水俣病が映す近現代史(10)大正デモクラシー
- 2024年 7月 29日
- スタディルーム
- 「大正デモクラシー」水俣病葛西伸夫
明治時代が終わると、社会全体に自由を求める傾向が強まり、様々な政治運動、社会運動、労働運動が全国に広がった。
野口や日窒をとりまく状況のなかでも、労働者や主婦や漁民のような「民衆」が自分の権利や自由を求めて様々な場面で異議申し立てをする空気が広がった。水俣病につながる歴史も少なからぬ影響を受けた。
【「大正デモクラシー」の背景】
後年「大正デモクラシー」と名付けられたその頃の思潮・風潮は、様々な要因が複合的に作用して醸成された。が、無視できないふたつの背景がある。ひとつは日韓併合であり、もうひとつは大戦景気である。
1910年、日本は大韓帝国の主権を完全に奪い、植民地化した。日韓「併合」という言葉は「武力侵略の事実を歪めている」と批判されることが多いが、武力侵略に加えて悪質なのは、結果的に日本は朝鮮人に国家神道を強要し、日本語を強制し、教育勅語の趣旨に基づいた教育を強制した。朝鮮人の民族精神を掃滅し「皇国臣民」の国として同一化した上での「併合」だった。(ただしそれらは段階的に行われた。)
一方で、戸籍は「朝鮮戸籍」を別に作り、決して日本の戸籍とは混ぜなかった。大日本帝国憲法の適用範囲にも入れなかった。いわば朝鮮人を、日本人に隷属する「二等・日本人」としたのである。
政治批判がゆるされる民主主義的な潮流のなかで、一部の活動家、ジャーナリストや学者は日本の植民地主義を批判したものの、主流になることは決してなかった。「大正デモクラシー」とは、大戦景気がもたらせた高揚感とあいまって支配者としての奢りに酔い、植民地を持つ一流国の1等国民としての「民主主義」を、いっとき謳歌したに過ぎない。そして朝鮮人にたいする罪悪感は抑圧されたまま、のちに歪な形で噴出することになる。
【大国気取り】
ロシア革命に干渉し、あわよくば権益をかすめ取ろうと根拠の希薄な出兵をした挙げ句、撤退のタイミングをつかみ損ね、最後は北樺太の石油資源にこだわって7年も継続し、3500名の死傷者と10億円の戦費を浪費した「シベリア出兵」。ヨーロッパ勢の留守中に中国の権益を奪おうとした「対華21科条要求」や、中国の次期権力者候補「段祺瑞」に莫大な援助をするも失墜してしまう「西原借款」。大正期の日本はそのような愚策と浪費の限りを尽くしている。
【米騒動】
1918年、大戦景気によって米の消費量が増大したのに対し、農業人口が工業労働者として都市部に流出し米の生産量が伸び悩んでいた。そうした背景で米価格が上昇したところで利ざやをつかもうと米取扱業者が売り惜しみや買い占めを行っていた。
そこに8月2日「シベリア出兵」が決まり、価格の高騰を予測した相場師たちによる米穀取引所での投機的な取引により、米価がさらに上昇した。新聞が連日、米価高騰を大きく報じたため、社会に不安が募った。
富山県の富山や魚津で主婦たちが移出米を実力阻止する行動を起こしたのを発端に、それが新聞で大きく報道されると、運動は全国に野火のように広がり、米の値下げを訴えて全国で集会が開かれたりしたが、ついには米問屋などの打ちこわし暴動に発展した。神戸では鈴木商店が(間違えて)焼き討ちにあった。
西日本の炭鉱や製鉄所では、米価引き下げに合わせて賃上げ交渉に発展し、労働争議を誘発した。
【鏡工場争議】
日窒の労働現場も例外ではなかった。日窒は米価の高騰をうけ物品供給所を設けて米を安く販売していたが、市価よりせいぜい1~2銭しか安くなかった。
