書評:『書いてはいけない』 (森永卓郎著)
- 2024年 4月 18日
- 評論・紹介・意見
- 三上治森永卓郎
(1)
最近は、あまり週刊誌は読まないが、ネット記事は結構読んでいる。朝起きたらすぐにパソコンに向かうし、寝る前も大体見ている。以前ならまず新聞というところだったのだが今はネットだ。最近は大谷翔平の結婚記事が多いがそれも読んでいる。結婚相手がどんな人か興味をそそられる。大谷についてはミーハー的なのだと思う。
そんな記事の中で森永卓郎の闘病記に注目している。彼が原発不明のすい臓がんに罹っているという報告には驚いた。何年か前に経産省前でテント張って脱原発闘争を一緒に闘っていた渕上太郎がすい臓がんに罹った時のことを思い出したからだ。確か、彼も「原発不明ガン」だと言ったように思う。その時、僕はこれを原発によるガンと思って大恥をかいたことを思い出した。「原発不明ガン」の意味はその初発所が不明だという意味で原発には関係がないのだが、渕上が言ったときには原発から発生した不明なガンと思い込んだのだ。その森永は医者から余命は短いといわれ、それなら、死ぬ前に書けないと思っといたことを書くと宣言している。
本の帯には「命あるうち、この本を完成させ、世に問いたい」とあるが、同じ趣旨のことをネットでのコメント記事でしている。その『書いてはいけない』であるがやはり面白いし、感銘も受ける。彼がここで書いていることは、俗に言うタブーになっていることである。彼はそれを自分がメディアで仕事をして、けっして触れてはいけないことであり、自分も保身のため触れるのを避けてきたことだという。物書きの端くれとして、自分が避けてきたことを書き残すというのは興味深いことだった。この執着は何処からくるのだろうか、自分だったらどうだろうと自問しながら読んだのだが、本はいい出来栄えだと思った。書かれている中身といよりは行間にあふれているリリックな精神がいい。タブーの背後にある権力への確執という反抗とでも言いうべきであろうか、
彼はこの存在を誰もが知っていることでもあるにも関わらず、そのことを書き、言ったら、瞬時にメディアに出られなくなるものがあるという。そしてそれを3つあげる。「1、ジャニーズの性加害 2、財務省のカルト的財政緊縮主義 3,日本航空123便の墜落事件である」。この世にタブーとなっていることは多い。知ろうとすることも、触れようとすることも禁じられていて、触れれば、たちどころにメディアや社会から干され、居所を排除されるもの、そういう恐怖を抱かされるものである。かつてなら天皇という存在がその最たるものと言ってよかったのかもしれない。天皇という存在がそこに付きまとっていたタブーを薄らげたか,以前のままか、には評価が分かれるだろうが、タブーといえば天皇を想起させる。このタブーは社会の現状に組み込まれ、社会を閉じられた不透明なものにする。このタブーに触れて、その存在を暴いていくことは勇気のいることだが、社会を開いていくこと、その現状を打破していくために必要なことである。
(2)
安倍政権は現代の諸々のタブーを生みだす政権であったが、彼の死はそのタブーを次々に明るみに出している。それは自民党と旧統一教会との深い関係であるし、「裏金つくり」という闇の政治資金作りである。このタブーであったことが明るみになって体制派や権力側には混乱や危機を生んでいるにしても、もやもや感を幾分かは解いている。現状の打破を願っている部分にはよき兆候である。おまけのようにそのたびにメディアの不甲斐ないなさを知らされる。僕はタブーとして存在しているもので、暴いて欲しものは他にもあるけれど、ここで著者のあげている3つのことは興味深いことである、と思った。
第一に、第1章として取り上げているのは「ジャニーズの性加害」である。著者はこの問題が後で論ずる、「財務省の財政緊縮政策」や「日本航空墜や落事件」よりも解決の難しい事柄であると思っていたらしいが、こちらの解明は進んできている。「ジャニーズの性加害」とはジャニー多喜川によるタレントに対する性的暴力行為である。これは膨大な数にのぼる若者が多喜川によって性的暴力を振るわれてきたことであり、当事者たちの告発にもかかわらず。長年にわたって続けられてきたことである。被害にあった若者の多くは沈黙のうちにこれをやり過ごし、代償としてタレントとして活動ができた存在もいる。
