。このさじ加減もまた、経験。長いこと騙され続けて来たので「福祉を取る?」と言って、素直にそれに従う仲間は、そう居ない。
自身の経験や、色々と流布されている話から、生活保護がバラ色であると思っている人も居ない。管理されるのは仕方がないことながら、その分、好き勝手には生きられない。
自立支援センターもまた同じ。しかもこちらは「常雇」で「自立」と云う、これまで何度も「失敗」続きの人にとってはかなり高いハードルが待ち受けている。
「アパート自立」などは、夢のまた夢。それなりのキャリアを持っている仲間以外は、たいがい、てっとり早く住み込みの仕事を探すこととなる。アパートワンルームで都内は7-8万が相場。山手線内や、駅近ならもっとする。都心で暮すには金がかかる。都心部でゲストハウスが流行るのにも、そんな理由がある。それに加え、物価の高騰。働いた額の半分が家賃やら水光熱費となれば、貯蓄にまわすお金もなく、生活保護世帯よりも厳しい生活を余儀なくされ、仕事が楽しいのならそれで良いが、そうでなく、その上、首を切られた。怪我した。病気になった、人間関係が嫌になった、などなどあれば、また同じ生活に逆戻り。
「自立」したと思われていた仲間が、ある日、コンクリートに段ボール引いて、「エヘヘ。また戻って来ちゃった。」と云う再会は、良くある話。
よほどしっかりとした人、「ホームレス」や「生活困 窮者」と云われている人々の層の「エリート」しか上手くいかなくなってしまったようだ。
もちろん、ここも「宿」代わりにもなるので、ないよりはマシなのであるが、その「ゴール設定」が極めて役所的なのが玉に瑕である。
「就労自立」「自立の援助」。言葉は素晴らしいが、実態はかなりかけ離れている。
「久しぶりにネカフェ行ったけど、最近は女の人が多くなったね」とは、街探訪好きな、とある仲間の驚き。そう云えば、年末年始も新しめの女性が、男に紛れたり、アベックであったり、堂々と「おばちゃん風」吹かせたりしながら目立った存在としてあった。新宿は昔から女性の数は、他地域に比べると多かったのであるが、何だかその勢いはここ数年で増しているなと云うのは実感としてあった。そうか「ネカフェ」あたりが供給源なのかなと、ちと調べてみたら、新宿の「ネカフェ」業界は、かつての「掃き溜まり」からのイメージチェンジを計り、女性客を受けれるのに躍起になっているようである。中には女性専用のネカフェまで出来ている。
路上だけでなく、その周辺も色々と変わっていく。
「宿無し」にも色々あって、できあがってしまった 「ホームレス」なんて云う「固定観念」を逸脱してしまう、そんなパワーと云うものが、若い人々にはある。
歌舞伎町など、彼、彼女らの路上の居場所に屋根でもつけて、そのまま若者シェルターにしてしまえば良いのではと思うのであるが、まあ、そう云うことは商店街も役所もやらない。今は警察にお任せである。任された警察も困ったもので、小さな事柄でしょっぴいて、説教するも、また同じと、何も進まない堂々巡りである。
東京都の「路上生活者対策」も30年もの年月をかけ、予算をかけ、専属社会福祉法人や天下り団体を作り、相談員だとかで人も多く使って来たが、何だかんだとやっていても「解決」には至っていない。次から次へと新たな問題が派生し、それが固定化され、それらに振 り回されているようである。概数調査などで路上の人々が減って来ても「解決に向かっている」と決して表現はしない。それだけ自信がないと云うことなのであろう。
「解決」とは、そう云う人々の存在をまずは認め、そして彼、彼女らが絶望せず、何をしてでも、自分らしく生きていける社会になることである。硬直した「自立」を押し付ける発想はそろそろ止めにしてもよい頃だとは思うが…。
………
その東京都の「第5次ホームレスの自立の支援に関する実施計画」が先日、発表された。
「ホームレス自立支援法」も時限立法で延長、延長を繰り返し、基本方針も似たようなものが、5年ごと「見直されて」来たが、これもそろそろ賞味期限になろうとしている。「生活困窮者自立支援法」との整理もついているので、よほどのことがない限り、再々延長はないだろうし、東京都の実施計画もおそらくこれが最後となろう。
この法律がどうであろうが、東京都の「路上生活者対策」は、各区のばらつきと生活実態の差が大きく(ある区は河川敷の仮小屋、ある区は繁華街の流動層、ある区はその人数が限りなくゼロに近いなど)それぞれの区の温度差、苦情、要望の差異と云うものは、とことん広がっている。
