水俣病が映す近現代史(22)経済成長という選択
- 2024年 10月 25日
- スタディルーム
- 水俣病経済成長葛西伸夫
【自然災害】
敗戦前後の記憶の底に埋もれているものに、自然災害がある。とくに台風による被害は深刻だった。(以下、カッコ内は確認された死者数)1945年枕崎台風(3756人)・阿久根台風(377)、1947年カスリーン台風(1077)、1948年アイオン台風(316~512諸説有)、1949キティ台風(135)、1950年ジェーン台風(398)・キジア台風(65)、どれも人的被害に加えて農地の被害がひどく、食糧難に拍車をかけた。
ちなみに、この頃地震も多かった。1943年鳥取地震(1083)、1944年東南海地震(1223)、1945年三河地震(2306)、1946年南海地震(1443)と、死者が千人を超える震災が4年連続で起こっている。48年には福井地震(3769)も起こっている。
空襲と自然災害で国土が荒廃し、食糧難と電力不足というのはますます喫緊の課題となりつつあった。あらたな農業用水の確保という課題も付随していた。
そのような状況のなか、日窒の水力発電所建設計画は徐々に合理性が増してきた。
【官制経済と傾斜生産】
経済分野の復興については、もはや国内企業に自力で再生する力は無く、行政による強制的なオペが不可避だった。1946(昭和21)年12月、第一次吉田内閣主導で、石炭と鉄鋼の両産業に資材と資金を重点的に投入する「傾斜生産方式」が実施された。
不足していた石炭をかき集めて鉄鋼生産に集中投入し、その鋼材を石炭産業に投入する。そうやって相互的拡大再生産を狙った。両産業に効果が出たら次は肥料と電力等に集中投資することが予め計画されていた。
製品価格は政府が安めに決定し、赤字分を補填した。資金は1947年に設立した復興金融金庫融資が用いられた。これは日本興業銀行の復興金融部が独立し、1947年1月に全額政府出資で設立されたものである。
日窒が水力発電所建造計画を「内谷発電所建設計画」として商工省(1949から通産省)に申請したのは1946年の11月8日。「傾斜生産方式」の閣議決定のひと月まえのことであり、かなり強気な決定であったことがわかる。
計画が認可されたのは2年後、1948年11月29日であった。
傾斜生産方式は奏功し、ほぼ目標通りに産業界の生産力は向上していった。ただし、激烈なインフレーションをもたらした。1940年に1.64だった物価指数は45年に3.5、46年からは年毎に16.2→48.1→127.9→208.8、さらに55年には343.0、60年には352.1となった。
このインフレーションによって戦時中に発行された莫大な国債の実質的価値は激減した。「傾斜生産方式」は、対象産業と国とが救済される一石二鳥政策であった。
ただし国民生活は犠牲を強いられた。
日窒も、肥料産業として対象企業となってこの政策の恩恵を受けた。しかし、内谷発電所計画が認可された1948年には予算が約3倍(6億8880万円)に膨れ上がっていた。それでも計画を中止せず、1949(昭和24)年2月8日に工事が始まった。
しかし、さらにインフレは進行し、予算は10億9000万円に膨張、そして1950年のキジア台風による洪水で工事中の土堰堤が流失し、計画は大幅に縮小された。
結局、最大の特徴である貯水池は省略され、従来の「流れ込み式」として1950(昭和25)年10月に暫定的に発電を開始した。そこまでで総工費は13億1900万円にも達していた。
【占領政策の変化とその背景】
前稿でも触れたが、GHQの占領政策で目指した日本の改革は不徹底であった。そして1948年頃からは朝令暮改が顕著になる。東西冷戦構造の極まりと同時に、GHQ内でのふたつの対立派閥の力関係が動いたと言われている。その派閥とは、民政局(GS)と参謀第二部(G2)であった。
GSはリベラル派とされている。そこには、アメリカで軍需産業の興隆によって存在意義が薄くなったニューディール派が、敗戦後の日本でその改革を実現しようとする勢力が多く加わっていた。
