アジサイの季節になって―長めの論評(四)
- 2010年 6月 16日
- 評論・紹介・意見
- 三上治安保日米同盟
戦後の対日占領軍の総司令官であったマッカアサー元帥は占領軍の早期撤退論者であったといわれる。連合国側は米ソの内部対立もあって占領軍の撤退時期を明瞭に出来ないでいた。そして、1950年の6月には朝鮮戦争の勃発もあって、アメリカは講和を急いだ。それを工作したのはダレス特使であったといわれる。1951年の対日講和条約の成立と日米安全保障条約(旧安保条約)はマッカアサー(1951年4月解任)とダレスと吉田の手で進められたのである。朝鮮戦争の展開の中でアメリカ軍の基地使用の権利(占領状態の継続)と非武装状態の日本の防衛という政治情勢論的な観点が両者の一致点であった。国際共産主義の脅威からの防衛と自由主義圏の選択というイデオロギー的立場が政治情勢論を枠づけていた。安保条約が政治情勢論とイデオロギー的立場で一致していたにせよ、国際法的立場からも、国家的な相互保障的立場からも曖昧なものであることを吉田は分かっていた。それが不平等で、片務的なものであることは認識していた。吉田は冷戦構造と戦後の日米関係の中では政治情勢論的にはアメリカの外交―安全保障戦略に同調するよりほかないと判断していた。
その上で吉田は1)アメリカの軍事行動には同調(参加しないこと)、2)日本は軍備負担などは避け経済復興を中心に行くこと、3)アメリカ占領軍の戦後改革が国情に合わないものは変えるとしても清算ということではないことなどを構想していた。1)は初期占領政策を転換し、日本の軍事パートーナー化へ方針転換したアメリカ軍に距離をとることである。吉田は自衛隊の前身である警察予備隊の創設はしたが、国軍化には抵抗し、吉田暗殺計画が準備されるほどであった。2)は軽武装経済重視路線である。3)彼は占領軍の進めた戦後改革を清算するというよりはそれを継続するという立場であった。ことに彼は憲法改正については消極的であった。1960年の安保闘争後に岸の後に首相になった池田勇人はこの吉田の路線を踏襲した。旧安保条約の改定を推進した岸信介との日本の保守派に存在した違いを示すために吉田茂とその系譜にある考えを取り上げた。旧安保条約を新安保条約に全面改定することに吉田は消極的であり、賛成ではなかったと言われる。ということは反対に近いということだが、それは何故か。安保条約の改定は不平等で片務的であり、それを相互契約的(双務的)にするという名分は否定しがたいものがあった。ということは、吉田はこの岸の掲げる名分を実体のあるものと信じてはいなかったのではないか。それにもう一つ岸の憲法改正(本格的な日本の軍備)に懐疑的だったのだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion020:100616〕
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