いつもの冬
- 2024年 12月 1日
- 時代をみる
- ホームレス笠井和明
今年も猛暑日炸裂の日々であった。路上となると、とても暑くて居られない。
そんな中、30周年と銘打った8月の「夏まつり・慰霊祭」も終わり、「ああ、そうなんだ、30年もやってるんかい」と、多くの仲間はあまり感慨もなく「そんなことより、早く涼しくなんないのかいな」と、パトロール(巡回)の仲間から「塩飴」もらって、それを舐めながら焼けたコンクリートの上で横になる。概ね口が悪いのは江戸っ子気質なのか、寄せ場気質なのか、生活が不安であればある程、ボヤきが出る。かと思うと、往時を知る古い仲間から突然電話があって、「あの頃のみんな元気かい?」って。30年も経っているのだから、そんなわけはないのであるが、「まあ、元気だよ」と、何のかんのと、昔話。
台風がいくつか過ぎ、局地的な豪雨やら雷雨やら、大ガードのマンホールの蓋が吹き飛ぶと云う、とても普通でない光景が全国のニュースに流れ、他方でテレビには決して映らないその脇にある段ボールは水浸し、毛布も鞄も水没、なんてことにもなった。
当たり前過ぎ、もはやニュースにもならないが、熱中症で倒れて死んだなんて云う話も普通にあり、「俺の知りあいが」とか、役所に「行路死亡人」の張り紙がとか、残念ながら、そんなことにもなってしまった。
しかもこの暑い最中、東京都の公園課や交通局やらが小さな撤去などしてくれるものだから、「どうしたこうした」「どこ行った」「探してみるか」「やれやれ、無事だったよ」「見つからなかったよ」と、こちらは汗水ながして一苦労。パトロール(巡回)中にゲリラ雷雨に見舞われることも数回。おまけに事務所の古いクーラーを22度、最強連続運転をしてくれた「留守番係」が居り、水が吹き出ているのにも意を解さずにそれを眺めているだけ。酷暑の最中の冷房故障になってしまった。言い草がまた良い。「だって、暑いんだもん!」。もはや、笑笠井和明うしかない。
お陰で事務所にシャワーを浴びに来た仲間に大変迷惑をかけてしまった。
その「シャワーサービス」、今年の10月を持って終了と云うことになった。こう云う事業は理解してくれる人々がいて初めて成り立つ事業であるが、そこら辺のバランスをどうやら欠い
てしまったようである。留守番係の「番頭さん」にはサービス精神などどこにもなく、来てくれた仲間の相談に乗るどころか、尻を向けてテレビを見ているだけ。良く云えば「アットホーム」、悪く云えば「ブラック」な雰囲気が、かつてなら何のかんのと許されもしたが、利用者の代替わりもあり、なかなか通用しなくもなり、そうなると評判も落ちる。
このシャワーサービス、戸山公園などでテントの仲間がごぞっといたころ、新宿福祉事務所や「とまりぎ」(区の委託相談所)のシャワーサービスから遠いこともあって、衛生面での注意喚起も含めて、自前でシャワー提供、下着などの提供をしようと、かれこれ19年前から始まったもの。高田馬場での相談、居場所の拠点化の一貫でもあった。しばらくは事務所でも衣類や毛布も提供しており、冬場はたいそうな賑わいで、年末は餅つきなども事務所前の駐車場を借りてやったものである。これもオーナーの理解があってのことであったが、地域の名物オーナーであった先生も歳になり、ついに引退。代が変わることとなった。
無理解な新たな管理者がやって来たが、東京の地主はとにかく「傲慢」。そして、「商売第一」。社会福祉の観点など二の次。今まで平気にやっていたことも「苦情」やら「風評被害」やらをでっちあげ、「駄目だ」「駄目だ」となる。
こうなると、一つの区切りのようでもある。地域の中の「福祉拠点」と云うものは大変難しいものであることをここに来ていやがおうにも実感することとなった。
新宿の戸山地域で路上の仲間は劇的に少なくなったし、お客さんも今やポチポチ。惰性でやっていても仕方がないと云うことで、19年間続けて来たことを噛みしめながら、この民間の試みはこの機に終了することとなった。これまで利用してくれた仲間は「とまりぎ」に移ってもらい、同様のサービスはそこで受けることになった。なにせ「とまりぎ」は福祉事務所のお隣なので、何を相談するにも都合が良い。
