水俣病が映す近現代史(7)カーバイドの応用
- 2024年 7月 16日
- スタディルーム
- カーバイト水俣病葛西伸夫
【20世紀の幕開けと人工肥料】
1890年代末、ドイツのアドルフ・フランク、アルバート・フランク、ニコデム・カローの三氏は、カーバイド(炭化カルシウム)に窒素を反応させ石灰窒素を抽出することに成功した。このときの石灰窒素は、苛性ソーダと反応させ青酸を製造するのに有用と考えられていた。青酸は、それを用いて金の抽出をする「青化法」がほぼ同時期に発明されていた。
ちなみに、20世紀に入ってから鹿児島の金山にも青化法が導入されている。そのため精錬排水は田圃に流れ込み、生物が全滅し、収穫も激減したという。だが農家は田圃に溜まったドベを汲んで持ち帰り、そのなかに残留している金を、自宅で青酸を使って精錬していたという。それを売って満足な現金収入を得ていたらしい。
話を戻す。1901年1月14日、アドルフ・フランクは石灰窒素が土壌中でアンモニアに変化する性質を発見し、肥料としての利用を発見した。後年、アルバート・フランクによってその日が「石灰窒素の誕生日」とされた。それほど、20世紀の幕開けにおけるその発見は、その世紀を代表するものであり、人類史に多大な影響を与えることになったのである。が、それについてはあらためて詳しく書きたいと思う。
フランク親子とニコデム・カローはそれから一連の石灰窒素製造法の特許の取得を開始し、1906年完了した。野口は新聞報道でそのことを知ったと後に言っているが、早くからカーバイドに注目しそれにこだわっていたのは、フランク・カローの研究情報を早くからつかんでいた可能性がある。野口は帝大の研究室に度々足を運んでいたらしいが、東大農学部の前身である駒場農科大学の麻生慶次郎は、1905年(明治38年)読売新聞系の農業雑誌に「空中窒素の固定の成功」という論旨で、石灰窒素の開発を紹介している。また1906年には石灰窒素を入手し、試験場で実験し肥料としての効果があることをを確認したことを発表している。野口らが、8倍もの出力をもつ第二発電所の建設を決断したのは、様々な情報から石灰窒素の実用化が確信できたタイミングだったのかもしれない。
【ベルリンへ】
1908年2月、まだ水俣カーバイド工場は建築中で、電気も届いていない頃、野口は藤山常一とともに特許取得の交渉をするためにベルリンに向かった。
フランクとカローの研究はジーメンス社とドイツ銀行が援助していた。特許の所有権はイタリアのシアナミド(Cyanamide)社に移譲されていたが、シアナミド社の資本の多くはジーメンスとドイツ銀が持っていた。野口らの渡欧にはジーメンス日本支社所長のケスラーも同行したらしく、野口らに有利に事が運んだ。さらにパリで絵の修行をしていた野口の弟、駿尾(しゅんび)が通訳にあたったことも幸いしたという。
この特許取得には、三井と古河も同時に動いていた。
古河は当時パリにいた原敬を交渉に当たらせた。話がそれるが、原は陸奥宗光の農商務大臣時代の腹心の秘書であった。1905年、陸奥の次男(古河市兵衛が養子にした)古河潤吉が古川鉱業会社の初代社長(それまで古河市兵衛の個人経営だった)に就任したとき、副社長に就任するように本人から要請された。なお、古河は足尾銅山鉱毒事件の原因企業である。
古河は特許取得には至らなかった。
一方で三井は、当時ロンドンにいた益田孝(翌年社長に就任)が動いた。彼は野口らの契約に深く食い込んできた。シアナミド社は、技術面では既に原料のカーバイドの生産設備に着手していた野口らを評価したが、資本面での心配があったのか、三井の参加に期待したのである。
野口らは40万円で特許権の取得に成功した。その額は、第二発電所の着工が決定して増額した会社の資本金と同額だった。そんな足元をみられていたのか、シアナミド社との協定書の内容には、特許権は野口らに与えるが、三井と交渉し、共同事業として行うようにという旨が書かれていた。
【「チッソ」の誕生】
1908年7月15日、帰国後すぐに曽木電気の株主総会で、日本カーバイド商会を譲り受けたうえで、社名を日本窒素肥料株式会社に変更した。取締役社長に野口、常務取締役に藤山、取締役に市川や日野辰次らが就任した。
1908年10月、シアナミド社との契約書どおり三井との交渉を行った。が、三井も野口らの足元を見たのか、資本金100万円の株式の半分を譲渡した上に役員も指定させろと強気の条件を示してきた。野口らはそれを受け入れられず、三井との共同事業を断念した。
そこで野口は、母方の親戚筋で日本郵船の専務だった堀達(ほり・いたる)に相談したところ、三菱銀行部長の豊川良平(岩崎弥太郎の従弟)に紹介された。豊川は21歳年下の野口のことをすぐに気に入ったらしく、株式は必要な分をいくらでも引き受けよう、と惜しみない支援を約束した。
こうして野口らは、三菱財閥という強力なバックアップを得た。豊川は大阪商船社長の中橋徳五郎を紹介し、1910年1月の株主総会で、取締役会長に就任させた。野口は専務となった。三菱からは技術者の白石直治を取締役に就任させた(白石の息子はのちにキーパーソンのひとりとなる)。本社は鹿児島から大阪に移転した。