このことは早くから知られ、2003年に東京高裁でジャニー多喜川のセクハラ行為(性加害)は認定され、広く知られるようになった。この認定は刑事事件に相当することだが、そのための行動もなかったし、そのことは大手のメデイアがジャニー多喜川、あるいはジャニーズ事務所を追及しなかったことにあるといわれる(文春を除いて)。何故か、これはジャニーズ事務所がタレントの供給において大きな力を持ち、メディアに権力として機能していたからである。ジャニー多喜川の性行為を取り上げ追及すれば、メディアはタレントの供給を絶たれ、人気番組も含め番組を組むことが困難になり、そのために沈黙したといわれる。これはメディアがそこを舞台にして活動する人の発言も抑制する(沈黙を強いる)ことにもなった。メデイアでの仕事を引き換えにジャニー多喜川やジャニーズ事務所の批判を控えるということをしたのである。沈黙しているため、あるいは告発しなかったがために、ジャニー多喜川は自分の性行為を同意によるものとしていたのだろうが、権力者として強制的な性的暴力だったのである。ただ、これを批判し、告発することが難しかった。例えばこれは芸能界の慣習的行為であるというようなことが残っていたこともあるし、芸能界でのこうした性的行為(性的関係)はあたり前のことで咎められるべきことではないと思われていたふしもある。それ以上にここでは権力への批判が難しいということがあったのだと思う。ジヤニー多喜川の性加害を存続させたことには彼の権力と不可分に結びついていた以上。彼の性加害行為への批判は多喜川の権力としての批判を持たなければ難しかったのだと想像する。
この問題をメディアが取りあげるようになったのはイギリスのBBCが取り上げたからであり、その点はまた、外圧からかと思うが、この本ではTBSの村瀬健介記者の記事を取り上げている。「ただ、私たち記者は、タブーとだと言われれば言われるほど、相手が権力者であればあるほど、そこに斬り込みたいと強く思うものです。それなのにこの問題で高いハードルを越えるべく取材の努力をしなかったのは、率直に言って私たちの努力のなさ、そして人権感覚の鈍さが原因であり…」と。人権感覚の鈍さというよりは性的関係を性関係に介在する権力の問題という視点で見れなかったからだと思う。それは性や性関係に対する視点の問題である。僕は性をめぐる現在の問題を人権の問題というよりは性における権力の問題と考えた方がいいかと思っている。ただ、この問題に斬り込んだ著者に敬意を持った、と言っておこう。
(3)
第二に取り上げられているのは「ザイム真理教」である。これは前に出た『ザイム真理教』の少し形を変えた展開である。内容が変わっているというのではない。おさらい風に言い換えただけだ。この論究は現在の日本経済の停滞(失われた30年)の原因がどこにあるか、その脱出の道を提起している。日本の経済は何処へ行くのかは日々探求していることだから、「ザイム真理教」という提示は面白い。「ザイム真理教」というのは財政緊縮政策ことであるが、これは宗教を変えたカルトだというのが著者の指摘である。財政緊縮政策というのは経済の循環における不況期に国家が財政出動をすることで、生じる国家の借金を財政再建(財政規律)の名目で抑え込む政策のことである。放漫財政によって国家財政は破綻し、ハイパーインフレを招くという指摘であり、その結果、増税よって経済安定と成長をという考えだが、この財政路線を財政緊縮路線として著者は批判する。