その戸山公園。とある古くから居る仲間をフェンスで囲い込み、露骨で執拗な追い出しをしてくれ、その仲間2の知りあいだとか、周りの人々は心配になってあちこち探し歩いているのだが、追い出した当のお役人が考えるのは自分の敷地だけ。居なくなりさえすれば、どこに行ったかなんてのは気にも止めない。
片や明治通り側の「整備工事」は公園半分を立ち入り禁止にして工事をしていたが、終わったあとは、ベンチがすべて(横になれない型に)取り換えられ、おまけにあずまやの屋根はなくなり、雨天時の避難場所もなくなってしまった。
大事にならない小さな排除や撤去や嫌がらせ、そして地域の中での差別は、残念ながら今も続いている。
戸山公園周辺の土地は元陸軍の敷地を戦後払い下げられたもの。その関係もあるのか、先の工事の時だかに「土壌調査」を実施し、その結果、基準値を超える「鉛」「水銀」が検出された。大半の広場などに今度は立ち入り禁止の網が張られ、公園の半分はまたもや閉鎖。かなり長い間、立ち入り禁止となりそうである。
子供が遊ぶ場所にホームレスが居ついているので、迷惑だと追い出した途端、今度は土壌汚染を放置していたことが発覚。結果、子供の遊ぶ場も奪ってしまった。まるで喜劇のような展開である。
子供はともかく、そこで暮していた仲間や、公園の職員さん達に健康被害がなければ良いのであるが…。
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少しは涼しくなったある日、連絡会をそれこそ30年前から断続的に手伝ってくれ、今は生活保護を受給し、個室の施設に入所していた仲間が、大ガード近辺で倒れ、心肺停止状態でICUに運ばれたとの一報を受けた。
脳梗塞か、突発性のものであったようだ。人通りが多い場所で倒れたのが幸いしたのか、命だけは助かっている。あと意識さえ戻ってくれさえすれば良いのだが…。
なかなか倒れる場所を選ぶのは至難の業である。一人住まいの施設やアパートの中で倒れたらそのまま「孤独死」である。実際、そんな仲間も多くいた。しかし、それまで何となく元気だった仲間が突然にと云うのは、心を乱される。
何であったのかと、ぼう然と空を見上げても、涙しか出ない。若くして路上になってしまったことも思いもよらないことだったろうが、そこからようやく抜け、それでも路上の仲間が心配だからと駆けつけてくれ、そして、最後はこんなことになるなんて…。
人生何があるか分からない。
季節の変わり目はこう云うことが多い。摂生をしろとか、健康管理には気をつけろと普段から言いまくっているのであるが、当の本人達は、そんな声にはほとんど耳を貸さず、「のほほん」と日々の暮らしを続け、福祉となれば、お金の心配がないのと、手元がなくなれば炊出しなどがあるのを下手に知っているから、お金が必要な繁華街の街中でも気楽に過ごせる。ま、それを責めても仕方がない。欲にまみえて粗悪なものを大量に消費させ、不摂生にし、それいて「健康」を商売にするのが普通の今の世、そう云うものだと思うしかない。
かく云う私も、若き頃からのチェーンスモークの習慣で、血管と心臓がいかれ、気がついた時には心筋梗塞となり、九死に一生の後、ようやく生き残った身である。そして、生き残っても血管は詰まったまま。心臓も変形したまま。手術は不可能。あまり無理をすると爆弾が再破裂する危険が残っているので、そんなものと付き合いながらの余生である。病とはそれを一定克服してからの方が大事なのは知ってはいるが、病院通いが、何かとうっとうしい。
「連絡会の男どもは、人には医者に行け、行け、ついてってやると勧めているのに、自分では絶対にいかないのね」と、看護師さんから言われ続けていたのは少し前の話。
自分のこととなると二の次になるのは、皆、そう云う気質なのだから仕方がないが、少しぐらいは考えた方が良いよと、今なら言えるのは、大病を患った後だから。
路上生活も自分が実際に路上に暮さざるを得なくなって分かることが色々あるよう、病気もまた同じである。あの時、こうしておけば良かったと後悔したとしても、それは後の祭り。
彼の病状が少しでも快方に向かうよう、祈る。
