日本は本当に「民主主義国家」なのか?(その1)
- 2024年 6月 28日
- 評論・紹介・意見
- 「民主主義国家日本」?合澤 清
「民主主義」「自由」を守れ!という大号令の下で、実際に行われているのはその真逆のことではないだろうか?公的文書の破棄(密約、裁判の証拠、など)、黒塗り、改竄など。一方で、国民一人一人の人権は全て掌握したいという動きがある。その反面で、国家機密の強化という密室政治が行われている。
今日のような管理・監視社会の強化の中で、権力は一体何を守ろうとしているのだろうか?
自分の直感や常識(狭い了見)にだけ沈潜(閉じこもり、そこに止まる)していては、結局は「見れども見えず、聴けども聞こえず」になりかねないのではないか。例えば「錯覚(思い違い)Sinnestäuschung」とか「報道統制」「ニセ情報」をどう見抜いていくかということが大事なのではないだろうか。つまり、われわれの日常は、自分の現存在を偶然与えられた環境の中だけで、無自覚に生きているにすぎないのではないだろうか。「汝自身を知れ」ということは、自分の存在を規定している諸関係を対自化(意識化)することに他ならない。ここに「自主性」(自由な主体)が成立する。
「自己意識」へ→ニュースはただ聞き流すだけで終わるのではなく、考えることが大切。例えば、「ガザ問題」。「どうしてハマスは、格段に武力の差があるイスラエルに攻撃を仕掛けたのか、当然壊滅的な報復がありうることは予測できたはずだ」→ちきゅう座掲載の平田伊都子の「西サハラ最新情報」2023.10.14の記事にこういう紹介が出ている。
「あの、高名なイスラエル・スパイ組織のモサドが、本当にハマスの軍事攻撃を知らなかったでしょうか?
10月8日のワシントンポスト紙のコラムニスト・デヴィッド・イグナテイウスが、「ハマスの攻撃をイスラエルは知っていた」と発表し、10月9日の<Times of Israel >は、エジプトは攻撃以前に何度もイスラエルに警告していた」と報道し、10月11日に米下院外交委員会に属する共和党のマイケル・マッコールが、「ネタニヤフはハマスの軍事行動を知らされていた」と、暴露しました。 」→イスラエルの狙いは、「ガザ占拠とイスラエル領土化」あるいは「ハマスを含むパレスチナ抵抗勢力=パレスチナ民族の虐殺」ではないか?そのために綿密に練り上げられた米国とイスラエルの作戦に、ハマスはまんまとはめられた、とも考えられうる。要は、いったんは「すべてを疑い」ながら、報道されている情報と逆の情報などにもあたりながら、自分の頭で考えることが必要ではないだろうか。
(「事実の客観性」「報道の中立性」とは、という議論はここではいったん留保します)
今述べたことを、今日の情報化社会と結びつけるとどうなるだろうか。
「政府はデジタル化によってますますデータを吸い上げる回路を広げ、アナログ時代には考えられなかった範囲の情報を紐づけている、…私たちは同意もないままに、自分のデータがなんにどう用いられているのか、悪影響をこうむるその瞬間まで、ほとんど知ることができない。…統治する側は監視によって統治される側の変動の動きに介入し、変革を頓挫させ、永遠に権力の座に居座り続けることができる。」小笠原みどり『スノーデンファイル』(p.220)
われわれ自身も知りえていない(つまり自覚していない)われわれの「実体」(「虚偽実体」という意味を込めて)を、権力が掌握するという構図が出来上がりつつあります。
これは、マイナンバー制度が施行されることで、国民全員への監視体制は完成し、思想、信条、から過去の家族構成、個人履歴まですべてが監視・管理される。新たな身分社会の固定化につながる。われわれ一般人の人生は次のシェーマにすっぽり収まって、国家権力「お墨付き」の、以下のような既成事実化した≪正しい人生(生涯)≫を終えることになる。
今日一般のライフサイクルとライフイベントの概念図(翁邦雄『日本銀行』より)
20~40歳/結婚(結婚資金)/入社、転職、起業
