世界のノンフィクション秀作を読む(71)磯田道史(静岡文化芸術大教授)の『大田垣蓮月』(文春文庫『無私の日本人』所収)――数奇な運命をたどった江戸後期の美貌の才媛歌人の心打つ伝記(上)
- 2024年 5月 29日
- 評論・紹介・意見
- 『大田垣蓮月』横田 喬磯田道史
磯田道史(静岡文化芸術大教授)の『大田垣蓮月』(文春文庫『無私の日本人』所収)――数奇な運命をたどった江戸後期の美貌の才媛歌人の心打つ伝記(上)
大田垣蓮月(1791~1875)は「菩薩尼」と呼ばれた江戸後期の歌人・陶芸家だ。高い身分の血を引く絶世の美人でありながら、数奇な運命に翻弄され、孤独な身の上に。が、剃髪、出家し、歌人として名を成すと共に、自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りする蓮月流を創始した。手にした金は飢饉の際になげうって貧者を扶けるなど慈善事業に励んだ。
後の大田垣蓮月こと大田垣おのぶ(お誠)は寛政三(1791)年、京都で生まれた。父は津藩藤堂家の一門、藤堂新七郎(禄五千石)。母は三本木の花街の芸妓。新七郎は名門の出とされる芸妓に産ませた赤子の始末に窮し、碁友達である知恩院の寺侍・山崎常右衛門を頼った。子細は詳らかでないが、山崎はその赤子を己の養女とした。
彼は因幡国鳥取の百姓の生まれ。都に流れてきて三年、大変な苦労の末、伝手を頼り知恩院門跡の家来となり、郷里から妻子や母を呼び寄せた。赤子は乳母の乳をよく吸い、大層元気で、乳児の頃から筋肉の動きが尋常ではなかった。まもなく、知恩院の本坊から呼び出しがあり、常右衛門は世襲が叶う「御譜代」の身分を仰せつかり、臨時雇いではない本当の武士に昇格する。藤堂の若様が口添えしたに違いなかった。
知恩院は特殊な寺で、徳川の京都での出先機関視されるほど、幕府と密接。家康は天下の権を握ると、浄土宗総本山の知恩院を庇護し、壮大な建造物に仕立て上げた。藤堂家は徳川氏の重要な配下として西国方面で活動し、知恩院にもそれなりの影響力があった。
おのぶを抱きながら、常右衛門は余慶を感じ、妻共々この女児をいとおしんだ。田舎出の情の深い、この夫婦に育てられたことは、おのぶにとって幸運であった。おのぶは成長するにつれ、大人たちを驚かせた。容姿の麗しさが人目を惹きつけるばかりでなく、何をやっても、ずば抜けている。筆を持てば美麗な文字を書き、五歳で文章を書き始め、六歳になると大人顔負けの和歌を詠んだ。
おのぶが居た界隈、知恩院門前町には文人が多く居た。つい先頃まで池大雅が住み、この頃は上田秋成という変わり者の老人が出現。気難しそうだが、子供には優しい。おのぶが和歌を詠むと知ると、この『雨月物語』を書いた天才文章家はにっこり笑い、本当に丁寧に添削してくれた。これ以上の英才教育はなく、おのぶの詠歌はたちまち上達した。
それだけでなく、美少女のおのぶは驚くべきことに撃剣を好んだ。しかも、恐るべき腕前に達した。兄の千之助に剣術を習わせようとすると、八つも齢下のおのぶが稽古に付いて行き、見よう見まねで棒を振り始めたのだ。常右衛門が千之助に稽古を付けてやっていると、必ず傍らに来て「えい、えい」と愛らしい掛け声で木刀を振った。
おのぶが七つになろうとする時、伊賀上野の実父から対面したいと報せがあったが、羞恥心から幼い彼女は断ってしまう。が、しばらくして実父の訃報が伝わり、おのぶは悔やんだ。(病身の父は、生前に一目会いたかったのだろう。何という酷いことをしてしまったのか)自責の思いが生涯、心の傷となって残った。
実父が死んでしまえば、おのぶの人生も大きく変わらざるを得ない。八歳になった彼女は武芸でも、学問でも、群を抜いていた。養父の常右衛門、改め大田垣光古の唯一つの望みは、おのぶの才を存分に伸ばし、幸せを掴ませることであった。
名門の出とされるおのぶの生母は産後ほどなく、丹波亀山の御家中に嫁いでいた。光古はおのぶを呼び、委細を伝え、大名の奥向きに奉公して諸芸を磨いた方が良い、と懇々と説いた。八歳のおのぶは自分の運命と向き合い、亀山城に入っていった。以後の経緯は全く伝わっていない。母子が出会えたどうかさえも。城中へ奉公に上がったおのぶは、凄まじい勢いで諸芸に励んだ。和歌は勿論のこと、舞い、裁縫など一通りの女の技を身に付け、人に教えられるほどになる。十歳、十五歳と長じ、容姿は益々美しくなり、人目を惹いた。
ところが、間無しに「あれは駄目じゃ、男勝りに過ぎる」となった。とにかく、武芸修業は凄まじかった。薙刀ばかりか、剣術は基より、鎖鎌まで始めた。やたらに御馬屋へ行きたがると思えば、いつのまにか、馬にまたがって稽古をしている。極み付きは竹竿。それを使い、城の塀を乗り越える稽古をする姿に、城中の女たちは呆れ果てた。
こんなふうでも風雅な歌を詠み、ただ座って黙っていれば、誰よりも気品に満ちているのだから始末に負えない。そして、養家の方でものっぴきならぬ事情が生じていた。おのぶが奉公に出ていた間に、嫡子・仙之助が二十歳で夭折してしまったのである。最愛の息子を亡くした母は、すっかり憔悴し、三月経たぬうちに後を追った。
