まだまだ続く「日本の選択的夫婦別姓」論議(その4) ― 国連の女性差別撤廃委員会の勧告を受けて
- 2024年 11月 9日
- 時代をみる
- 池田祥子
石破茂内閣での「選択的夫婦別姓」の行方
前回(10月)、すでに触れたことだが、自民党総裁選で首相に選ばれる前の石破茂氏は、「選択的夫婦別姓」について、次のように述べていた。
― 姓が選べないことによって、つらい思いをしている、不利益を受けている、そういうことは解消されなければならない(8月24日の会見にて)。
その後の総裁選の最中では、積極的推進派の小泉進次郎、断固反対派の高市早苗両者の狭間で、それでも「(選択的夫婦別姓を)やらない理由が分からない」と述べていた。
しかし、総裁選を制した後の初めての所信表明演説では、「政治資金改革」の抜本的な提案もなされず、自民党内での強固な反対派を意識したのか、この「選択的夫婦別姓」制度に関しては、一言もないままであった。
さらに、内閣組閣直後の唐突な解散および総選挙を経た結果としての、自民・公明両党の過半数割れによって、結局は、国民民主党をも巻き込んでの国会運営をよぎなくされている。
今にして思えば、8月段階での石破氏の発言、「姓が選べないことによって、つらい思いをしている、不利益を受けている」という内容は、はたして現行の「夫婦同姓」制度の問題を、「女性の権利(人間としての認定)の侵害」として明確に受け止められていたのであろうか、これから、さらに問われる課題である。
国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)の審査と勧告
そもそも、国連の「女性差別撤廃委員会」とは、1979年に採択された「女性差別撤廃条約」を批准した国々の、その後の履行状況を監視するために設置された外部専門家から構成された組織である。
日本は、この「女性差別撤廃条約」には、1979年に締結し(現在では189カ国)、また現在の「女性差別撤廃委員会」(メンバー23名)にも、秋月弘子氏(亜細亜大教授)が選ばれて「副委員長」を務めている。その意味でも、大きな責任を負っているといえる。
もちろん、これまでの「女性差別撤廃委員会」による勧告に基づき、日本国内での、「婚姻年齢の男女の差の解消・女性の再婚禁止期間の廃止(民法改正)」「強姦の定義をめぐる改正(不同意性交罪)および性交同意年齢の引き上げ(13歳から16歳に)(刑法改正)」等々、それなりの対応を為している。
しかし、「選択的夫婦別姓制度の導入」に関しては、2003年、2009年、2016年と続き、今年2024年は、4度目の勧告となる。
しかも、日本以外の国々での改革も進み、今では、「結婚に当たり、夫婦に同姓を強制するのは日本だけ」ということもあり、委員会も「女性が夫の姓を名乗ることを余儀なくされることが多い」のではないか、という指摘すら行っている。
今年の対面審査は、10月17日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部で行われ、2016年以来8年ぶりであった。
しかし、日本の国内で、この「女性差別撤廃委員会」での「対面審査」への対応を、真摯に準備した気配は伝わってはこなかった。日本の政治の「不真面目さ」の一つの事例とも言えるかもしれない。しかも、対面審査に応ずる代表団の構成についても、「日本政府からは、内閣府の岡田恵子・男女共同参画局長を代表に、各省から約40人で構成する代表団」と記されているだけである(朝日新聞、10.18)。
さらに、対面審査で取り上げられる議題は、当然予想されるはずにもかかわらず、国内ではほとんどまじめな取り組みや事前準備など、その雰囲気すら伝わってはいない。
実際、その時の審査に当たって、法務局からの担当者は、次のように答えたという。
「世論調査でも国民の意見が分かれている。家族のあり方に関わることから、より幅広く理解を得る必要がある。議論が深まるように取り組んでいる」(同上)。
はたして、これが45年前に「女性差別撤廃条約」を批准した国の真面目な対応なのだろうか。責任をもてる政治家が一人も出席しないまま、各省庁からの官僚による「代表団」のみを派遣して事を済ませようとする日本の政治の無責任。・・・その頃、国内では、石破茂首相を中心とした衆議院の「解散・選挙」の只中であったのだが。
「選択的夫婦別姓」の提唱の歴史的寛容さ!
ところで、「選択的夫婦別姓」の「選択的」という語に注目してみよう。
まさに「選択的」であるから、「すべての人に強制する」という意味ではない。その意味では、「自由」を保障している。「選択したい人はそれを選び、選択したくない人は選ばなければいい」。
ところで、戦後の民法で「夫婦同姓(氏)」が規定されたのは、戦前の「家」制度の歴史を踏襲したということもあり、結婚は、通常は(養子・婿入りを除けば)「女の嫁入り」であったからである。「嫁」という漢字そのものが見事に表しているように、「女が男の家に入ること」が「嫁入り=結婚」であった。
したがって、前回、私自身の子ども時代の「幼い風習」を晒した通り、日本では、女の子が恋をすると、まず初めにその男の子の「姓」を自分の「姓」に置き換えてみる、のは「普通」であった。その意味では、「夫婦同姓」は、男にとっては勿論、女にとっても「違和感」なく受け入れられてきたのであろう。
しかし、時代は動く。人間の意識や感覚も変化する。「人権」という権利の自覚が、まずは一部の女性たちに「夫婦同姓」への疑問、不公正、あるいは不便を意識させ始める。・・・こうして、日本での「夫婦同姓」への疑問が広がり、「夫婦別姓」の要求が広まっていく。ただ、歴史的慣行とそれに伴う「感覚」「感情」は意外に根強いものがある。したがって、いま現在、たとえ「選択的夫婦別姓」が施行されたとしても、当の本人が「これまでの自分の姓=夫とは異なる姓」を希望する女性はさほど多いとは限らない。だが、「別姓=元の自分の姓」を希望する人には、その希望を叶えてあげたい!
逆の立場から言えば、自分は「結婚しても、これまでの姓を名乗りたい。しかし、それを希望しない女性たちにまで、別姓を強制したくはない」ということである。
このように考えると、「選択的夫婦別姓」制度の提唱は、「強制」を排除している。当人たちの「希望と意志」を尊重している。したがって、現実には、「「姓を同じくする家族と、相異なる姓を称する家族」とが現出する。それでいいではないか!それで、何か不都合が生じるのか?「NO!」である。
このように考えてみると、「選択的夫婦別姓」の提唱は、制度の「寛容さ」や「自主的な制度変化」を承認していることが分かって来る。
この辺りを、いま少し積極的に展開していってはどうだろうか。
その際に、「家族とは、姓を同じくするもの!」「姓が異なっても家族だと?!そんなことはありえない!」「母と姓を異にする子どもは可哀想!」・・・と言い募る「日本的家庭」論者とも、現在の児童虐待や「家庭内犯罪(親殺し、子殺し)」の事実に基づきながら、「選択的」という政策の画期的意味に気づいてもらえるだろうか。
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