20~65歳/子供の誕生(出産費用、教育資金)、住宅取得(購入資金準備)…住宅リフォーム(リフォーム資金)、老後資金準備
少々話題を変えて、日本における社会変革運動の困難さについて少し考えてみたいと思います。かつての60年代、70年代などと違い、上で触れたように、管理・監視社会の一層の強化の中では「お上への反抗」は極めて難しくなってきています。また、われわれの「常識」=価値観さえも教育や環境を通してお上に都合よく作られてきています。その結果、以下でも述べるように、闘う側の運動(大衆運動)の一層の弱体化という大きな問題が持ち上がることは言うまでもないことです。無抵抗なままで、ファシズム支配に飲み込まれてしまう、諸個人の悲劇を描いた名著、フランク・パヴロフの『茶色の朝』(大月書店2003)を是非一読願いたい。
そういう諸個人に課せられる主体的な条件をひとまず置いたとしても、今日、実践活動を考えるうえで、次のことは今やどうしても考慮せざるを得ない重要な要因だと思われます。第一の要因は、対米関係です。今や日米は一枚岩と考えるべき情況にあると思えます。日本の社会変革運動は、アメリカ本土(あるいは、その連合国=英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)の運動と同時並行的に進めなければ不可能な状況にあるということです(昔の言い方では、「世界同時革命の時代」の現実性)。第二の要因は、われわれがあまりにも、現実の国家運営制度、機構に対して無知であることです。それは、うわの空で「変革」や「革命」を唱えてみても、それだけでは「空念仏」に終わりかねないということです。例えば「革命的な変革可能な状況」が仮に起きたとしても、日常生活の「秩序回復」(医療や生活保障などの諸々)という圧倒的な庶民の原状回復(=秩序派的な「反革命」)の動きの中で、押しつぶされてしまう可能性のことを意味しています。官僚機構の掌握が問題ですが、われわれ自身、普段の生活の中では、自分たちの実生活と、「国家予算」などとを切り離して平気でいるのが現実です(例えば、各地での大震災後の処理の混乱、あるいは「福島原発事故」後のもたつき、などを考えればわかると思います)。つまり、これらの経験を通して〈日常生活と闘争の永続化(長期化)を絶えず準備する必要性、あるいは二重権力の時代を考える必要があるのではないだろうかと思います。〉大学闘争中でもバリケードの中でささやかながら「自主講座」をやっていたし、三里塚闘争では「野戦病院」が作られ、一流の医者が無償でけが人を治療していました。つまり、二重権力状態において、こちら側の日常生活の保障を考慮する必要性を強く訴えたいと思います。要は自分たちの手に「統治能力」を獲得していくことが大事だと思います。
〈時代(時間)はものすごいスピードで進んでいる。かつての一年は、今や10年以上に匹敵する。〉ということはかつて廣松渉によく言われたことですが、今や時代のスピードはその時を倍している。
さて、話を戻して、「民主主義」「自由」をただ抽象的に問題にするのではなく、先ほど述べたこと、「権力は一体何を守ろうとしているのだろうか? 」ということを手掛かりに考えていきたい。
国家は国民のためにあるのか、国家はいざとなれば国民を救済するのだろうかか?
この問いかけに対する答えは、おおむね「否」(No,Nein)であると思う。旧満州からの引き上げ開拓民の悲劇、沖縄の過去と現在に至るまでの犠牲の大きさ、「三里塚」の一方的な破壊、一切の約束事を反故にしての「福島原発汚染水放出」、「チッソ=水俣病などの公害裁判」、「大震災後の復興状況」の後回し、等々を考えればすぐに思い当たる。また、かつて経済学者の金子勝が、「自分のゼミに参加している学生に、将来年金がもらえると期待する人がいるかどうか」と尋ねたところ、誰もいなかった、と話していたのを思い出す。
われわれにとって「国家」とは何なのだろうか?
