水俣病が映す近現代史(5)電気事業の成長とその背景
- 2024年 7月 8日
- スタディルーム
- 水俣病葛西伸夫
【急増する電気需要】
日本で、工場の動力に電動機(モーター)が使われはじめたのは1890年代だった。当初は紡績工場から導入が進んだ。1896年(明治29年)に稼働を開始した大阪紡績鹿島工場や鐘紡績三重工場では、最初からすべての動力が電動機だった。1910年代には紡績工場はすべて電化していたらしい。
モーター動力は機械の個別駆動を可能にし、高速回転が必要な加工技術には欠かせなかった。イニシャルコストもメンテナンス性も石炭蒸気機関に比べると格段に優れていた。大正期に入ると動力電力の需要が電灯電力のそれを上回った。
また、1900年頃から電気溶接が工業界に普及したことも重要だった。軍需産業、とくに造船のような大型構造物の溶接には、電気溶接が必須だった。
日本の電気事業の成長の背景には、黎明期から普及期までに3つの戦争(日清・日露・WW1)が需要を強力に牽引したということは見逃せないが、次に述べるようなもうひとつの背景もあった。
【水力発電の変遷】
発電方式は、初めは石炭火力発電が主流だったが、日清戦争が始まって石炭が高騰すると、水力発電が脚光を浴びた。
初期の水力発電は、琵琶湖疏水蹴上発電所(1891)・白糸の滝発電所(1892)のように、天然湖や河川の水力を利用した水車式だった。しかしこのような天然水力は地形条件による設置数の限界にほどなく達した。
河川を堰き止めて人工湖を形成するダム式発電所は、投資額が当時の電力需要と釣り合わない。その点、電力需要(の少なさ)とのバランスにうまく適合していたのが「流れ込み式」水力発電であった。
「流れ込み式」とは、高低差の大きい山地を流れる河川の中〜上流部で、水流の一部を水路もしくは導水管によって分岐し、河川本流にたいして高度差のある付近まで導水し、そこから高い角度で流れ落とし発電機のタービンを回す方式であった。これは水量の少なさを落差による勢いをつかって補うという原理だった。この方式の利点は何よりも小規模の建設工事で済むということだった。参入の壁が低かったということである。
ところで、明治維新後、地租改正によって土地所有権が確立されると、貨幣経済の浸透とともに、土地所有者(地主)は土地を担保に資金を調達(高利貸し)するようになり、資産家へと成り上がる者が増えた。
流れ込み式水力発電は、投資規模やその可能性などの見地から、資産家化した地主らにとって魅力的な投資対象となった。そうして全国で起業した電気事業社は1919年をピークとして800社を数えるまでに増えた。電気事業は自由競争下ですくすくとはぐくまれたのである。大正期は平均で一年に20%の電力需要の増加があった。
電気の利用がまだ一般的ではなかった当時、電気事業者は発電だけではなく、工場や電鉄などを経営して自ら電力需要を生み出しつつ、資本の増殖を図った。そうして派生事業が成功すると、電力需要が上回り、発電所が増築された。さらにその余剰電力の利用先として新たな事業を……。と、このようなやり方は「シーソー方式」と呼ばれる。ちなみにチッソはこの方式で事業拡大した典型例である。
【送電技術】
「流れ込み式」発電が山間部で普及したが、その当時はまだ遠距離送電技術が未熟だった。初期の電気は地産地消を条件付けられていたのである。したがって、山村部周辺に[発電ー消費]が増加していった。電気の大規模消費地域となりうるはずの臨海平野部に、安価な電気が潤沢に届くまでにはかなりの時間を要した。
「流れ込み式」発電と未熟な送電技術との組み合わせが、日本の電気利用の普及を都市部に集中させずに(山と川だらけの)日本国土全体にもたらせた、と言えるかもしれない。
送電においては電圧と減衰率が反比例する。言い換えれば電圧と送電できる距離が比例する。要するに電圧(V)が高いほど遠くまで送電できる(高電圧はその他様々なメリットがある)。ただし高電圧送電とは単に電圧を上げる話ではなく、送電に関わる各装置(電線、変電装置、開閉器、碍子等)の耐電圧の問題だったので、技術の開発には長い時間を要したのである。
1899年沼上水力発電所の送電が電圧1万1000Vで開始され、22.5kmを送電したというのが日本での遠距離送電のはじまりとされている。1906年(のちの)チッソが初めて建設した発電所は1万1000Vで、当時としては珍しい高電圧だったと言われている。1907年、東京電灯・駒橋水力発電所(大月)が5万5000Vで東京へ75kmの送電を始めたのが、特別高圧遠距離送電のはじまりと言われている。
日本の国土を考えると、流れ込み発電を行う河川中〜上流部から臨海平野部までの送電を考えると、200km以上の送電ができないと遠距離送電としての実用性を発揮できない。
200kmを超える送電は、1915年、猪苗代水力発電所(会津若松)から東京まで11万5000ボルト、227Kmの送電を待たなくてはならない。これは当時世界で最も高い送電電圧で、送電距離としては3位だった。1920年代に入ると15万4000万ボルトの技術が一般化し、200kmを越える遠距離送電が次々と張り巡らされていった。
巨大なダム式の大電力発電所の建造が始まるのはそれからである。
【自由競争の終焉】
遠距離送電技術の確立とその普及とは、同時に電力の寡占化と国家管理へのプロセスとなった。電気事業社は1919年に800社を超えたのを頂点に急速に減少していく。
電力統制令 (1917年) では電力の需給調整のため電力事業者への管理権限を強化し、事業計画や電力料金を監視した。続いて電力事業法 (1925年)では電気事業(発・送・配電)を政府による許認可制とし、電力事業者の自主性は大幅に制限され、官僚主義的な管理体制が敷かれた。
1938年には電力管理法が成立し、全国の発電・送電が「日本発送電」という国策会社に一元化される。1942年には配電事業が全国9の地域別に統合される。それが戦後9社の電力会社に再編され現在に引き継がれている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1303:240708〕
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