【遅れての特許アプローチ】
フランク・カロー法の特許を野口より2年遅れて取得しようとしていた人物がいた。のちに電気化学工業株式会社(現・デンカ)の技術者として活躍する日比勝治は、ドイツで大型ガスタービン発電の研究をしていた。研究の過程で、発電機の出力に合わせた負荷(電力の消費)があるとき発電効率が100%になるものの、負荷が下がると著しく効率が落ち、タービンの破損にもつながることがわかっていた。電力需要というものは変化するし、水力発電においては渇水期と雨季とで出力が大きく変化する。その点が実用化におけるネックとなっていた。
そこで日比は、負荷が足りないときの電力消費先として、カーバイドと石灰窒素製造を行い、ビジネス化すればよいのではないかと考え、フランク・カロー方式の特許取得を試みた。当然、野口らが先に取得していたのでそれはできなかったのだが、日比の考えは、その後急増する流れ込み式水力発電事業社に受け入れられ、山村部の余剰電力の消費事業としてのカーバイド製造の全国的な普及につながっていった。
【藤山常一との決別】
1909年10月、第二発電所からの通電が始まると、翌月、水俣工場での石灰窒素製造が始まった。水俣でのカーバイド・石灰窒素製造は藤山常一が、発電所のほうは野口が指揮をとった。
カーバイドは、石灰石とコークスを電気炉で溶融して製造する。一方の石灰窒素も、加熱した空気を銅線に吹き付けて酸素を吸着させ、ほぼ窒素のみにした気体を窒化炉に送り、1000℃まで熱したカーバイド粉に化合させて製造する。どちらも莫大な電力を必要とする。
フランク・カロー方式は石灰窒素が出来上がるといったん窒化炉を停止して取り出す方式だったので、効率が悪かった。藤山は炉を停止せずに連続して製造できる方式に改造し、特許も取得した。しかしなかなか窒素含有率が上がらず不良品を連続して製造することになり、多額の損出を計上してしまった。1911年11月、けっきょく藤山はその責任をとるかたちで辞職した。
水俣工場の指揮は野口がとることになった。連続式窒化炉は野口が改良し、1912年3月にはまともな製品が作れるようになった。改良した方式を野口は特許申請した。ところが同年5月、藤山は三井の援助を受けて北海道苫小牧に王子製紙工場の余剰電力を用いたカーバイド・石灰窒素工場を建設する。藤山はここで窒化炉の研究を重ね、連続式窒化炉での製造を成功させ、その方式の特許申請もしていた。(1915年に「電気化学工業株式会社」、現「デンカ」を設立する。)当然、野口側にすると、その技術はわが社で習得したものであるし、特許侵害である、として訴訟を始める。この訴訟は「三井」vs「三菱」の闘いというかたちで評判となった。1918年大審院判決が出た後も、抗告審、上告審を3回ずつ行い、1925年、日本窒素の上告棄却でようやく11年におよぶ裁判が終るに至った。
この裁判の期間中、1914年にいわゆるジーメンス事件があった。ジーメンス社が無線電信所の設備の売り込みをするため日本海軍にたいして賄賂を贈ったというものだ。そのときジーメンス側で矢面に立たされたのが野口の日本支社時代の上司であったヴィクトル・ヘルマンだった。野口は彼の擁護のためにすすんで証言台に立ったという。
この事件が解明されていく過程で、戦艦「金剛」の発注先をめぐる英国ヴィッカーズ社の代理店である三井と海軍高官による、さらに巨額の贈賄事件が明るみに出てくる。最終的には山本権兵衛内閣の総辞職まで行き着くという歴史に名を残す汚職事件となった。野口と藤山の特許をめぐる裁判が評判となった背景には、「三井」「野口とジーメンス」といった関連した固有名詞が時折顔を出すことがあったからだと想像できる。
【石灰窒素の困難】
日本の農業は古くから高度経済成長期にまで人糞肥料(下肥)を利用してきたが、明治以降化学肥料の使用も少しずつ広がってきた。1887年に東京人造肥料会社が設立され、輸入のリン鉱石を原料に過リン酸石灰が製造され、輸入大豆粕を混合した配合飼料として急速に普及した。1900年頃からは輸入品の硫安が出始めた。1901年には東京瓦斯が、コークス製造の際に副生するアンモニアを原料に副生硫安を製造し始めた。
石灰窒素は、まだ誰も聞いたことのない新肥料であった。また(現代ではその有用性が再注目されているが)非常に使いにくい肥料であった。農薬としても有用なほど毒性があり、手袋やマスクは必須で、施肥した日は飲酒するとひどい悪酔いをする。これは石灰窒素から呼吸などで体内に微量に取り込まれたシアン化合物がアセトアルデヒド分解酵素を阻害するためである。その点、硫安は使いやすく、何しろ即効性があり、日本窒素肥料が石灰窒素を売り出したころには既に輸入品が販路を拡げつつあった。野口は、売れる肥料「硫安」に大きく舵を切る選択をした。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1305:240716〕
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