ホッブズでは、国家は「リヴァイアサン」であり、「人工物」であった。M.ヴェーバーでは、「未来の隷属の容器」とは社会のことになる。
ヴェーバーの「機械的化石化」の進展ということに関しては、ヘーゲルがすでに『エンチクロペディー』や『法哲学』の中で次のようの述べている。「人間は、自らが機械を使って自然を…加工することによって、彼の労働の必要性を止揚するわけではなく、労働を先延ばしにし、自然から切り離し、…人間に残る労働自身はますます機械的になっていく。人間は労働を減らしたとしても、それは全体のために減らしたにすぎず、一人一人にとっては減らしたことにならないどころか、むしろ増えていくのだ。なぜなら労働が機械的になるにつれて、その価値も減少してゆき、こうしたやり方で人間はますますたくさん働かねばならなくなるからだ」(Enc.§526)
「死んだ労働」…「ひとりひとりの個人の技能は、限りなく狭いものとなり、工場労働者の意識は、極度にすり減った状態に至る」「盲目の従属関係」「個別化」(『法哲学』§190,191)
諸個人の「自由なる活動」と共同社会の形成、という点に関するヘーゲルの考えは、個人の完全なる自由の実現は共同体の完全なる実現と一致するというものである。そのためには個人の「野放図な自由」に依拠するのではなく、社会的なルール(制約)がどうしても必要になる。しかし、その制約はフィヒテ的な「強制」Zwangであってはならない、それは個々人における「抑制」Bezwingenでなければならない、という。個人の「自由意志」と「一般意志」の統一に基づいた「抑制」、これは社会の永続的、歴史的な展開の中で培われるべきものではないか、と私は考えている。
関連して廣松渉が次のように書いていることは興味深いのでご紹介しておきたい。
「ヘーゲルは市民社会〈悟性社会〉が労働の場での矛盾に因って、一方の極における富の過剰蓄積と他方の極における貧困化の進捗、労働大衆の被救恤民化をもたらすこと、そこで、この悟性国家は福祉行政や植民政策などを採るがこれによっても矛盾を解決できないこと、さらにはコルポラチオン(同職団体制度)によっても市民社会の内在的矛盾を克服できないこと、これらのことから推して、市民社会そのものを止揚して人倫的共同体たる理性国家を確立することが必然的な要件である所以を説く。」
なお、廣松さんは別の個所で、「理性国家」という場合には「国家」などという枠を取っ払ってもよいはずで、そうすればこれは「共産主義=コムニスムス」ということになるのではないか、とも書いています。
「国家論」に関する議論はそれこそ無数にあると思います。筆者がこのところ関心を持ったのは、ヘーゲルを除けば、ほんのわずかで、ホッブズ、ジョン・ロック、ローザ・ルクセンブルク、そしてハンナ・アーレント、さらに歴史をかなり遡ってメソポタミア文化(シュメール)、中国の殷、周、春秋・戦国時代、ギリシア・ローマ時代、それと日本の古代社会(網野善彦)程度です。いくつか簡単な書評を「ちきゅう座」に書きましたが、これらを主題的に扱おうとすれば、それだけで大変な作業になると思いますので、ここではやりません。
私の素人理解の範囲では、近代の「国民国家」は市民社会、ブルジョア社会の発展(展開)に伴って出現し固まってきたように思います。ご存じのように、ホッブズは国家を人々の間の契約に基づく「人工物」として描き出し、それがさらに「リヴァイアサン」というとてつもない怪物にまで成長しうるという危機感も予測しています。彼は『ビヒモス』という本も書いています。序ながら、リヴァイアサンとビヒモスとは、「旧約聖書」に出てくる怪獣です。
