SJJA& WPO【西サハラ最新情報】597 ガリ西サハラ難民大統領が国連事務総長に直談判
- 2024年 9月 7日
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- 国連民族自決人民投票平田伊都子東ティモール(東チモール)西サハラ
1999年、東ティモールの人々はレファレンダム(国連人民投票)で独立を選び、25周年目を迎えました。
1999年、西サハラの人々もレファレンダム(国連人民投票)を予定していましたが、モロッコの反対で頓挫したままです。
東ティモールは、元ポルトガル首相で国連事務総長のアントニオ。グテーレスと、今もレファレンダム(国連人民投票)を待つ西サハラ代表のブラヒム・ガリを、第25回民族自決権国連人民投票式典に招待し、会わせました。
東ティモールがお膳立てした、西サハラ難民大統領と国連事務総長の二者会談
① 東ティモールでガリ西サハラ難民大統領が国連事務総長に直談判:
2024年8月30日、東ティモールでの民族自決のための国民投票第25周年記念祭に参加した西サハラ難民大統領 兼 ポリサリオ戦線事務総長であるブラヒム・ガリは、同じく式典に参加していた国連事務総長のアントニオ・グテーレスと二者会談をした。まず、西サハラ難民大統領は、グテーレス国連事務総長が東ティモール政府から受けた名誉市民の栄誉を讃えた。そして、西サハラ問題と東ティモール問題は、法的性質が類似しており、歴史的に同時期であり、その起源も似ていることを、改めて、グテーレス国連事務総長に説明した。
本来なら、西サハラの人々も、東ティモールの人々と共に、レファレンダム国連人民投票を完了し、独立国家建設の道を歩んでいたはずなのだが、、
しかし、西サハラの人々は、25年前の東ティモールの人々がそうであったように、自分たちの未来を選択できるレファレンダム(国連人民投票)を、まだ待っている状態なのだ。ブラヒム・ガリ難民大統領は、国連事務総長に早期のレファレンダム(国連人民投票)を促した。また、モロッコ占領地・西サハラにおける深刻な抑圧状況、西さハラ占領民の家屋の取り壊しと厳しい封鎖と、土地の没収にも触れ、モロッコ占領政策の最新動向を説明した。
さらに西サハラ難民大統領は、人権侵害を報告する義務があるMINURSO(ミヌルソ国連西サハラ人民投票監視団)の怠慢をぼやき、「MINURSOは非武装の民間人を保護し、天然資源の略奪を止める役目がある」と、強調し、役目を怠っている国連当局の責任も繰り返し批判した。。国連事務総長は、西サハラ難民大統領の祝辞に礼を言って、「西サハラの人々が民族自決権を行使できるよう、国連の決議に沿って、西サハラにおける紛争の解決に向けてあらゆる手段で取り組む」と、いつものようにリップサービスを繰り返したが、具体策には、一切、言及しなかった。
② アントニオ・グテーレス国連事務総長(75)はなぜ名誉市民受賞なのか?:
ティモール島はオーストラリアの北、インドネシア共和国を形成する群島の南中央部にある。島の西側はかつてオランダの植民地で、インドネシアの独立に伴ってインドネシアの一部になった。当時の東ティモールはポルトガルの植民地だった。
1960年、国連総会は、東ティモールを西サハラと共に、非自治地域のリストに載せた。1974年、ポルトガルは、自決への権利を認めたが、1975年に東ティモールの政党間で内戦が発生し、ポルトガルは撤退した。しかし、その年の12月、インドネシア軍が東ティモールに上陸し、暫定政府(インドネシア傀儡政府)を樹立した。ポルトガルはインドネシアとの関係を断絶し、紛争をを安全保障理事会に訴えた。1983年、デ・クレアル国連事務総長(当時)はインドネシアとポルトガルとの会談を開始した。そして、1999年、アナン国連事務総長(当時)の仲介で合意が成立した。
合意に基づいて、UNAMET(国連東ティモール・ミッション)が有権者の登録や公式の投票を組織し、実施した。1999年8月、45万人の登録有権者のうちのおよそ78.5パーセントがインドネシア残留による自治達成に反対した。独立に反対する民兵団が組織的な破壊と暴力のキャンペーンを展開し、多くの人々が殺害され、20万人以上が東ティモールから国外へ逃亡した。9月、安保理は、INTERFET(東ティモール国際軍)の派遣を承認した。INTERFETの支援で平和と安全が回復し。10月、安保理は、東ティモール独立までの移行期に全面的な行政と立法の権限を持つUNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)を設立した。
2002年3月、大統領選挙によって、シャナナ・グスマンが82.7パーセントを得票して大統領に選出された。そして、2002年5月20日、東ティモールは独立を達成した。2002年9月、191番目の国連加盟国となった。オメデトウ!
