「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」(1)
- 2024年 10月 22日
- 評論・紹介・意見
- マキアヴェッリ合澤 清
ヘーゲルは『法哲学』の序文の中で次のように述べる。
「誰でも本来的にその時代の子供(息子)である、そして哲学もまたその時代を思想において捉えたものである」
つまり、われわれはどこまでもその時代のうちにあるのであって、時代を飛び越えた(ロドス島を飛び越えて外に出た)と妄想することは勝手だが、それはただ頭の中であるべき世界を思い描いているに過ぎないのだ。
このようにヘーゲルはどこまでも自分の住む現実の歴史をその基盤に据えて思考している。
ヘーゲルの哲学体系とは、かかる自己が定在する時代の概念化に他ならないのだ。このことは逆から見れば、ヘーゲルの哲学体系の中にこれまでの歴史的な営為が、その成果として総括的に、つまり精神として体現化されているという意味に他ならない。
「存在するものを概念において把握することが哲学の任務である。存在するものは理性であるからだ」。
このようなヘーゲルにとってニコロ・マキアヴェッリはどのように映るのだろうか。詳細なマキアヴェッリ論を彼が展開していたかどうかの記憶は今となっては不鮮明だが、確かどこかで、イタリア史を考えた時に、そこでのマキアヴェッリの果たした役割(思想)を評価していたように思う。言い換えれば、マキアヴェッリにおいて概念化されたイタリア史へのヘーゲル自身の関心(評価)の大きさだったと思う。
私自身のこれまでの関心からいえば、実はマキアヴェッリにはあまり惹かれたことはなかった。今夏の暑さしのぎに手近な歴史書を手に取り、たまたまルネサンス時代を読み始めて初めて、「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」という、それまでは個々別々に読み飛ばしていた内容が、一本のつながりとしてイメージされてきたという訳である。そこで、今回は従来と趣向を変えて、改めてマキアヴェッリを軸に据えて、この時代を概観してみたらどうだろうかという考えにいたった。そして今まではほとんど通読した程度だった類書の何冊かを引っ張り出して再読を心がけてみた。
手ごろなものとして、塩野七生『わが友マキアヴェッリ』(中公文庫1987年刊)があった。この本はずいぶん前に読んだものだったが、メモも残っていない。630頁もの大部のものだ。
今回読み返してみて、やはり前に感じたのと同じ感想しか持てなかった。「これは歴史書、研究書と呼ぶよりもやはり伝記あるいは私説マキアヴェッリ 論」ではないのか、ということだ。もちろん著者もそのことは十分意識したうえで、あえてそういう語り口に徹しているようだ。それはこの書物のタイトルからしてうかがえる。
しかし歴史としてこの時代を再検討したかった私にとっては、やはり肩透かしを食ったような物足りなさを感じた。
とりあえず、この時代の主な人物の年代を列挙してみる。
ニコロ・マキアヴェッリ(1469-1527)、マルチン・ルター(1483-1546)、ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ(1475-1564)、エラスムス(1465-1536)、ラブレー(1494-1553)、トマス・モア(1478-1535)、コペルニクス(1473-1543)
マキアヴェッリを取り巻く外的な環境
塩野の本の中からいくつか引用して紹介したい。
その前に思い起こして頂きたいのは、 マキアヴェッリも、レオナルド・ダ・ヴィンチも ミケランジェロもフィレンツェの出身だということだ。それ以外に、ラファエッロも、ツィツィアーノもフィレンツェの同時代人である。まさに当時のフィレンツェは芸術の「花の都」と言える。