「ユダヤの終末論-バビロニアに起源を持つ-においては、ビヒモスとリヴァイアサンは二つの怪物で、ビヒモスは陸(砂漠)を、リヴァイアサンは海を支配し、前者はオス、後者はメスであるとされている。陸にすむ動物たちはビヒモスを、海に住む動物たちはリヴァイアサンを自分たちの主として崇める。いずれもカオスの怪物である。黙示録によれば、ビヒモスとリヴァイアサンは世界の終末直前に現れることになっている。そして彼らは恐怖の支配を確立する-が神によって滅ぼされることになる。」フランツ・ノイマン著『ビヒモス-ナチズムの構造と実態-』
これらの国家権力の問題に絡ませて、今話題になっている自民党の「裏金づくり」事件を考えると、いよいよもって不気味な世界の容貌が浮き彫りになってきます。
小笠原みどりが『スノーデンファイル』の中で、「遡及的免責」というとんでもない法律解釈について触れています。こういう法解釈が不断にまかり通れば、これは紛れもなくヒトラーが大統領のヒンデンブルクから与えられた「全権委譲権」と同等です。時間をさかのぼって、判決を「無罪から有罪へ」また「有罪から無罪へ」と権力の思うがままに変更できるという制度(法解釈)です。これではなんでもありです。
三権分立などという形式的な「民主主義」は、絵空事にすぎず、その実態は「ブルジョアジーの支配」に他ならないことが、危機の時代においては赤裸々に出現します。後でいくつか例示したいと思いますが、カントの「永久平和論」(社会契約論にすぎない)の甘さは、ヘーゲルが指摘しているように、形式的「民主主義」への幻想でしかないと思います。(例えば、国連の現状やG7首脳会議などを考えるとわかります。またブッシュの起こしたアフガン、イラクへの攻撃を考えた時、イスラエルへのハーグの国際平和(国際法)判決の無力さがわかると思います)。
権力による司法の私物化の例として、ノイマンが挙げている政権と軍部と司法の結託を紹介しますが、その前に、ほんの少しだけ、ワイマール共和国について生松敬三が書いているものを紹介します。
「「ドイツ革命」はあらゆる革命のうちで最も奇妙な革命であったと評される。それは、平和とブルジョア民主主義を望み、決してそれ以上のものを望んでいなかった大多数の民衆が蜂起して、まさしく休戦、講和の実現のために登場し議会主義への変革を実行したバーデン公マックスの内閣を倒し、しかもその後は「革命」を忌避する社会民主党のエーベルトの内閣が社会民主党の急進部分、スパルタクス団による社会革命への方向を旧国軍の力を借りて圧殺することによって、極めて反革命的な仕方で成就された革命であったからである。そこに生まれたのが「ワイマル共和国」であった。」『両大戦間のヨーロッパ』生松敬三著(p.24)「人間の世界歴史」13 1981
ノイマンの例示したものに返ります。日本の戦時中の「超越法=治安維持法」を考えて下さい。
「反革命の中心に立っていたのは司法部であった。司法部の裁定は法律にすなわち正義や悪に基づく。だからこそそれは遍く世に認められるという立場を常に享受するのである。…政治目的のために法を悪用する技術的な可能性はあらゆる法体系に一般的に存在する。…三つの「有名な裁判」を比較分析すれば、ワイマールの刑事裁判所が反民主主義的陣営の重要部分であったことが判る。
1919年のバイエルン・ソヴェト共和国が崩壊して以後、裁判所は次のような判決を下した。
重禁固刑…407人
禁固刑…1737人
重労働…65人
この失敗した一揆に少しでも関係したソヴェト共和国支持者はすべて刑を宣告された。
1920年右翼カップ一揆に対する司法部の処遇…一揆後15カ月たって、1921年5月21日に、連邦司法省は総計705人の大逆財の告訴はすでに審理完了したと公表した。705人のうち、412人は裁判所の意見に基づき、1920年8月4日の恩赦法-この法律はその規定から一揆指導者を特に除外していたにもかかわらず-適用された。
108人は死んだり、その他の理由で立ち消えになった。174人はあえて言及されなかった。11人は審理未了であった。誰一人として罰せられなかった。…ルーデンドルフ(第一次世界大戦中のドイツの参謀総長)は単にそこに居合わせたのだという彼のアリバイを受け入れることを裁判所が選んだので、起訴されなかった。