鏡工場では工員が日給40銭の賃上げと供給所の値下げを求め、ストライキに入った。8月16日には酒に酔った硫安工員約200名が工場に突入、事務所と物品供給所を破壊し、さらに保管してあった酒を飲んでいった。続いてカーバイド係約100名も酒を飲んで気勢を上げたあと社宅を攻撃した。彼らは「要求を受け入れなければ工場を爆破する」と言い放ったので、職員(正社員)は家族を日奈久温泉に一斉避難させたという。やがて工員たちは酒に酔って刀を抜いたまま町内を練り歩き、町を焼き討ちにすると騒いだ。
鏡の町長は、そのとき熊本市にいた野口のもとに駆けつけ、どうにかしてくれと陳情した。野口は県知事に調停を依頼し、結局40銭の賃上げを実施し、事の収拾を図った。
同じく1918年、鏡工場の硫酸製造の焼滓(硫化鉄鉱を焙焼して硫黄分を回収した残滓)が雨水によって海に流入した。これにより牡蠣養殖が被害を受け、約百名の漁民が1週間にわたり工場に押しかけ、事務所を打ち壊した。
【日本初の生活協同組合】
日窒は鏡争議をきっかけに従業員の待遇改善を進め、現代の労災保険に準ずる制度を創設した。
また、1920年11月には、従業員の福祉を目的として、日本で初めての生活協同組合として水俣には「水光社」、鏡には「鏡映社」を設立した。
鏡映社は1927年閉鎖するが、水光社は2014年にコープ熊本と合併しながらも組織を存続し、今でも水俣市民からは「水光社」として親しまれている。最盛期は狭い水俣市に十数店舗を数え、現代の都市部のコンビニのような密度で多店舗展開していた。また鉄筋3階建ての本店は市街の中心部でデパートとして営業し、チッソ=水俣市の繁栄の象徴として存在していた。(現在は建て替えられ2階建て)
【新発電所・工場計画】
1919年春、野口は中橋徳五郎(前年日窒の会長を辞め文部大臣になっていた)を通じて宮崎県の代議士から五ヶ瀬川(宮崎県北部を流れ延岡市から日向灘に注ぐ)の水力発電所と、県内に工場を誘致したいという話を持ちかけられた。好景気のなかただちに計画を進めた。(大戦景気は1920年まで続く。)
1920年、五ヶ瀬電力株式会社を設立。株の大部分を野口が引き受けた。五ヶ瀬川発電所の建設が始まった。
工場は宮崎県北部の延岡か、中部の美々津(みみつ)が候補地とされたが、なかなか決定できなかった。
【県外送電反対運動】
五ヶ瀬川発電所の計画が進んでいた時期は、遠距離送電の技術がようやく確立し、同時に電力の寡占体制が形成され始め、電力会社数が減少していった時期だった。
宮崎県は、大正期に開田や鉄道、港湾事業などの多くを県債で賄ってきたので、財政が逼迫していた。1918年、県民負担の軽減のため、県営の電気事業を創始し、電力料金収入によって財政逼迫を克服しようとする動きが県議会にあった。実現はしなかった。
宮崎県というのは九州中央山地と霧島山が南北に連なり、大小10本の河川が太平洋に向かって流れている。九州の包蔵水力(発電水力調査により明らかとなった水資源のうち、技術的・経済的に利用可能な水力エネルギー量)の42%が宮崎県にあり、水力発電に適した場所が多数あった。ピークの1916年には水利権許可の申請が90件あり、争奪戦状態だったという。
宮崎県はこの包蔵水力を県の資源と考え、流出させないように、県内での電力需要者にたいする供給を発電水利権の許可条件としていた。
ところが1918年、電気化学工業㈱は、大淀川河口に工場を建設することを条件に大淀川の水利権を得ていたが、計画を撤回し、福岡県の大牟田工場に送電することを明らかにした。そこから県外送電反対運動に火が点いた。
さらに1921年、政府による事業者間調停によって、各社が発電した電力を九州内各県(鹿児島以外)に送電するための九州送電株式会社が設立されると、さらに激しい反対運動が宮崎県全体に起こった。
各地で演説集会や大会が開催されたり、署名運動や募金活動がさかんに行われた。反対運動の歌も創作され県内各地で歌われたという。
