リハビリ日記Ⅴ 49 50
- 2024年 6月 29日
- カルチャー
- 八木秋子阿部浪子
49 母子福祉の先達、八木秋子
街路樹のなかで1番の人気者はハナミズキだそうな。ここは海沿いの浜松だ。空気がきれいなのであろう。白い花をつけたハナミズキの姿は楚々としている。濃いピンクのツツジの花も色あざやかだ。大通りは旬の花々が咲きそろっている。
2016年2月まで、わたしは新座中央通りに住んでいた。鉄筋のアパートの5階。街路樹の、ハナミズキとコブシの花々は、年年減っていった。車の排気ガスのせいであったか。冬になると、喘息に悩んだものだ。しかし帰郷すると、その咳はぴたりとやんだのだった。
リハビリ教室「健康広場佐鳴台南」の送迎車の運転は、岩本先生である。背が高くて肉づきのよい介護士だ。足の大きさがちびのわたしと同じだとわかる。びっくりした。
発症して最初に担ぎこまれた病院の若いレントゲン医師が言った。〈この人は5歳ころまであまり歩かなかったでしょ〉モニターを見ながら独り言のようにつぶやく。よく、わたしは叔母の曲がった背中におんぶされていた。叔母は結婚に失敗して実家にもどっていた。その背中はごつごつした。居心地のいいものではなかった。叔母は子守りしかできなかったのかもしれない。わたしは長じて町内のリレー選手になったが、運動場のカーブのところで転んだ。5歳までの歩行訓練がなんといいかげんなものであったか。医師の忠告はおそすぎる。
傾斜台トレーニング。台の上に立って30秒間静止する。そわそわしない。ちぢこまったふくらはぎは伸びてくる。背すじもおのずと伸びる。〈伸びた感じがなければ傾斜の角度を変えますよ〉と伊藤先生。伸びれば気持ちがいい。落ちつく。
ベッドの上のストレッチ運動。清水先生の指導だ。両ひざを立ててお尻をもちあげる。〈脚に麻痺があるのに。よく上がってます〉さりげない褒め言葉がうれしい。
継続は力なり。肝に銘じている。
*
初めて会った八木秋子は、紺色のロングスカートをはいていた。小柄な人だった。背が半分くらいに曲がっている。東京都養育院1階。老人ホームだ。個室ではない。相部屋だ。秋子は「アナーキスト」のいかめしさはなかった。明治28年生まれだから80歳をすぎている。さびしげだ。
往復はがきの回答には、平林たい子についてくわしくないという。しかし、わたしは会いたかった。「女人藝術」に寄稿する女性活動家の八木秋子に。「作家、八木秋子」という認識はわたしにはなかった。
2か月が過ぎたころ、秋子はNHKのテレビ番組に出演した。ほかの数名とともに。メーデーの歌をうたう。が、あまりの緊張のためか秋子は途中でつかえてしまう。テレビの前でわたしははらはらする。
翌朝、電話がかかる。〈あんたがねえ心配してくれて〉その礼が言いたいのだそうな。律義な人だ。秋子は応えてくれる人だった。林芙美子の接吻にかんする門外不出の話にしても、秋子の応えたいという気持ちからだったと思う。
秋子の小さなからだには、80年余の思い出がぎっしりつまっている。どの切り口から尋ねても答えられる。ある日こう言うのだった。〈あんたは口が重いけど聞き上手だね。うっかり話してしまいそうになる〉と。行動の人は思考の人だ。その引き出しは整理整頓されていた。しかし、農村青年社運動の活動資金のことや、離婚後の日本林業史研究者、所三男との熱愛についても、頑なに沈黙した。
秋子には書く題材はあった。しかし書かなかった。アナーキスト、宮崎晃のことなど、女性解放の視点でなぜ書かなかったのか。単なる記録としては書きたくないと秋子はいう。自然主義の手法を克服したい。自己と生命の噴出の表白を書きたい。創作として書きたいと願うのである。
ちょうどそのころ、ある青年と出会い『八木秋子著作集』全3巻(JCA)の刊行の計画のさなかにあった。すでに個人通信は発行され、秋子は過去について書いていた。