第三の重要な例証は、1923年の流産に終ったヒトラーのミュンヘン一揆に対するものである。ヒトラー、ペーナー、クリーベル、ウェーバーは5年の刑を、レーム、フリック、ブリュックナー、ペルネット、ワグナーは1年3カ月の刑を受けた。ルーデンドルフはまたもや、単に偶然居合わせたにすぎなかったという理由で釈放。」(p.27)(フランツ・ノイマン:同書)
日本でも同じことが行われていることに十分注意すべきだと思います。安倍政権下での政界と司法界の癒着、砂川闘争判決(伊達判決)への「跳躍上告」(田中耕太郎最高裁長官)、衆・参議院選挙腕での不平等「合憲」裁決、原発汚染水の放出、そのほか政治裁判への最高裁判決のいかがわしさ―明らかな政権擁護判決。
ここに示したほんのわずかな事例からだけでも、日本という国は「本当に民主主義国家なのだろうか」という疑問が出てこざるを得ないのではないだろうか。
しかも今日では、「日米安保条約」や国連平和協定やTPPなどが外から超国家的に日本国憲法に縛りをかけていることにも十分注意する必要がある。例えば、自衛隊の海外派遣(PKO)である。「国連軍として」という名目(PKO協力法1992年成立)で、日本国憲法第9条を超越した取り扱いがなされたこと、憲法と「安保」の関係。司法判断(最高裁判決)からは中立性などおよそ考えられないように思える。最近では、沖縄基地の「辺野古への移転」問題に関連して、沖縄県の決定(地方自治権)が無視される判決結果が生まれている。古くは砂川闘争の「伊達判決」と最高裁(長官・田中耕太郎)への跳躍上告と判決(1959年12月16日「アメリカ軍の駐留は憲法に違反しない」=既成事実化)に明確にみられる。
いま一つだけ、チャルマーズ・ジョンソンの『帝国解体―アメリカ最後の選択』から次の引用をして、とりあえずいったん筆をおきたい。
「『駐屯軍隊に関する法律のハンドブック』(The Handbook of the Law of Visiting Forces)によると、…日本では2001年から2008年までの間に3184名のアメリカ軍関係者が犯罪を犯しており、そのうちの83%は起訴されていない。イラクでは、アメリカは日本と戦後最初に結んだ地位協定に非常によく似た内容のものに調印した。つまり、非番時の犯罪で告訴された軍関係者及び軍請負契約者は、イラクが取り調べている間は、アメリカ当局に拘留されるというものだ。これは勿論、容疑者が起訴される前にひそかに国外に出す絶好のチャンスをつくることになる。」(同書p.208)
「横須賀海軍基地に停泊中の航空母艦キティーホークから下船した水兵にレイプされたあるオーストラリア人女性教師の調査から、1953年10月に、日米両政府が地位協定の一部に犯罪が「日本国にとって重要」でなければ司法権を放棄するという秘密の「合意」があったことを見つけ出した。アメリカはこの補足「合意」の締結を強く主張した。そうしなければ、年間350人もの兵士を性犯罪で日本の監獄に送り込むことになりそうだと心配したのだ。それ以来、アメリカは地位協定において、同様な文言の補足を、カナダ、アイルランド、イタリア、そしてデンマークとも交渉した。…日本でのやり方が世界中の地位協定の標準となり、その結果は予測できるものだった。」(同書pp.207-208)
言うまでもなく、圧倒的な犠牲者は沖縄で出ている。
グローバリズム、「市場」万能主義=新自由主義、管理・監視社会、国民の「民主主義的権利」の消失、等々の問題についてはまた改めて考えていきたいと思っています。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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