都区共同体制はもはや限界で、また、ブロックごとと云うのも、その範囲が広すぎ、自立支援センターが、その「迷惑施設」としての閉鎖性もあり、本当の意味での「センター(中心)」としては機能して来なかった。
なので、ここは、それぞれの区の福祉行政が「センタ ー」(中心)となり、地域密着で、実態の把握であるとか、施策の実行ができるよう体制も変えていかないと、現状維持がこのまま永遠に続くことであろう。
他方、「管理行政」は、「再開発」だ「街造り」だ、「環境美化」とか、住宅地は住民の意向、繁華街は商店街の意向や苦情、要望を盾に、排除に向けた動きは活発になる。
道路法や公園法にのっとり、代執行など適法に実施すれば「強制排除」は可能と言うのが東京都の立場であり、現在も公園であるとか、道路であるとか、河川敷であるとか、仮小屋を作って暮している仲間は、その「圧力」との「神経戦」を常に強いられている。
「今のままで良い」とする人々を「自立の意思がない」と断罪し、放置し、もしくは追い立ててしまったら、これは元の木阿弥。
実施計画では当たり障りのないことばかり書いてあるが、新宿駅の西口地下広場に流れ続けてい「警告放送」 にあるよう、不法なのですみやかに退去するよう、それこそ30年間、東京都と新宿警察署は言い続けている。そんな中に、都の腕章着けた巡回相談員が「困りごとはありませんか?」と来ても、どちらを信用したら良いのやら。「役所なんて信用できんよ、今のままで結構毛だらけ、おせっかいはやめてもらいたい」となるのは、まあ仕方がない。
「アパート入れますよ」「女性も入れますよ」「自立支援センターも個室にしますよ」と云われても、それにはあまり魅力を感じない。
説教してくるハローワークや相談所に行くより、求人誌やネットで探した方がよほど良いやと、そんな困窮した若い仲間も多い。
………
今年は連絡会30年と云うことで、自らの歩みと向き合っ てみるかと、古い資料や写真を倉庫から引っ張り出し、活 動時に撮影したビデオテープを業者にデジタル化してもらったり、資料をスキャンしたりと、記録に残すことをやっている。
このNEWSとは別であるが、公式ホームページに「30周年特設サイト」なるものを作ってもらい、そこに古い資料やら写真をアップしながら、ちょっとした雑記を書いているので、機会があれば見てもらうと、何かと参考になるかも知れない。
その歴史と云うか、経緯と云うか、そんなことも一応知っておいてもらいたい。その上で、色々と語ってもらいたいと云う、そんな気持ちである。
何事もそうであるが、「歴史を学ばない識ったかぶり」 と云うのは、あまり宜しくはない。
「1994年2・17」4号街路強制排除から、ちょうど30年目となる。西新宿に進出したばかりの東京都庁による環境浄化を掲げた衝撃的で、乱暴なあの出来事から、色々なことが転がり始めた。いままで声をあげなかった人々が、怒りに声をあげた。「俺たちはゴミじゃない」と。
その後の「1996年1・24」の「動く歩道」建設を名目とした強制排除事件を含め、都庁は、かつてそれだけのことをやりたい放題、やりにやったのだから、それ相応の「報い」があって当然である。
虐げられて来た人々の恨みと云うものは「末代まで祟ってやる」である。その怨嗟は、今もこの土地には残っている。
だから、東京都は、この法律があろうが、なかろうが、仕組みの変更を含め死ぬ気でこの問題と向き合い続けなければならない。呪いを少しでも溶くため、路上で亡くなった仲間の魂を少しでも鎮めるため。
私たちもまた同じである。有効な抵抗の手段を作れなかった。好きかってなことを言い続け、やり続け、おまけに火事まで出した。だから、私たちもまた同様に罪深い。
まあ、それが連絡会が長きにわたり、「坩堝」と云われた新宿の地で支援活動、当事者運動を、逃げずに続けて来られた原動力であったのであろう。
鎮魂の旅路はまだまだ続く……。
冬は越せた。そして、春である。
(了)
初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL89」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5215:240317〕
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