また便利屋になってしまった
- 2024年 10月 20日
- 評論・紹介・意見
- ビジネス傭兵藤澤豊
技術書類の翻訳者として三年半、まだまだ駆け出しだったが、和文原稿から書き上げた英文マニュアルの質は評価していただいていたと思っている。リピータとなってくださったクライアントからの仕事で手一杯で、なにか特別な事情でもなければ、新規のクライアントの仕事は請けにくくなっていた。詰まった日程のなかスケジュールを調整して請けた仕事の一つがCNC(Computerized Numerical Controller)の開発要求仕様書だった。CNCは工作機械専用に開発されたコンピュータで、十年間お世話になった工作機械メーカでは、非常に身近なもので頻繁に使っていた時期もあった。
ある日営業から、これは藤澤さん専門だからスケジュールに押し込んでと、三ページほどトライアル原稿を渡された。読むまでのこともない。ひと目みて、これほどおいしい仕事はないと思った。原稿が曖昧でも何を考えることもなく、さっと英文がでてくる。トライアルで同業に負けるはずがない。さっさとトライアルを書き上げて、三百ページほど仕事を頂戴した。
それがきっかけでアメリカの産業用制御機器屋の日本支社に招かれた。コマーシャルマーケティングの主任という肩書だった。半月もすれば三十五歳誕生日というゴールデンウィーク開けに初出社した。マーケティングなんて言葉として聞いたことがあるだけで、どのような仕事なのか見当もつかなかった。出社してひと月ほどは、事務所のあちこちに大柄なアメリカ人が闊歩していてオレなんかが務まるのかと怖かった。それはニューヨークに駐在していたときに客先でその制御機器屋の製品を何度も目にして、見るからに堅牢な作りと多彩な製品群から受けた畏怖の念から生まれたものだった。
マーケティング部は部長の下に課長、その下に主任が二人に女性社員四名の小さな所帯だった。出社早々CNCの開発計画の話しもでてきたが、和文マニュアルやカタログの作成から展示会などが主な仕事で、翻訳屋時代の和文から英文が英文から和文へになるだけじゃないかと気楽に考えていた。ところが数日後には、この陣容でどうしようとしているのか不安になってきた。部長も課長も実務のことには興味がないし、そもそも制御システムどころかエンジニアリングの基礎知識もない。驚くことに、主要顧客の市場のことを知らなければという意識すらなかった。もう一人の主任にしても似たようなもので、女性社員はよく気がつく事務員でしかなかった。みんないい人たちだけど、この陣容でいままでどうやってきたのか不思議でならなかった。
アメリカの製品事業部から送られてきた英文のマニュアルやブローシャを巷の翻訳会社に外注して、上って来た和訳をアプリケーションエンジニアにチェックしてもらうプロセスになんの違和感もない人たちにがく然とした。それは手配師として仕事を流しているだけで仕事になってない。チェックを依頼されたアプリケーションエンジニアは本来の仕事の片手間に翻訳をながめて、ここなんなのという個所をさっと丸で囲んで、?マークをつけて終りだった。ずさんな翻訳はチェックでは終えようがない。そこそこにしても使い物になるマニュアルにしようとすれば、ほとんど全ページ書き直しになる。外注の翻訳者は前のバージョンを見ることもなく、渡されたマニュアルの字面だけで翻訳しているから、使われている用語がバラバラで読むに堪えない。日本で業界のデファクトスタンダードになっている用語も調べなければならないという、当たり前のことすら知らないか、気にしない人たちだった。
チェックされて戻ってきた翻訳を見て慌てた。どうにもならない。英語の名称をカタカナに書き直しただけのことも多いし、そもそも翻訳者が自分が何を書いているのか分かっているとは思えない。チェックしたアプリケーションエンジニアも似たようなレベルに毛の生えたようなものだった。CNCならまだしもPLCは使ったことがなかったから、システム構成からプログラミング言語まで勉強しなれば和文マニュアルを作れない。基礎知識を得ようと、旧バージョンの和文マニュアルを読もうとしたが読めなかった。想像の上に想像を重ねても何が書いてあるのか判然としない個所が多過ぎる。なんとしても製品を理解しなければと英文マニュアルを読み漁った。つけ刃を求めてのことで翻訳屋時代と何も変わらなかった。
