リハビリ日記Ⅴ 51 52
- 2024年 7月 23日
- カルチャー
- 伊藤野枝日記阿部浪子
51 森まゆみの伊藤野枝のこと
リハビリ教室「健康広場佐鳴台南」のテーブルの上には、さまざまの花が咲いている。
いくつもの小さなガラス瓶に、旬の草花がかれんだ。わたしは毎週、わくわくしながらここへやってくる。なかでもグラジオラスが目立つ。生徒の誰がもってくるのだろう。心づかいがやさしい。〈そのかたの庭がのぞきたくなるわね〉くらみさんが言う。黄色いグラジオラスの中心は赤色のめしべ。わたしはしばらく見つめていた。
とみこさんの室内歩行は、いつ見ても颯爽としている。うらやましい。登山歴20年。100山を制覇しているようだ。〈ここの先生たちはみんなやさしい〉と、満足そう。
生徒の身体的弱点はそれぞれ異なる。わが歩行は相変わらずだ。しかし最近のこと。〈おっかなびっくりの歩き方がなくなったですよ〉と、褒めてくれる人がいた。そうか。気温が上がり、わが後遺症の症状が緩和しているのかもしれない。
ペットボトルのふたを開けたり閉めたりする。手のトレーニングもつづいている。先月からストップウォッチを先生が使わない。時間は争わない。手のうごきの柔軟さが大事だ。手も温かくなってきた。3時間15分が過ぎる。欠席者もいた。
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近代文学研究家の大和田茂さんから「初期社会主義研究」第32号をいただく。伊藤野枝の特集がおもしろそうだ。9名が寄稿。作家の森まゆみさんの「『青鞜』時代の伊藤野枝」を読む。
昨年は関東大震災から100年目。震災直後のどさくさにまぎれて9月16日、官憲は無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一を虐殺した。
没後100年の記念シンポジウムが、9月下旬、東京で開催された。森さんは基調講演をしている。その報告原稿に加筆したものが「『青鞜』時代の伊藤野枝」である。
月刊誌「青鞜」は、1911(明治44)年9月、平塚らいてうによって創刊される。日本初の女の、女による、女のための文芸誌だ。それから5年目、らいてうに代わり野枝が編集長になる。らいてうは画家の奥村博と恋仲になり千葉へ静養に出かけてしまう。野枝17歳。以来、野枝の編集は11年つづく。
世間の「新しい女」たちへのバッシングは激しかった。しかし野枝はひるまず、第2の編集長に就任。自らを信じて獲得したポストだ。幼少のころから、福岡の貧しい家を脱出したくて、自らの進路を才覚と向学心で「ずんずん」推進してきた野枝だ。
28年の野枝の全体像はあざやかだ。森さんは「なんと短くも濃厚な一生だったことでしょう」と、要約する。野枝はふるい因習を打破し、自由な「自己の道」を歩いていこうとした。野枝の生涯をていねいに追跡する。森さんの研究姿勢は誠実だ。野枝自身の本意をつかみとり後輩たちに伝える。
森さんは、野枝のことが描かれた『美は乱調にあり』(岩波書店)を1960年代、中学3年で読み、惹かれたという。しかし、著者の瀬戸内晴美(寂聴)は「野枝には文芸的な才能はない」と書く。森さんは反駁する。野枝は「小説、随筆、評論を書き、編輯、社会運動をして、成長のための離婚をして、パートナー大杉栄を助ける。こどもを七人産む」
森さんは野枝の、トータルの力とダイナミックな力を認めようとするのだ。もっと長生きすれば「どしどし」成長するだろうとも、その将来性を信じてやまない。反抗心のつよい野枝は、晴美へなんと応えただろう。なお、大杉は野枝より10歳年長だった。
52 岡野幸江の伊藤野枝論
早朝からセミの合唱がかしましい。今夏第一声。本格的な夏だ。しばらくすると鳴きやむ。リハーサルであったのか。北の窓を開ければ涼しい風がさっと入ってきた。〈ごめんください〉西隣のりえこさんの声だ。初なりのスイカだという。冷たい。わたしは包丁が使えない。食べやすい大きさだ。ほんのり甘い。りえこさんの顔がにこにこしている。
〈あべちゃん。お兄ちゃんと弟のことも忘れないでいてね。クッキーおいしかった。いぱい食べたい。すぐでなくてもいい〉隣のブラジル人一家の次女が手紙をくれた。小学5年生。いっぱいを〈いぱい〉と書く。促音便の使い方ができない。文面は正直である。ブルボンのバタークッキーが気にいったよう。
両親と姉妹と兄弟の6人家族。祖母が1人サンパウロで待っている。彼らは歩きながら話さない。こちらの顔をよく見ながら話す。地元住民より礼儀正しい。父親は建物の解体の仕事をしているが、今年からは荷物の運搬。忙しくて6か月も休みがとれないでいる。わたしの親切がやさしいといっては感激する。母親は太っていておっとりした人だ。
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「初期社会主義研究」第32号の「特集伊藤野枝」には、岡野幸江さんの論文も掲載されている。岡野さんは持続力のある、信頼のおける近代文学研究家だ。題して「『青鞜』と翻訳する女たち―伊藤野枝の女性解放論をめぐって」
森まゆみさんは、野枝のさまざまな体験をへた人生とその人となりを書いた。岡野さんは、野枝の女性解放論の模索に着眼して、その思想形成にスポットをあてる。
岡野論文によって、野枝はさらに魅力を増したと思う。野枝は勉強家だった。
「青鞜」の女たちは、翻訳による女性解放論を模索したと、岡野さんは明かす。そしてほぼ同世代の女性解放の「先駆的モデル」を見出したとも。らいてうはエレン・ケイを。野枝はエマ・ゴールドマンを。彼女たちはたがいに影響しあい思想形成を行なったとも、岡野さんはつづける。当時の翻訳事情を視野に入れた岡野さんは、「青鞜」全52冊にあたった。2冊だけに翻訳作品がなかったという。
エマ・ゴールドマンいわく、自分を「動かす精神は奴隷を奴隷根性より解放し、暴君をその暴虐から解放するもので、好んで艱難に向ふ精神である」と。野枝は、この核心に感動し「何と云ふすばらしい、そして生甲斐のある生涯だろう」と、共感する。
野枝のエマ・ゴールドマンとの出会いは興味ふかい。岡野さんの筆は、野枝のほかの思想家からの影響にも触れるが、エマ・ゴールドマンへの傾倒に一番力がこもっている。
エマ・ゴールドマンはさらに「結婚は女を生涯従属させ寄生的にさせるもので、恋愛と結婚は相容れない」という。
野枝は応える。「相愛の生活を送るためには、性、経済、倫理その他さまざまな社会問題を考える必要がある」「各自の個性を維持するにはどうすべきか」と。野枝の反応そして提起はすばらしいと思う。
伊藤野枝は100年以上も前の女性だ。森まゆみさんと岡野幸江さんの論文によって、みごとによみがえった。現代女性の意識を刺激し、揺さぶるににちがいない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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