監督・脚本ジョナサン・グレイザー映画「The Zone of Interest 関心領域」 (2023年/アメリカ・イギリス・ポーランド/105分)を観て
- 2024年 6月 4日
- 評論・紹介・意見
- アウシュヴィッツ映画「関心領域」松井和子
1978年夏、私は夫とともにデンマークへの旅の途中、ポーランド・オシフィエンチムにあるアウシュヴィッツ強制収容所跡を初めて訪れた。
その記憶を呼び起こす映画「関心領域」(原題:The Zone of Interest)が5月24日から全国で公開されている。映画はアウシュヴィッツ強制収容所に隣接、塀を隔てて暮らす収容所所長ヘス家族の物語である。
ヘスの妻が理想とする自然豊かな素晴らしい庭園のその家で、戦争さなか家族愛に満ちた暮らしが日々営まれている。
相反する生活を隔たてた壁か雲か、低い音に包まれ流れる画面・・・、小鳥の声、川の流れ、風の音が二つの別世界を包んで流れる。
子どもたちを大切に愛する夫婦と親元で元気いっぱい楽しく暮らす子どもたちの姿、有刺鉄線の塀の向こうの監視塔や煙突から絶え間なく流れる黒い煙・・・、時折ピストルの音。妻は収容所女性から奪った毛皮の外套を嬉しそうに羽織り鏡に映す・・・、それを得たことは当然のこと、持ち主がガス室に消えようが何も感じない・・・、同じ人間と意識していない。
アウシュヴィッツ強制収容所の門にある「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」。その奥にレンガ造りの建物が連なる。収容者一人ひとりが番号を刻まれ、前と横向きの顔写真。補装具・メガネ・髪の毛・靴・カバン、ガラスの向こうにうず高く積まれている。持ち主はガス室へ、その奥には焼却の窯が並んでいた・・・。
映画では、そのガラスを磨き、ガス室の床を掃き、焼却炉の掃除を淡々とする人たちがいる。何も言わず、顔に出さず、日常が流れていく。
アウシュヴィッツに行くには、ウクライナと陸続きの国境の街、昔はそこからオスマントルコが攻めてきたという中世の風情が残る街・古都クラコフからバスに乗って1時間ほど。アウシュヴィッツ収容所の近くには第2の収容所、広大なベルケナウ収容所もある。押し込まれ運んだ列車はそのまま続く引き込み線で門の中に入った。息子たちと再度訪れた時、私たちはその奥で鹿に出会った。
ユダヤ人、政治犯、障害者たち・・・、同じ人間とみなされず貨車に詰め込まれ集められた人、人、人・・・。どうやったら効率よく片づけられるか、ヘス所長のもとで協議が続く。二つのガス室を交互に稼働させ効率よく成果を上げる技術を企業主が説明する。技術も武器も先進的なアイディアは金が儲かる。グローバル化した今の時代もそのまま、同じではないのかと頭をよぎる。
アウシュヴィッツ強制収容所跡からワルシャワに戻り、デンマークに向かった私の身体は悲鳴を上げていた。身体の中で出血が起こり、下血が止まらなくなった。目の前が暗くなり、立っていることができなくなった。
アウシュヴィッツで目にしたことは、人間としての生き方を否定する、希望を根こそぎ奪う行為だった。
何が、こうしたことを引き起こしてきたのか。人びとが愛するルーツ、煽られた蔑視が利用されている。
世界では今も、戦争、人殺し、偏見、差別、いじめ・・・が後を絶たない。その根底には、人種や民族蔑視、格差による支配などが見られる。
人間の価値とは何か、同じ人間として見ることができないのは何故か。隣人に、自分の意識も生活も関係を感じないことは何故起きるのか。
西側諸国主導で進んできた我々が生きてきた時代。この世界はどこに向かうのだろう。国という概念や国民という意識は現実的には以前と変わってきていると思える。戦争しようがしまいが、人びとは平和を望み、希望を求め、移動し行動する。何と言われようが人と人、対話をし、相手が同じ人間であることを理解しあって、お互いの生活ために考える人間でありたいと思う。
それが問われる、考えさせる映画であった。
20240531
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