消えてもいいが、そのまま死ぬなよ。
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新宿区の5次目となる「ホームレスの自立支援等に関する推進計画」が、「検討委員会」の開催と「案」の公開、そしてパブリックコメントを挟み、来年早々に正式に確定する段となった。5年間の計画となる。
この手のものは国や都は大雑把なものしか出さないが、末端自治体のものは地域の特殊性などがあるので、具体性があり、かつ、結構細密なものを出したりする。
新宿区のその素案を、公表前、検討委員会の方からこそっとコピーしてもらい、ある日、目を通すのではなく、どらどら、どんなもんだいと、じっくりと読んでみたら、至って感動してしまった。新宿区にはそれこそ30年前から無理な要望を出しまくり、交渉をしまくり、庁舎の前で炊出しをしたり、議会に陳情出したり、乾パン投げつけたり、果てまた「ボス交」をしたり、そしてようやくお互い議論しあえるベースに至り、路上生活者対策を共に実施する関係が、長い間の関係の中でなんとなく作られて来た。
新宿区が路上生活者対策の新規事業をやる時は、必ず連絡会が首をつっこんで、それをより良いものにしようと協働もした。NPO新宿も色々な企画提案を出し、それを支えるようにして来た。そんな月日の出来事が、まあ、走馬灯のよう、頭によぎったからかも知れない。
「野宿者のためなら悪魔とでも手を結ぶ」と、かつて宣言したよう、相手の立場がどうであろうと、その支援をしようとする人々とは真剣に関わり続けて来た。
そう云う結晶のように、この計画(案)が見えたのであろう。
あれが駄目だ、これが駄目だ、と云う重箱の隅をつつく観点からは、なかなか読み解けないのだが、区政の重要課題とする新宿区のオーラや、真剣さは、この計画全体を覆っている。
今やホームレス問題は、終焉に近い都市問題として認識されつつあり、これが「ホームレス問題である」と、あたかも分かったような能書きを垂れる、にわか学者のような人々が多くなってしまったが、「全体数は減っている。が、問題は解決などしていない」「残った問題にしっかりと向き合おう」と発想する人々がどれだけいるのか。
支援者の側も今は「ホームレス」ではなく、「生活困窮者」であるなどと、貧困の流行(?)を追うことしか考えていない者が多くなった。まあ、全体はそうである。日々の生活の中、日々の業務の中で路上生活者に出会わなければ、問題意識はそのうちに薄れ、地についた議論は出来なくなる。ならば、生活困窮者とは誰なのかと問うてみても、「困っている人々」と云う漠とした回答しか返ってこない。そもそもホームレス者とは誰なのか?と云う問の、答えが完全にあったわけではない。取りこぼしも多くして来た。それを無視して解決もなにもないだろうと、するのが新宿区の問題意識である。これは日々、路上生活や元路上生活の人々と接している人からすれば普通の発想である。
私たちも日々、そう云うおっちゃん等と接している。巡回も役所に劣らず、路上生活者を発見しようと、体力の限界まで歩き回っている。
新宿区は様々な調査からも鮮明になっていない「見えにくいホームレス」を本気で探し出そうとしている。見えにくいのだから、見ないことももちろん出来る。が、そういう曖昧な態度が後に大きな問題になってしまうなんてこともある。そこを放置せず、疑問に持ち、どうにかしようと考える。こう云う姿勢は新宿区ならではである。
30年前の名物課長でもあった武山さんの時代から、歴代の課長と、やんのやんのやったり、真剣に話しあったり、提言をしたりされたりの関係でもある。そういう地元の支援団体の一つである私たちの目から見ても、「まだまだこの問題、懸命に頑張るよ」と言われているようで、「恐れ入った」と、云ったところか。
何か形が出来て実行に移すとなると都や国の財政面での支援が必要になるだろうが、それも含めて、時限立法たる「ホームレス自立支援法」が期限切れになって終焉しても「生活困窮者自立支援法」を根拠にして奮闘していくとされている。
