前田朗氏講演の報告:「関東大震災朝鮮人虐殺-裕仁最初の犯罪責任を考える」
- 2024年 7月 22日
- スタディルーム
- 朝鮮人虐殺
7月18日に、阿佐ヶ谷市民講座の前田朗氏(朝鮮大学校法律学科非常勤講師、東京造形大学名誉教授)による標記の講演を聴講した。関東大震災における朝鮮人・中国人大虐殺について重要な視点を提起していると思われる。
昨年10月7日のパレスチナ・ガザ地区のハマスによる武装決起を機に、以後イスラエルによる無差別的大量虐殺作戦が、ジェノサイドをやめよとの国際的非難の声を無視して延々と続いている。ジェノサイドの訳は虐殺であるからには、1923年関東大震災下の朝鮮人大虐殺もジェノサイドといって間違いはないだろう。この種の大量虐殺がえんえんと繰り返されてきた歴史的現実に対して、これまで国際法的なジェノサイド概念が定義され、援用されてきた。
講師の前田朗氏は、国際法学者として国連人権委員会との関わりを持ってきたが、1999年には在日朝鮮人への迫害事件(千葉朝鮮会館強盗殺人放火事件)を報告し、それが「コリアン・ジェノサイド」であると認定された。講演では、1923年の朝鮮人大虐殺もその観点から意味づけされる必要があることを教えられ、政府がなぜ「政府内に資料はみつからない」と強弁しつづけているのか、その理由がわかるように思えた。以下に私の理解した限りで、いくつかのポイントを記しておきたい。
1.昨年、神奈川県における大震災時の朝鮮人虐殺を物語る公文書などの探査の結果、画期的な資料集『神奈川県関東大震災朝鮮人虐殺関係資料』(姜徳相・山本すみ子編、三一書房、2023年)が出版されたが、ここでとくに重要なのは、「神奈川方面警備部隊法務部日誌」である。これを書いた陸軍法務官鈴木忠純は、関東戒厳神奈川警備隊司令部要員及び第一師団軍法会議検察官として朝鮮人暴動の事実関係を調べるため、横浜に派遣された。
2.戒厳令の発布は1923年9月2日の朝9時の閣議において、内相や警視総監が「朝鮮人が暴動を起こしている」として提案したが、証拠なしとして否決され、その後同日昼の12時頃に首相と内相が摂政裕仁に拝謁して同意を得てから、再度閣議を開きただちに決定、裁可された。暴動を根拠に戒厳令が布かれた背景に、摂政裕仁の積極的関与がうかがわれる。
3.鈴木法務官は、9月3日、横浜に着任し直ちに調査を開始していくつもの報告を提出していたところ、9月21日に宮内省侍従武官の陸軍歩兵少佐がやってきて聖旨を伝達された。聖旨の内容はわからないが、翌日の打ち合わせ会議は長時間に及んだと日誌にあり、何らかの重大指示事項が国家の中枢部分から直接下りてきたことは明らかである。それ以後の報告の件名を見ると、迫害とか、虐殺という語の使用が増えている。また10月10日に摂政裕仁は横浜を視察した。以上のことから推察されるのは、各地から寄せられる軍や警察の報告から、政府中枢が事態の本質は朝鮮人の暴動などではなく、逆に、軍や警察も関わって、各地の民間人大衆が朝鮮人を大量に虐殺しているということであり、これを抑止し、かつ軍や警察が関与していることの証拠を残さないようにしなければならないと決定したのではないかということである。つまり、すべて民間人が暴走し犯罪を犯したことにして、国家の責任が問われる事態を避けたかったのだろう。事実、その後、民間人が殺人などで起訴されても軍や警察は処罰されていないし、民間人もやむを得なかったといった理由により微罪で放免されている。
4.ジェノサイドの概念は、1944年、ポーランド出身の刑法学者ラファエル・レムキンが、ナチスによるユダヤ人虐殺を裁く刑法規定として「国民集団の文化や言語、国民感情、宗教、経済の存在を解体」と「その集団に属する個人の人身の安全、自由、健康、尊厳や生命を破壊」の2点を含むものとして考案し、戦後のニュルンベルク裁判や東京裁判では用いられなかったものの、1948年に国連がジェノサイド条約を採択、51年に発効した(日本は未批准)。国際刑事裁判所(ICC)は、1990年代のユーゴ国際刑事法廷やルワンダ国際刑事法廷の発足を受け、1998年にやっとICC規程の中にジェノサイドを入れ、法典化した。適用第一号はルワンダにおける数十万人のツチ族殺害事件で、その後も数多くの有罪判決があった。
5.「コリアン・ジェノサイド」には、関東大震災の朝鮮人大虐殺だけでなく東学農民戦争、31独立運動、間島虐殺等の植民地ジェノサイドや、植民地時代の文化統治、戦後の朝鮮学校弾圧等、さらに歴史の事実を否定・歪曲するホロコースト否定も含まれる。
6.国際法には、「上官責任」の理論があり、ジェノサイドにも適用される。山下奉文旧日本軍フィリピン方面軍最高司令官は、情報伝達ができなかったにもかかわらず、自分の部隊が犯した大規模犯罪についての監督義務違反を問われ、マニラ軍事裁判で死刑判決を受けたり、ユーゴやルワンダの国際刑事法廷では司令官だけでなく、組織の上官一般に上官責任を問うている。これは、不作為にもとづく行為責任で、部下の犯罪を防止する義務や、部下を処罰する義務があるのに怠ったか、失敗したことなどが対象である。
7.上官責任の理論に照らすと、摂政裕仁の責任として考えられるのは、
・誤った情報に基づいて戒厳令を裁可したのではないか(首相と内相の拝謁時に何が語られたかは不明だが、その後ただちに閣議決定されたことからの推測)。
・9月2日の戒厳令発布後に、軍隊が朝鮮人虐殺や迫害に出たとされ、警察も暴動のデマ拡散をはじめ、民衆がデマに扇動されて虐殺の挙に出たことから、虐殺を助長した責任が摂政裕仁にあるのではないか。
・暴動がなかったことに気づいた段階で、誤情報を伝えた内閣の責任を追及し、戒厳令を撤回する必要があったのではないか。
-ということになる。
8.1946年の日本国憲法は、第1条で「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」としている。この憲法を制定した議会の選挙は1946年の4月に実施され、20歳以上の男女が投票したが、旧植民地出身者と沖縄県民は除外された。つまり日本国憲法は、この両者を排除して成立し、植民地支配への反省は明示されていない。現憲法の天皇制イデオロギーは、大日本帝国憲法の天皇制イデオロギーを継承・修正し独自の内容を持った新たな排外主義として成立した。それゆえ、コリアン・ジェノサイドについて天皇の責任を問うことはタブーとなったのではないか。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1307:240722〕
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