「15世紀前半のフィレンツェは、100年前と比べて人口が半分近くに減ったという理由だけでなく、イタリアの情勢の変化からも、内ゲバの繰り返しを許さない時代に来ていた。30近くあった小国は、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ法王庁領土、ナポリ王国、そしてフィレンツェ共和国と、この五つのうちのどれかに吸収され、吸収されなくても実質的には支配下にはいり、イタリアは、五大国並立時代を迎える。… ヴェネツィア共和国が、すでに100年前に個人の力量に左右されない体制を作り上げていたのに、その同じ100年を内ゲバで過ごしたフィレンツェは、効率良い統治を重視すれば結局、個人の力量に頼る体制を選ぶしかなかったのである。」(p.70)
まず、イタリアはどうしてこうだったのか、を考えたい。主な原因としてあげられるのは、オスマン・トルコとの長期の戦争や英・仏間の百年戦争(1339~1453)とペストである。ヨーロッパ全土にわたる、この壊滅的な打撃が、これに続くルネサンス文化開花の引き金になったという。
この時期、共和国フィレンツェでは、メディチ家が勢力を伸ばしてくる。そして実質的にフィレンツェの支配者(統領)にまでのし上がってくる。
「13世紀の前半には、金融業者組合の単なる一員でしかなかったメディチ家も、1360年に生まれ、1429年に死んだジョヴァンニの代になると、法王庁の財政に参加したりして、一家の経済力は急速に上昇する。おそらく当時、イタリア第一の銀行家であったろう。…父親の死の年40歳であった息子のコシモは、この父親から、莫大な財産と善い評判と美しきものへの愛を相続する。そしてそれらすべてを、全イタリアに止まらず、ヨーロッパの規模にまで拡大したのが彼であった。」(p.71)
このコシモ・メディチとその孫のロレンツォ・メディチが大メディチ家の基礎を固めたといわれている。しかしこのロレンツォがメディチの独裁体制を強化した時期から同時にメディチの崩壊もはじまるのである。
メディチ没落の要因は、独裁体制への民衆の反発であり、その反発を利用した修道士サヴォナローラの登場(1490年)であり、もう一つはフランス王シャルル8世のイタリア侵攻である。
「1494年10月26日、ピエロ・デ・メディチは有力者たちとも相談せずにフィレンツェを発った。ピサへ向かって南下中のフランス王に会うためである。王に会ったピエロは、フィレンツェ領内に被害を与えないように願い、その代わりフィレンツェは王の軍に降伏し、その証拠として、領内の二つの町の市門の鍵と20万フィオリーノ分の金貨を提供する、と申し出た。王はもちろん承知したが、フィレンツェの人々が承知しない。…10月29日、フィレンツェ領内の一つの町が、フランス軍に攻められ、開城した後、徹底的な掠奪を受けた。11月1日、フィレンツェの街中では、恐怖におびえる民衆を前に、サヴォナローラが説教する。…」(pp.156-7)
「ポポロ、リヴェルタ(民衆、自由)」がその時サヴォナローラに指導された民衆のスローガンという。(p.158)
11月9日、シャルルのフィレンツェ到着をきっかけとして暴動発生、メディチ政権転覆、ピエロ逃亡。翌年、サヴォナローラの指導下にフィレンツェに新政権誕生。
1498年、教皇アレッサンドロ6世がサヴォナローラを破門し、その後逮捕、火刑に処す。この年、マキアヴェッリ(29歳)、フィレンツェ政庁の第二書記局書記官に採用される。
つまりここから彼の活躍が始まるのである。
「(そのころ)ローマ法王庁の主座は、ボルジア家出身のアレッサンドロ6世が占めていた。1492年に即位して以来、シャルル8世の軍事力とサヴォナローラの言論との連合によって引き起こされた危機を巧みに乗り越えたアレッサンドロ6世は、対シャルルを目的とした神聖同盟の提唱と成功によって、その地位を一段と確実にしていた。そしてこの確実になった立場を、息子のチェーザレ・ボルジアの野望の実現に向けて、フルに活用し始めた…。」(pp.213-4)
このチェーザレ・ボルジアこそが マキアヴェッリの代表作『君主論』のモデルとされているのである。
つづく
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