「見えにくいホームレス」が集まりやすいのが新宿と云う街でもある。見えているホームレスでさえ、その曜日や時間帯によって実数や概数は変わる。定住しているかのように見えて、実は中は「からっぽ」なんてのもある。色々な炊き出しやら食料配布を多くの団体がしているが、そこには他区の生活保護世帯の人々やら年金生活者の人々もわざわざ来てくれるので、配食数は配食数。実際にホームレス状態の人が何人来たかなんてのは、こう云う場では計れない。タダなら人が並ぶのは当たり前。
ネットカフェも、風評被害を恐れてか最近ではチラシも置いてくれないようで、そこに長期滞在をしている人が何人居るかなんてのも分かりはしないし、友人宅やらに転がり込んでいる人やら、ビルの隙間に入ってしまえば、見えないし、計れない。そもそも昼間の居場所も把握はされていないから夜や深夜、早朝を狙うしかないのであるが、その手法もそんなに確立していない。東京都の調査が定例の概数調査と、夜間調査等の数値が極めて合致していないところが、これが本当のところのようである。なので、まだ分かってなどいないのである。
そう云うことに疑問を持つ役所の、とりわけ現場の人々がいて、その人々の声をしっかりと計画書の中に反映させ、それでは実態把握やら情報提供、広報、周知の手法を考えましょうとなるのは、さすが、新宿区である。
分かったフリ、終わったフリをしてはいけないよと、何やら今の社会に警告しているかのようである。
この計画書でも力をいれている「人権啓発」。リーフレットも出すとのことなので、是非とも地元の地主の人々や、公共用地を管理する東京都建設局やらその下請けの民間業者の人々に読んでもらい、自らの考えを反省し、学び直しをしてもらいたいものである。未だに「好きでやっている」と公言して憚らない役人や関係者が、ここだけの話、実は多く居るのである。他の選択肢がないからこうなっただけで、決して好きでやっている訳ではない。そして、今やその選択肢も多くはなったのだろうが、ボタンの掛け違いであるとか、底辺下層労働者のプライドの問題やら、自立心やら、社会への怒りや反発やら、で、そう一筋縄には行かない。教科書通りにはいかない見本のようなものでもある。それでも、何とかしよう、粘り強く、本当の意味で粘り強く、語り続けよう。そう云うことを、この計画は言っている。東京都のようなウケ狙いではなく、しっかりと地元に根を張ったすばらしい計画案である。まだお読みでない方は、一度全文をお読みすることを勧めしたい。
台本をしっかり読み込まなければ良い演技など期待できない。これは役者の鉄則であるが、私たちもまた同じ。計画をしっかり読み込むことから次を始めたいなと、この社会問題の舞台にデビューしたばかりの頃の初心を、どこか思いおこさせてくれた計画でもあった。
そんな計画を持つ新宿に暮していて新宿の仲間は、実に幸せものなのであるが、それを当たり前のように思ってしまうのは致し方がないこと。
それでも長年に亘る宣伝効果や日々の行動は「困った時には福祉」と云う合言葉になってもいるので、それはそれで良い。福祉行動など支援団体などに頼らずとも、皆、それぞれ自分の都合で行ってくれるからとても助かる。誰かをつれて、威圧的に保護申請する必要はなく、用件はしっかりと聞いてくれる。福祉事務所の隣には相談所「とまりぎ」もあり、応急援護なり専門相談なりも気軽に受けてもらえる。建物も分庁舎なので、スタスタと1階の受付に入っていける。他の区などは庁舎のどこに福祉事務所があるのかすらよう分からず、エレベーターあっち乗って、こっち乗ってとなるが、身なりが汚れているとそう云う場所は恥ずかしくて嫌なので、滅多には行かない。
幸いなことに新宿は相談の入り口の環境としてはとても良い。ぴかぴかの庁舎より、行きやすく、話しやすい、そんなフラットな環境であることも大事であったりする。
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ま、それはともかく冬である。