一方、G2は職業軍人が多く、日本の軍事的、戦略的重要性を重視するグループだった。
占領初期はGSが優勢で、憲法案の作成や民主化、労働組合の育成などに積極的だった。傾斜生産方式という積極財政に肯定的だったのもそういう背景がある。また、1950(昭和25)年に制定された国土総合開発法は、ニューディール派の助言によりTVAを手本にして策定された(具体化は12年後)。
GSが優勢だったとされる頃は、国内の左派勢力が興隆していた。
1947(昭和22)年に「2・1ゼネスト」が計画された。これは吉田茂政権を打倒し、共産党と労働組合の幹部による民主人民政府の樹立を目指すというものだった。これはマッカーサーの指令によって強引に中止させられた。
そして、1948(昭和23)の夏、2年まえからくすぶっていた映画会社「東宝」の労働争議が拡大し(第3次争議)砧(きぬた)撮影所には多数の労働者が立てこもった。このときは警察予備隊だけでなく、アメリカ軍までが出動した。
このころには潮目が変わろうとしていた。
影響を及ぼしたのは、アメリカ大統領選挙出馬を狙っていたマッカーサーの、1948年6月における共和党候補選挙での惨敗だった。
それまでは占領政策においても左右のバランスをとる必要があった。共和党には労働組合の支持層があり、日本の労働運動の扱いにも神経質にならざるをえなかった。
大統領の線が消えたマッカーサーには、その配慮が不必要になった。
そして同時期の日本では「昭和電工疑獄事件」が起こる。
これは(のちに新潟水俣病事件を引き起こす)昭和電工が、復興金融金庫の融資を得るためにGHQや政官財各方面に政治献金を行っていたという事件だった。発覚は1948(昭和23)年6月。2000人もの関係者が事情聴取された。捜査は内閣総理大臣の芦田にまで及び、政務長官と副総理が逮捕され、内閣は解散となった。
そして 1948(昭和23)年10月15日、第2次吉田内閣が誕生する運びとなった。
民主党の芦田均はGSと、民主自由党総裁の吉田茂はG2と近かったと言われ、事件の背景にはその派閥争いが絡んでいるという謀略説が根強い。
海外では、1948年に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、大韓民国では李承晩による「赤狩り」が猛威をふるい、済州島ではそれに反旗を翻した島民蜂起「4・3事件」が起こった。翌49年の中華人民共和国成立があった。
そういった海外の風向きは、日本を「反共の砦」として利用しようとするG2の勢力にとって追い風となり、第二次吉田内閣は満帆を挙げて舵を右に切った。
【ドッジ・ラインとその影響】
GSが弱体化し、G2がイニシアティブを握ると、経済政策は逆転した。
1948(昭和23)年12月、GHQは「経済安定9原則」を提示。まずは過熱したインフレの収束を求められた。それは経済顧問となったジョゼフ・ドッジによる施策で「ドッジ・ライン」として方法が具体化された。
ひとつは「超均衡予算」の実現。これは英語では”balanced budget with surplus” であり、支出を上回る経常収入を予定する「黒字予算」政策である。これまでとは真逆のハードな方針であった。
そして1ドルは360円の固定相場となった。(それまでは品目ごとに固定為替レートが設定されていた)
当時の予想値は330円と考えられていたので、かなり円安の設定であった。(円周の360度にちなんで360円としたという話もある。)
高度経済成長期後期に輸出品目が増えると、円の安めの固定レートは強固な足場となった。
ちなみに「ブレトンウッズ体制」が始まっており、金1オンス=35ドルとして、ドルが世界の基軸通貨とされた。円がそれに固定されたということになる。
そして復興金融金庫の新規貸出が停止された。
内谷発電所の建設をそれでまかなっていた日窒にとっては緊急事態だった。しかし代わりに米国対日援助見返資金特別会計(通称:見返り融資)が設けられた。