あれこれやっているうちに気がついた。アプリケーションエンジニアも含めてほとんどの人が英語で技術書類をまともに読んだことがない。観光旅行ならいざしらず、とても仕事で使える英語のレベルにはない。なかには日本の同業のPLCや制御機器を扱ってきた人もいたが、実体験のレベルまででPLCなどの制御機器の総体を理解している人は一人、もしかしたらもう一人いるだけだった。
アメリカ市場の約五十パーセントを支配している会社の製品でも、長きにわたって似たような製品が日本メーカから提供されていれば、機能の名称やプログラムの解説も日本の顧客は日本製に慣れている。日本メーカの用語と使い方をベースにした知識しかない人たちにある日突然英語からの変な日本語のマニュアルでは通用しない。英語をカタカナで表記したマニュアルで、日本のメーカの用語とカタカナの表記の突き合わせを客に押しつけて日本市場に参入?傲慢にもほどがある。
アメリカの先進性からだにしてももう日本語になっている「アイコン」や「デスクトップ」を明治維新でもあるまいし、英語の「Icon」や「Desktop」を人文系の知識からから「象徴」や「卓上」と訳したら何をいっているのか想像すらできない。
「Flying start」や「Power Cycle」を「フライングスタート」や「パワーサイクル」とカタカナにしたら、日本製の製品で知識を得てきた人たちが日本の製品のどこの機能と同等の機能や作業を指しているのか分かるわけがない。インバータの「Flying start」は「瞬停再始動」、システムの「Power Cycle」は「一度電源を切ってから立上げ」になる。
一刻も早く日本のご同業のマニュアルかた用語や説明の仕方を学びとらなければならない。翻訳屋時代にはアメリカのメーカの技術資料をなんとかして手にいれようとしていたが、こんどは日本のご同業のマニュアルや技術資料を探すことになった。
翻訳業界や翻訳者のありようを知らないから、飛び込みできた営業マンやブローカ連中のセールストークに乗せられて、 翻訳をだしていたのだろう、当てにしようのない翻訳会社が何社もはいっていた。一緒に成長していく気のある翻訳会社を見つけるのが最優先の課題になった。悲しいことに、三年半お世話になった翻訳会社は候補に入れようがなかった。
技術的なことでしかないから、たどたどしい英語で充分なはずなのに、英語のマニュアルを読もうともしない人たちは、製品事業部から派遣されている駐在員に英語で相談しようとしない。通じないもどかしさまでならいいが、恥をかくのをおそれてか相談にはいかない。なにか問題があるたびに、数人がああでもない、こうでもないと、まるで井戸端会議のような集団ができる。いくらもしないうちに、その人たちと駐在員の間に入った通訳もどきの立場になってしまった。通訳とはポンと出ていってできるものでもないし、するものでもない。何を知ろうとしているのか、確認しようと思っているかを何度も聞き直して確認したうえで、英語のマニュアル類をざっと斜め読みして最低限手元にある資料からでは、判断のしょうようがないことを確かめたえで、何をどう訊けば必要とする情報を得らえるのかを考えたうえで駐在員に訊かなければならない。ほとんどの場合、何が問題なのか、何を知ろうとしているのかの整理がついていない。自分の言葉できちんと説明する訓練がなされていない人が多すぎる。通訳の前に「日本語」での聞き取り調査のようなことから始めることになった。
そんなことが毎週のようどころかまるで日々の業務のようになっていった。気がついたときには手遅れだった。またトラブル処理の便利屋になってしまった。工作機械の技術屋を目指して入社した日立精機でよろず引き受けの便利屋になってしまって、オレはいったいなんなだって悩んだ末に翻訳者の道へと進んだのに、アメリカの会社の日本支社でまた便利屋になってしまった。便利屋が天職とは思いたくないが、日本の古色蒼然とした会社で、そしてアメリカの会社でとなると、夢や希望など云々の前にオレは何なのか、どうすべきなのか?これといった人生の目標なんて大袈裟なものではなくてもいいから、オレはと考え込む日が多くなった。
ここからジョンソンとミラーと日本人の仕事の仕方というのか日本社会のありようについての話しに広がって行った。これについては長くなるから稿をあらためることにする。
2024/9/1 初稿
2024/10/15 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13919:241020〕
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