跡取りがなくては、大田垣の家は絶えてしまう。伴左衛門は伝手を頼り、遠く但馬の在から同族の少年、天造改め直市を連れて来た。少年の瞳は沈んだままで、ひどく虚無的。おのぶは馴染めず、心が繋がらない。その矢先、養祖母が死に、大田垣家に女手が無くなる。おのぶは亀山の城から連れ戻され、「祝言を挙げよ」と養父に迫られた。
妻子を失った養父がいたわしく、孤独な直市に多少の同情もあった。こうして、おのぶ(蓮月)は祝言を挙げた。本より洛東では評判の美人。花も恥じらう十七の年頃、花嫁衣裳に身を包んだ可憐な美しさは、後々まで語り草になるほどだった。が、当のおのぶの中には、もやもやが残った。ときめくものが少しもなく、先行きの不安ばかりが湧いて出た。
直市との暮らしは地獄であった。彼は「家門の職務を勤めんともせず、世に稀なる才色艶美なる妻女を袖にして、朝夕、放逸、怠惰に身を持ち崩し、悪友に近づいて、博打に耽り、酒色に溺れ、果ては養父と口論し、妻のおのぶに暴力を揮った」と伝わる。
夫の裏切りに、おのぶはひたすら堪えた。が、それも良くなかった。我慢すればするほど、貞婦として振る舞えば振る舞うほど、夫の直市は軽蔑されていると感じ、遊びが激しくなり、遂にはおのぶを殴った。直市は生来、出来が良くなかった。養子先に居たのは都でも名だたる才色兼備の女子で、藤堂家五千石の血筋というから、到底敵わぬ相手だった。
夫が荒んでいく理由が判るだけに、おのぶは心を痛めた。(また、子供でも産まれれば、少しは落ち着くのでは)。淡い期待を込め、時々、求めて来るままに直市に体を委ねたが、結果は同じ。二十の時に女の子が産まれたが、可愛い盛りの二つで死んだ。二十二でまた女子を得たが、四つを数えたところでまた亡くした。その度に、夫の生活が益々荒んだ。
直市の目は一層暗く沈み、体の調子もはかばかしくなく、知恩院の勤めも怠りがちになってきた。さすがに、養父もこうした婿養子を連れてきた己の非を悟り、「離縁せねばなるまい」と言った。だが、おのぶは止め、「後一年半だけ、待って下さい」と取りすがった。しかし、知恩院との関係は待った無し。おのぶはとうとう折れて離縁を承知する。別れた直市は兄の居る大坂に下って行き、ほどなく廃人同様の死を迎えた。
こうした中で、おのぶの心を支えてくれたのは和歌であった。二十五歳にして、養父と二人だけの暮らしとなったが、この頃からまた、歌学の教養をしっかりと積み始めた。住まう知恩院界隈には学者が多い。中でも気になって仕方がなかったのは、子供の頃に少しばかり手ほどきを受けた上田秋成。おのぶが祝言を挙げた頃には七十を過ぎ、両眼は光を失い、手足を不自由にしていた。おのぶはこの老人から、歌について幾つかの言葉を聞いた。
その頃、京師の歌壇で一世を風靡し始めていたのは、香川桂園(景樹)であった。しかし、秋成は「歌の狂なるものじゃ」と偽物視した。「歌はことわりに非ず、調ぶるものなり」。香川の歌は口調の良さに重きを置き、人の思いを陳述することを軽んじている、と断じた。秋成は亡き小沢蘆庵を引き、「わしの魂の友、歌を学ぶなら蘆庵に学べ」と言った。
この蘆庵も変人。世辞を一切使わないから、いつも貧しかった。浪人になってからは、仕方なく人に和歌を教えて暮らした。本居宣長が「当代きっての歌人」と保証し、束脩(月謝)の実入りも多かった。豪商三井家の人々も入門したが、自分が重篤の病に臥した時、ただの一度も見舞いに来なかったと咎め、この一族を一挙に破門した。世間はそれを変人と見た。そうした逸話を聞くにつれ、おのぶは既にこの世にはいない変人に興味を感じた。
おのぶに再婚話が出たのは、夫と別れて四年目の春のこと。既に二十九になっていたが、若々しい美貌を保ち、涼やかな立ち姿は二十過ぎの娘にしか見えない。が、破鏡の悲しみを知ってしまい、どこの誰とも再び偕老の契りを結ぶ気にはなれなかった。
父は六十五歳を迎え、めっきり衰えた。知恩院御譜代の寺侍としての勤仕が、老いの身には辛いらしかった。(私さえ堪忍すれば・・・)おのぶは思い定め、父の隠居につながる婿養子との縁談を呑む覚悟を決める。父は慎重の上にも慎重を重ね、婿を選んだ。
<井伊掃部頭御家中、石川重二郎>が新しい婿。父が見込んだ通り、優しい男だった。慶長元和の「井伊の赤鬼」の荒々しさは微塵もなく、蒲柳の質とも言うべき華奢な体つき。慈愛に満ちた微笑みの美しい青年で、万事に控えめながら卑屈なところはない。
父と重二郎は実の親子の様に仲睦まじく、おのぶも夫婦の幸せというものを初めて知った。が、不幸の翳はどこまでも付いてきた。結婚四年目の春、夫はこほこほと不審な咳をし始め、床に臥す。六月の末に臨終を迎え、三十三歳のおのぶは再び寡婦となった。
初出:「ピースフィロソフィー」2024.5.29より許可を得て転載
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