世界のノンフィクション秀作を読む(66) ジャン・コルミエ著『チェ・ゲバラ』(下)
- 2024年 4月 27日
- カルチャー
- 『チェ・ゲバラ』ジャン・コルミエノンフィクション横田 喬
ジャン・コルミエ(フランスのジャーナリスト)の『チェ・ゲバラ』
(創元社刊、松永りえ訳)
――革命を生き抜いた闘士の素顔(下)
◇革命第二幕
1959年1月、革命キューバは新たな一歩を踏み出す。新内閣はチェにキューバ国籍を与えることを決定。フィデル・カストロ首相は急進的な政策を推進した。それまで米系企業の手中にあった全ての公共サービス(交通・電話)を国営化した。農地改革法が公布され、大規模農園を国有化し、国が土地の半分以上を所有することになった。
同年6月、チェは初めての公職、移動大使に任命され、他の国々と経済関係を結ぶため
に出発。最初の訪問地カイロではナセルに迎えられた。世界革命のプロセスについて意見を求められ、別れ際に最新型の自動小銃を一丁贈られた。インドではネルー首相と非公式に会談。武器購入を打診するが、耳を貸してもらえなかった。
日本ではトヨタやソニーなど最大手の企業の社長に招かれた。後に、彼はこう言う。「日本も我々も資源が殆どない。日本人のように、我々ももっと頭を使うべきだ」。インドネシアではスカルノ大統領と会見。その「指導される上からの民主主義」を称賛する。ユーゴのしたたかな指導者チトーには手もなく翻弄された。武器供与の願いは叶わず、老獪なやり口に無駄な時間つぶしに終わる。それでも新たな発見があった。市民が農民を手助けに行く「自発労働」は、その後のキューバの政策に採用されている。
三か月に及ぶ各国訪問の成果は大きかった。社会主義には様々な形があり、国によって違う。また、外交の現場では言葉と行動は一致するとは限らない。武器の入手と新たな市場の開拓も難問だった。チェは共産主義体制の双璧、ソ連と中国への訪問を画策し始める。
59年10月から、チェは全国農業改革局の総裁を兼務する。農地改革に真っ向から取り組み、二か月も経たないうちに「公式に大土地所有制は消滅した」と宣言した。11月には中央銀行総裁にも任命された。
キューバと米国の溝は急速に深まっていった。59年6月、カストロは米国に完全に支配されていたサトウキビ畑とタバコ畑の国有化を決定。米国は砂糖の輸入価格を引き下げ、抗議の意思を示す。キューバは、ソ連が米国に代わって砂糖を輸入するという約束をソ連から取り付ける。その砂糖と引き換えに石油を得るが、精製は自前でやらねばならない。だが、キューバの殆ど全ての石油精製工場を支配する米国企業に精製を拒否されてしまう。
60年8月、カストロは遂に国内の石油会社の国有化を断行する。
銀行に続く石油企業の国営化。さらにキューバ国内の米系大資本の国有化が、両国の対立を激化させた。だが、カストロの改革が米国に与えた損失総額(約10億ドル)を測るには、当時、米国がキューバ国内の鉱山の90%、土地の50%を所有し、輸出の67%と輸入の75%を握っていた現実を忘れてはならない。
同じ頃、チェはハバナでの第一回ラテンアメリカ青年会議に出席し、こう宣言した。「ソ連、中国、社会主義の国々や、植民地または半植民地状態から自らを解放した人々は我々の友人だ。奴隷制擁護の大国との大陸的同盟に連帯することなどできない」。「ヤンキー・ノー!」――ラテンアメリカのあらゆる大学で、このスローガンが繰り返された。
◇封鎖の時
60年10月19日、米国はキューバ貿易の部分的封鎖を発令する。それまでキューバは、米国に依存せずに消費財を生産する手段を全く持たなかった。キューバで消費される物は全て米国企業が牛耳っていた。キューバは米国から三千種類以上の商品を輸入していた。優秀な技術者は全て米国人であり、僅かに居たキューバ人技術者も多額の報酬の誘惑に負けて、米国に去って行った。
62年1月、キューバは米州機構から除名され、殆どの国々が次々とキューバと断交した。
キューバ産の原材料入り製品への経済制裁が加えられ、キューバの港に入港した船舶は全て、アメリカへの入港を禁止された。キューバへの農業製品の輸出も禁じられた。国土防衛がキューバ政府の至上命令となり、ソ連との関係を強める結果を招く。
10月、米スパイ機U2がキューバにおけるソ連製核ミサイルの発射基地の写真を撮影。ミサイル基地はフロリダの海岸からたった二百キロの距離にある。ケネディ米国大統領は全世界に向けてテレビ放送で警告を発した。全世界が固唾を吞んで見守る中、ケネディとフルシチョフの力比べが始まる。結局、ソ連はミサイルをキューバから撤去し、代りに米国が今後はキューバを攻撃しないという約束を取り付けた。このミサイル危機をきっかけに両国は歩み寄り、ワシントンとモスクワの間にホットラインが設置された。