著作集を読めば、秋子のそれまでの行動、精神、思考、挑戦とその推移の軌跡は浮上する。「社会福祉の方面に理想を燃やしたとき生き生きした」と、秋子は書く。自分の関心は、戦前は社会運動にあり、戦後は社会事業にあった、とも。
戦災者、引き揚げ者、孤児などを収容する施設の職員になる。母子寮の寮母にもなった。病院で調理の下働きのアルバイトもした。これらの見聞や体験を生かし、秋子は「母子更生協会」を設立するのだった。会員を募る。彼らに職業、内職を紹介。物品の共同購入を支援する。具体的に母子たちに共鳴する。貧者、弱者と交流する。秋子は生きがいを感じるのだった。
50 八木秋子、老いらくの恋
4か月がたつ。あの日、10畳間の電灯の傘が大揺れに揺れた。1月1日午後4時18分。家内には誰もいない。ポッケトラジオが鳴りだしていた。逃げてください。早く安全な場所に逃げてください。地震警報の女性アナウンサーの声。とつぜん涙がほとばしりでる。能登半島地震。怖かった。
13年前の3月は新座にいた。アパート5階。大揺れに揺れた。東日本大震災のときと今回の揺れはおなじくらいだった。
金沢に住んでいるゆきえさんは、どうしているだろう。法大時代の同級生だ。
もう1人、拙著の装丁をしてくれた中野多恵子さん。メールで尋ねてみた。帰省中の地震だった。実家は無事だったと返信があった。
*
八木秋子は恋多き女だった。『八木秋子著作集』を読めば、老女の恋物語が展開する。秋子64歳。5歳年下のかれ、高田博厚は、長尾市出身の彫刻家だ。26年のフランス滞在をへて帰国。東京下落合の1人暮らしのアトリエを、秋子は訪問する。90枚の手記をたずさえて。これを小説にしたい。高田との恋愛をとおして「再生」のきっかけをつかみたい。秋子は真剣だった。
高田は文筆家、翻訳家でもあった。かれの『思い出と人々』(みすず書房)を読んで、秋子は感動した。向学心を揺さぶられたのかもしれない。芸術のよしあしはその作品のあふれる気品によってきまる、と高田はいう。秋子は、従来の「反省主義と劣等感」をすてて「高らかに歌おう」とまで決意する。
秋子の執念はすごいと思う。高田はどんな表情をしていたのだろう。どんな言葉を発したのだろう。ただ、真っ赤な仕事着で製作に熱中していたのか。
2年後。ついに、秋子は「実りなき絶望」を感じるのだった。高田への手記には「命がけですべてを暴露してきた」しかし、ただ1つ、欠落させたことがあった。夫のもとにおいてきたわが子、健一郎のことだ。
健一郎とは戦後すぐに再会している。秋子は「家を出たとき、母としてのすべてを放棄した」が、健一郎は「なぜぼくをつれて出なかったか」と追及してきた。健一郎は10年後に病死。秋子の内奥にはわが子のその言葉が突き刺さっていたにちがいない。
わが子への贖罪による再生の道を、秋子は考えるのだ。自分はきょうまで社会への関心をいだいてきた。社会には刑務所に服役する夫をもつ家族がいる。性の自由で一緒になったが子どもとともに捨てられた人々もいる。そんな「不幸な母と子どものために余生を働きたい」と願うのだ。
秋子は60代の低迷から脱出する。
「根本は政治なのであろう。政治がよくならない限り、どうしてこの泥沼から彼女等をまもり得るか」「ほんとうの母と子のあり方は、すべての母と子が貧乏の苦しみから、安心して生きられる、そして人民の中に溶けこみ、そこで家族とともに自信とよろこびをもって働く社会なのであろう」と、秋子は書いている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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