これはアメリカから受けた援助物資を国内で売却して得た代金を一括して管理する特別会計であった。
内谷発電所はこの融資の第1号として、1億7千万円の融資を受けた。着工前だったので、もし「見返り融資」が無かったら中止していたかもしれない。
ドッジ・ラインによってインフレは収束したものの、企業や組織は大胆な人員整理を強いられた。たとえば公務員は約28万人、国鉄職員は約10万人が対象とされた。
1949(昭和24)年には国鉄三大事件と言われる下山事件、三鷹事件、松川事件が起こった。人員整理に反対する国鉄等の労組による犯行と言われているが、多くの謎と冤罪説が残っている。
いずれにせよ、ドッジ・ラインを契機に日本の労働組合は結束が高まった。労組は労働者にとっては生活を守るための砦だった。
しかし、欧米などのように産業別に組合が組織されるのと違い、日本の労働者の帰属先は会社と同じ屋号の組合であった。これは、日本の企業が終身雇用制の家族的経営で、労働者(平社員)が出世して経営陣・社長となることが多いことが理由であると言われている。だから日本では労使協調路線が採られることが多かった。
一方で、工員/職員のような身分制度を強く残している新旧財閥系の企業は労使協調とはいかなかった。
日窒労組は1950年に結成された合化労連(合成化学産業労働組合連合)の傘下となったが、労働者の帰属意識は日窒の屋号のついた労組のほうであった。
【朝鮮戦争】
「ドッジ・ライン」は日本に急激なデフレを招き、失業や倒産が増えた。1949年には東証の平均株価が最安値を記録する時期が続き「安定不況」と呼ばれた。
そのころの日本経済を救済したのは朝鮮戦争特需であった。
朝鮮戦争については別稿で取り上げるが、とにかくこの戦争では日本はアメリカ軍(正式には国連軍)の補給基地であり不沈空母の役割を担った。
半島に向かう航空機は日本で爆弾や物資を積み、合計で100万回以上離陸していった。
日本はアメリカ軍から軍需関連物資の調達、車両の修理、兵舎の建設などのサービスを求められ、直接的には10億ドル、間接的には35億ドル以上の特需を日本にもたらした。
また、この戦争は世界中に緊張をもたらせ、各国に軍備増強を誘発し、好景気をもたらした。安い円が功を奏し、日本商品は海外に広い販路を獲得した。
これらの結果、国内の産業が戦後初めて好況に転じた。
【東の「カーテン」】
1946年首相退任後のチャーチルは、バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでを結ぶ線を、ソ連の影響が及ぶ共産圏と西側自由主義国を分離する「鉄のカーテン」と表現した。
西側ヨーロッパはNATO(北大西洋条約機構)軍事同盟を組織し、明確に東側と対峙させた。NATOのために西ドイツも再軍備した。
一方、アジアに引かれた線は風にそよぐ布のカーテンだった。(恐らく戦略的に)あやふやな状態(紛争・戦争の種)を残したままにされた。そのため、20世紀後半の戦争の多くはアジアを舞台として繰り広げられる。
その点で朝鮮戦争は20世紀後半の幕開けにふさわしい戦争であったし、「休戦」状態で終わらせたことも象徴的であった。
朝鮮戦争が混迷を極めていたなか、軍備を禁止された日本は、アメリカにとって極東の「要衝」の役割を求められた。そのためにはアメリカの占領地であるより、独立国として主体的に「西側」に属し、アメリカに貢献し、経済大国となってアジアにおける資本主義の「要衝」となることがよいとされた。
だから講和=「独立」が急がれた。
交戦国すべてとの講和はせず、アメリカを中心とした西側諸国とのみの講和(単独講和)というかたちで1951(昭和26)年9月8日サンフランシスコにて対日平和条約が調印された。
国内では、すべての交戦国と講和(全面講和)すべきとの主張が噴出したが、第二次吉田内閣は押し通した。
【安定恐慌と資本の集約】
朝鮮戦争が「休戦」したのは1953(昭和28)年7月27日。