著者の考えは「適切な財政政策をやれば経済は成長する」といことであり、財政緊縮政策が現在の経済政策の元凶になっているということである。日本の高度成長後の停滞は適切な財政出動を財務省がやってこなかった事であり、その裏で消費税増税を含む増税をやってきたからだという。このことは例のアベノミクスの評価ついても語っている。アベノミクスは「金融政策、財政政策、高度成長の三つを柱」にしていたが、最初の二つはよかったという。安部が財務省に取り込まれて増税(消費税増税)に走ったから、経済の停滞を招いたと指摘している。日本は1600兆円を超える借金をしているではないかという指摘に対して、これには1200兆ともいわれる資産があり、資産の裏付けがある限り、それは借金と呼ばなくてもいいし、ハイパーインフレにはならないという。このところは経済論議としてあるところだし、アベノミクスの評価も賛否保留したいところがある。ただ、この中で注目したいのは財務省が税収にこだわり、増税を政策の中心に置くとする批判には同意する。彼がこの財務省のあり方を「ザイム真理教」として取り出しているところは納得が行く。彼は財務省の経済政策をカルト的なものとし、カルト集団(統一教会)と比較しつつ取り上げる。
著者は宗教とカルトが神話をつくって信者をコントロールする共通点があるが宗教は信者を幸福にするのだが、カルトは教祖や幹部の幸福を目的にするという。カルトはそこで神話を使って信者を収奪し、信者の暮らしを破壊するという。財務省は増税という形で国民から収奪するのだが、それは国民を豊かにするのではなく、財務省の幹部を幸福にすることを目的にするという。僕は佐藤優の官僚階級論を思い浮かべただが、税収と人事という形で著者はこれを論じている。税収の獲得は国家財政のためであり、国民の経済的な豊かさのためのものとされるが財務省の幹部のためだという指摘は面白いし、探求してみたいことだと思う。財務省に限らず官僚一般にひろげてあるが、この個所は官僚考察へのヒントにもなった。
ここで指摘されていることは財務省がけっして批判を許さないということである。財務省は独裁者だからだとされているが、その具体例として『ザイム真理教』という本が大手のメディアでは書評などとして取り上げられなかってことを語っている。「ジヤニーズの性加害」を大手のメデイア(文春を除く)が取り上げなかった構図と似ている。彼はザイム真理教問題、突き詰めていえば財務省問題の解決は財務省に解散命令を出すしかないというが、これはおもしろい提起だと思う。官僚を開くという程度では官僚問題が解決していかないという指摘だからである。
(4)
三つめとして取り上げられているのは「日航123便はなぜ墜落したかという」ということだ」。日航123便は1985年8月12日に御巣鷹山で墜落した。坂本九などが乗っていた事でもよく知られている。この原因は航空機の後部圧力隔壁に損傷があったこと、つまりはボーイング社の航空機に欠陥があって起こったということが定説になっている。ただ、この説には色々の疑問があり、自衛隊機が練習中の誤った攻撃で撃ち落としたという説がでてきた。自衛隊による民間機攻撃だったというわけだ。ただ、事実を隠すための現場での焼き討ち(特殊部隊による現場の焼き払い)もあつたとされる。日航123号便の墜落に至る経緯での不思議なとされる(後部圧力隔壁損傷説ではつじつまの合わない)ことが、この説では解けるように思えるところも出てきた。ただ、この遺族などから出てきた真相解明の要求は国家や日航側から拒否されてきた。その決め手としてのボーイスレコーダーやフライレコーダー開示を求める裁判も棄却された。その開示はなされていない。著者は事件の真相を追及する人に出会い、定説に対する疑念を深めた。そして、真相追及を試みようとするが、それを追及することを拒む壁に遭遇する、それは「ジャニーズの性加害」や「ザイム政策」の追及を阻んできたものと同じであった。この事件は日米の経済関係、その後の日本の経済関係に関わってきたとする。日本経済の「失われた30年」と関係するという。
ここはミステリ小説の謎ときのようなスリリングさがある。タブーに立ち向かいそれから自由になって行くときの快感を読みながら受け取れる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13667:240418〕
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