現国連事総長アントニオ・グテーレスは、どうして東ティモールの勲章を貰えたのか?
実は、1995年の総選挙でポルトガルの首相に就任したグテーレスは、1999年から2002年までの東ティモールにおける脱植民地化プロセスにたまたま遭遇したのだ。そもそもポルトガルは、東ティモール国連人民投票を支持してきた。国連人民投票25周年記念祭で、グテーレス国連事務総長に東ティモール名誉市民権を授与し、同時に招待した西サハラ難民大統領との二者会談を設定したのは、同じ運命をたどっている東ティモールの深謀な連帯活動だと、解釈したい。
③ 東ティモールと西サハラ:
8月30日、レファレンダム(国連民族自決人民投票)の25周年を記念する祝賀会で、共和国大統領でポリサリオ戦線事務総長のブラヒム・ガリは、彼のカウンターパートであるホセ・ラモス・ホルタ大統領と、どんな思いで握手を交わしたのだろうか?
25年前のレファレンダム(国連民族自決国民投票)実現の時、ポルトガル首相だったことで東テイモール名誉市民称号を授与したグテーレス現国連事務総長に、どんな恨み節で直談判したのだろうか?、、が、諸々の想いを横に於いて、西サハラ難民大統領は、兄弟国東ティモールの外交配慮に感謝し、有効に活かしていくものと信じている、、
東テイモールと西サハラは、その植民地体制がよく似ている。前者は、ポルトガル、後者はスペインというヨーロッパ列強支配の植民地で、それから前者はインドネシア、後者はモロッコという隣国の植民地支配下に置かれていった。
両者とも、1960年の国連総会植民地独立付与宣言で不確定地域(植民地域)と指定され、脱植民地化の対象となり、解決策として1999年にレファレンダム国連民族自決権人民投票が設定された。ここまでは同じだった。ところが、東テイモールではレファレンダム(国連民族自決権の人民投票)が実現したのに、西サハラでは実現されなかったのだ。なぜか?、、
それは、西サハラ・レファレンダムの事務総長個人特使ジェームス・ベイカー元米国務長官の投票人認定に、モロッコが「ノー」をつきつけたからだ。さらに2003年3月にはイラク戦争が勃発し、同年5月にモロッコのカサブランカで大テロ事件が起こり、それを利用したモロッコは、レファレンダムを消滅させるため、国連安保理でのロビー活動を活発化させていった。2007年にモロッコはモロッコ自治州案を出し、西サハラはモロッコ領土で植民地ではないと主張し続けている。
国連総会の第4脱植民地委員会は、西サハラは脱植民地化が課されている<植民地域>と、位置付けている。
一方、東テイモールの元植民地支配国インドネシア首都バリでは、9月3日に<インドネシア・アフリカ・フォーラム>の開会セッションが行われていた。ワリド・アルジェリア代表はスピーチで、西サハラがいまだに植民地化に苦しんでいることを指摘し、「アフリカには自由のためにまだ闘っている人々がいます。それは西サハラの人々です。彼らの苦しみは、独立と自決への道がまだ完全ではないことを、私たちに思い出させてくれます」と、語った。
アントニオ・グテーレス国連事務総長は、かって、ポルトガル社会党党首でポルトガル首相で、東テイモールの独立運動を支援していました。 社会主義インターナショナル第7代議長でした。 UNHCR国連難民高等弁務官を10年務めました。
難民問題や民族自決権や諸々の権利の擁護者であると、伺っております。西サハラ難民の民族自決権にも、思いをはせて強い支援をお願いします。
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「サラー西サハラ難民アスリート」の出版情報です。
著者:平田伊都子、写真構成:川名生十、画像提供:アマイダン・サラー、SPS、
定価:本体1,800円+税、
発行人:松田健二、
発行所:株式会社 社会評論社、東京都文京区本郷2―3―10、電話:03-3814-3861
同じ「社会評論社」が出版してくださった「ラストコロニー西サハラ(2015年)」、「アリ 西サハラの難民と被占領民(2020年2月)」にも、お目を通してください。
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Youtube2018年7月アップの「人民投票」(Referendum)もご案内。
「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc
「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU
Youtubeに2018年4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いします。
「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo
「Last Colony in Africa] 英語版URL: https://youtu.be/au5p6mxvheo
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名生十 2024年9月7日
SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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