【宮崎県「ナショナリズム」】
この県民をあげての反対運動には、宮崎県の設置時に根のようなものが残っていた。
1871年「廃藩置県」実施直後は全国に75の県があり、県境も曖昧だった。現在の宮崎県領域には6つの県が設置されていたが、統合が進み、1873年に旧日向国の領域が宮崎県として設置された。
しかし、そのときの鹿児島県には不平士族が多く、下野していた西郷隆盛の周辺に多く集まっていた。一方宮崎県には少なかった。明治政府は1876年、不平士族の数を薄めてしまおうと鹿児島県に宮崎県を吸収させてしまう。(理由については諸説あり)
翌年、西南戦争が起こり、宮崎県域の多くも戦場となり荒廃する。西郷軍に参加した兵士の死者も多かった。また西郷軍によって家が焼かれたり、多くの金品米穀が掠奪され、米価が高騰し餓死者も出た。また、戦後の復興政策では鹿児島県は薩摩・大隅地域の復興だけを優先し、宮崎のほうを後回しにした。
そこから、宮崎を鹿児島県から分離せよという「宮崎県再設置運動」が起こった。川越進という県議が各地をめぐり支持者を広げていった。同時期に徳島が高知から、福井が石川から分県したことがさらに運動を盛り上げた。1883年、ようやく分県案は鹿児島県議会で可決され、参事院(国)に認められ、宮崎県が再び誕生した。宮崎県とは住民が運動で勝ち取った「県」だったのである。
【ふたつの運動成果】
宮崎県は、1924年5月電気化学工業㈱と、9月には九州送電と、次のような内容の覚書を締結した。
宮崎県内に電力を優先供給すること。また発電力の50%を県内需要に応じて確保すること。電気料金は県内の最低額を標準とすること。また、電気化学工業㈱は、1理論馬力(損失を含まない、単位時間あたりの仕事量)あたり1.5円。九州送電は1円を宮崎県に寄付する。寄付はのちに全ての電気事業者に「公納金」という名目で徴収するようになった。
もう一つの成果は、日窒が新工場を延岡に決定したことだった。
この頃日窒は新しく「アンモニア合成」の特許を獲得できる見通しだった。野口はこの電源を探して国内様々な場所を巡っていたが、最終的に適地を見つけられなかった。(最後の候補地は屋久島だった。)
1920年、日窒はけっきょく鏡工場を拡張し新工場を建設することを決断し、鏡村に隣接した文政村11万坪の土地を獲得した。電源は、かなり遠かったが五ヶ瀬川発電所の電力1万Kwを用いる算段でいた。
ところが、着工式にまで至って、地元農漁民と工場の煤煙問題で紛糾した。
これで鏡での新工場を断念する。
翌年(1921年)から、前述した宮崎県の県外送電反対運動が激化する。
同年、日窒はカザレー式アンモニア合成法の特許権の購入契約を締結する。
以上の流れから、翌年(1922年)3月、アンモニア合成を導入する新工場は、宮崎県北部の延岡に建造することを決定する。8月3日に起工式が行われた。
【水俣漁民の補償要求】
1923年10月12日、水俣工場でも廃液による海域の汚染(水銀ではない)をめぐって、漁業組合が被害補償を要求をし始めた。
1926年4月30日、日窒は、漁業組合に対し「将来永久に苦情を申し出ないこと」を条件に同意し、見舞金として1500円を支払い和解した。
この「条件付き見舞金」はのちに水俣病患者への補償を最低限に抑え込むチッソの常套手段となった。1959年の「見舞金契約」、1995年の「政治解決」、最新では、2012年の「特措法」も同様で、一定の補償(見舞金)を受け取ると「認定」申請の権利が無くなる仕組みである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1309:240729〕
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