フルシチョフは56年にスターリン批判を行っている。カストロやゲバラは、そこで打ち出された「平和共存路線」が妥協と変節の産物であるとし、懐疑的だった。が、カストロはまもなくこの状況を受け入れるが、チェの方はソ連から距離を置く姿勢を見せ始める。
◇アルジェでの演説とキューバとの決別
65年2月、彼はアルジェで第二回アジア・アフリカ経済会議に出席。ソ連との関係ひいてはカストロとの関係に転機となる演説をする。「(ソ連は)人民の革命に対して支援を出し惜しみしている。自己中心的な外交政策が生み出す己の利益を追求しているのだ。このままだと、社会主義諸国はある意味では帝国主義的搾取の共犯者だと言わざるを得ない」。
この演説は、ソ連の「政治的現実路線」を否認し、しかも現実を鋭く認識している。実際、ソ連は、外貨を盾にアメリカの先物取引市場のブローカーとも平穏に取引し、数十万トンの穀物を獲得していた。ソ連はこの演説を侮辱と受け止め、即刻キューバに抗議した。これがチェとカストロの決別へのきっかけとなった。
65年3月末、二人の髭面の男たちは丸々二日間部屋に閉じ籠って話し合った。チェはもはやキューバに残ることが出来なかった。カストロの重圧となり、ソ連に楯突くことになるからだ。4月20日、カストロは記者たちに答えた。「彼について言えるのは、彼は革命のために自分が最も役立つ処にいつも居るであろうということだけだ」。
◇「20世紀の小さな隊長」の最期
チェの消息について、様々な噂が流れた。生涯着用し続けたオリーブ色の軍服は、ゲリラとして身に付けるものなのだ。彼の最後の旅の目的地はボリビアだった。北米の支配から解放するため、南米を燃え上がらせなくては。ボリビアは地理的に南米の胸郭と言っていい。至る処に革命の熱気を運ぶために、近隣諸国から来るゲリラ兵士の訓練所を設けなくては。
ボリビアの人口五百万弱の四分の三は国土の十分の一に集中し、「解放区」を作る余地が十分ある。チェは南東のニャンカウアス川周辺にゲリラ基地を設け、様々な国から来る新兵を35日かけて養成する予定だった。が、現地のリーダーは、ソ連政府の完全な言いなり。
ソ連は米国が確立していた支配体制を乱されるのは自国の不利益になる、と判断していた。
66年11月3日、チェは偽造パスポートでボリビア入りし、目的地ニャンカウアスに向かった。集まったのは、当初予定されていた250名の選り抜きではなく、たった50名の兵士。チェはキューバ革命劇の再現を図ろうとするが、思うに任せない。ボリビアの農民は近年行われた農地改革の恩恵に与り、キューバの農民のように積極的な協力者にならなかった。
翌年5月、多くの農民が政府軍に拷問を受けていた。ゲリラ隊に対する政府軍の兵数は約五千名に及ぶようになる。一方、政治闘争も切り開かれていき、労働者たちは鉱山地帯を「解放区」と宣言した。6月24日、鉱山労働者たちがゲリラ支援を決めると、政府軍はすぐさま錫鉱山を占領。スト参加者に発砲して二六名を殺害し、約二百名を連行する。
そして、農民の支持が得られないことがチェの部隊の意気を消沈させ、8月31日、ゲリラ七人が殺害される。10月17日、同志一七名が退去すべくアジトを出発。農民の通報により翌日、チューロ渓谷で二百人近い政府軍部隊(北米の軍事顧問たちも参加)に包囲される。負傷したチェら三人が逮捕され、翌日未明に機関銃で銃殺された。
チェの亡骸の行方が広く一大関心事となる。遥か時が過ぎて97年5月、カストロは現地の許可を取り付け、チェら三人の遺骨を発掘。没後30周年の記念にキューバの地に還り、盛大な国葬が営まれる。サンタクララの霊廟は世界的な巡礼地になった。
▽筆者の一言 ゲバラと聞くと、反射的に亡き映画スター菅原文太さんを思い起こす。私が朝日新聞記者だった頃の初対面の折、「カストロよりゲバラの方に、心情的には惹かれる。現実のオレは七〇になっても、恐らくタラタラ俳優稼業をやってんだろうけど・・・」と漏らした。それから三十余年後の2014年、81歳の文太さんは那覇市内で開かれた翁長雄志氏の沖縄県知事選立候補への一万人集会に車椅子で参加(二七日後に亡くなる)する。ユーモアを交えた熱弁を揮い、大勢の参加者を奮い立たせた。ゲバラも文太さんも、文学青年っぽい無垢な魂を具えていた。その新鮮な感触が人々の胸に響いたのだ、と感じる。
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