朝鮮戦争は日本経済に活気をもたらせたが、休戦協定の締結により需要が急減すると特需時の過剰な投資が固定費となって企業を苦しめた。また政府は金融引き締めを行ったのでさらに厳しい経済状況に陥った。この時期は「安定恐慌」と呼ばれている。
GHQの集中排除法は325社を指定しながら実施されたのは10数社にとどまり、分割された企業は大部分が合併して元に戻ったり、企業グループという形で存続した。そういった新旧財閥は「安定恐慌」で倒産した中小企業を吸収することで独占資本を取り戻し、戦前状態に復古していった。
ところで、三島由紀夫の小説『鏡子の家』は、ちょうどこの頃(1954年(昭和29年)4月から1956年(昭和31年)4月)の時間設定で書かれている。三島は、安定恐慌から高度経済成長に踏み出し大きく変化していく社会の様子を小説の舞台として選んだ。
4人の主人公が登場するが、社会に希望が見え始めてきたこの時期に、彼らの内に虚無が充満していくようすがアイロニックに描かれている。
ちなみに終盤では、主人公のひとりである日本画家のアトリエに、当時一般家庭には珍しかった冷房が取り付けられる場面がある。
【三種の神器】
1953(昭和28)年、日本ではテレビ放送が始まった。そして「三種の神器」と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が売れ始めた。のちにその年は「電化元年」と呼ばれた。
これらの家電製品は、揃えて所有することが豊かさの象徴であるために「三種の神器」と呼ばれたが、それはむしろ日本の経済成長にとって「三種の神器」というべき商品であった。
なぜならそれらが日用必需品ではなく、耐久消費財であったからだ。所得額に「見合った」消費ではなく、所得が増加したとき「多少無理をして」購入するもの(所得弾力性が高い商品)だったからである。
当時の日本が経済成長するには、耐久消費財の需要が不可欠だった。後にそれはより投資金額の高い自動車等へと移っていく。
しかも日本の場合、昭和30年の時点で9千万の人口を抱えていた。海外に需給のあてを求める必要も無かった。国内市場の耐久消費財だけで経済成長が十分に可能だった。
耐久消費財の生産には鉄鋼とプラスチックが不可欠であり、電力需要も急増する。国内の重工業や重化学工業への増資が必要だった。またそれにあわせて、大規模発電と電力網の増強も不可欠だった。
経済成長路線と、重工業・重化学工業拡大路線はセットであった。
逆に言うと、日本には軽工業で経済成長しないという路線もあった。日本はどこかで前者を選択していたのである。
【財政投融資】
重工業・重化学工業拡大路線といっても「ドッジ・ライン」によって黒字寄りの均衡財政が条件づけられていたので、これまでのような大胆な財政出動はできなかった。だが、それなしに重工業・重化学工業路線は不可能だった。
そこで見つけた財源が、郵便貯金であった(それと厚生年金保険と国民年金)。
しかもそれを一般会計・特別会計・政府関係機関会計とも別立ての「第二の予算」として作った。この仕組みは「財政投融資」という。
この仕組みの起源は郵便貯金の始まりまで遡るが、1951(昭和26)年の資金運用部資金法の制定により本格的に具体化し、同年に設立された日本開発銀行によって運用された。
これは一般会計とは別勘定なのでバランスシートに影響を与えず、ドッジ・ライン政策下でも通用した。
財政投融資はしばらくの間一般予算にたいして、その4~5割分を計上し続けた。やがて無駄遣いが指摘されるようになり、2001年の小泉純一郎による財政投融資改革で廃止された。
大蔵省、通産省、日本興業銀行、日本開発銀行による経済統制・産業統制と、復活した財閥企業群。それに9000万人の内需。高度経済成長の条件は十分に整った。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1325:241025〕
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