今年も秋が短く、どかんと一気に寒くなったりするのであろうか。東京は雪の被害がほとんどないが、北国の人々は例年のことながら、大変でもある。越後「いろりん村」の小屋は早々に雪に埋まるだろう。それでも雪国には、建物一つでも、雪に備えるさまざまな工夫がされている。それと同じく、新宿の路上でも冬に備える工夫が繰り広げられ、世代を超えて受け継がれ、路上に定着する術を編み出して行く。そんな季節である。
その昔は越冬対策が大々的にやられ、2週間の大規模宿泊援護が行われ続けていた。2週間だけなので根本的な解決にはならないとの批判も多くあったようであるが、今思えば、2週間だけだから、そして、後腐れもないから、人気になったのであろう。今で云う「シェルター」(一時宿泊)より、一段と入りやすかった。抽選にあたれば、ほぼ無条件に入れた。
そんな古き良き時代もあったが、それはそれ。
冬は命の危険と隣合わせである。全体と、個別の把握。そして一人ひとりへの話し込みが鍵となる。私たちの年末年始の集中炊出しなどは、その象徴的な取り組みである。寒いときには暖かい飯を。その一杯だけでも明日への希望がつながったりもする。また、そう云う場所で新しい仲間との出会いもある。
冬季の長きに亘って、いかに路上に分け入れるか、パトロールのコースを開拓できるのか、新しい仲間とどれだけ出会えるのか、これらが冬全体に問われる。
そして、いざと云う時の備え。
30年間、新宿で続けて来た「いつもの冬」である。時代に合わせたとしても、その基調は何も変わらない。
クリスマスの前の日だかに、家賃滞納であると、冷酷無比な「大家」に追い出されたのは、ネロ少年と犬のパトラッシュ。これはベルギーの話だが、我が国でも、昔から「年の瀬」は借金の清算の時期だとかで何かと物入りが必要。ネロ少年のよう身内の不幸があれば、猶予ぐらいしても良いのであるが、鬼畜のような「大家」や「不動産屋」がいるのはどこの国も同じ。雪が降るなか、教会の前や寺の前で凍死なんて悲劇も実際には幾らもあったのだろう。
そんな悲しい話が起こらぬよう、とにかく路上の現場では最善の策をとる。
そして、だからこそ、「仲間の命は仲間で守る」と云う、「共助」の精神こそが必要となるのである。誰も助けてくれないのだから、仲間で助け合う。そして、そのために仲間を作る。
誰も「巡回・パトロール」などやらなかった時代から、今は多くの方々が回ってくれる。役所の方も基本方針、推進計画ともども「巡回相談」が大きめの柱となってもいる。こちらは給料もらって回ってくれるのだから、質はともかくとしても、安定感はある。そして報告もしっかり残すのが義務づけられているだろうから、記録にもなる。個人情報の問題などで、民間と役所と個別情報を共用すると云うのは難しいものであるが、それでも同じ街をまわっている同士、可能な限りの情報を共有しながら、効果的と言ったら語弊があるが、路上のおっちゃんの冬ごもりの手助けやら、冬から脱したいおっちゃんの生活保護適用や自立支援事業参画、また自力での頑張り、そんなものを後押しをして行きたい。
路上から先、貧乏長屋は今の時代にはないが、関連施設や、簡易旅館、木賃アパート、公営住宅やら、届け出が必要ない施設や、若者向けのゲストハウスなどフォーマルなものもインフォーマルなものもこの東京では、探せば結構あったりする。
路上から、それぞれ旅立ったとしても、それが決してゴールではなく、苦難の連続ではあるが、それでも、それぞれの場所で仲間を作り、助けあっていければ良いのである。そして、駄目であったら、何度でも新宿の路上に戻ってくれば良い。連絡会がある限り、話ぐらいは聞いてあげられるし、もしかすると共に歩むことも可能かも知れない。
この国を築きあげて来た、名もなき労働者の一人として、同じ時を生きる底辺下層の同じ者として、この冬を仲間と共に生きていきたいと思うのである。
それが「寄せ場」の諸先輩方から学んだ、俺ら新宿の、今を生きる越年越冬闘争である。
(了)
初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL91」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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