韓国語から学ぶもの <その1> 韓国通信NO758
- 2024年 12月 2日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘
友人たちと韓国語を学び始めたのは1977年。最近は少なくなったが、「どうして韓国語」と問われることが多かった。
詩人の茨木のり子さんも答えることが煩わしかったのだろう。「隣の国だから」と答えていた。彼女は「韓国語の森」という詩のなかで、
「日本語が かつて蹴ちらそうとした隣国語
한글(ハングル)
消そうとして決して消し去れなかった한글
용서하십시오(ヨンソハシプシオ)
ゆるして下さい 汗水たらたら 今度はこちらが習得する番です」
<韓国語半切表>
と、韓国語を学ぶ動機を語り、
「どこまで行けるでしょうか
行けるところまで 行き行きて 倒れ伏すとも萩の原※」
と、韓国語学習への決意を示した。
※河合曾良の俳句からの引用
この詩が気に入ってコピーして友人たちに配った。
以来、茨木さんは私の同志になった。私も真似して、「隣の国だから」と説明してきた。
それでも怪訝顔の日本人は多かったが、初めて会う韓国人は例外なくとても喜んでくれた。
<韓国語学習前史>
私の少年期に耳にした言葉-「ハヴァー、カヴァー」、「スゴン」。前者は「しよう、行こう」、スゴンは「手ぬぐい」が韓国語だとわかったのは韓国語を勉強してからのこと。仙台の私の祖母が、子どもに「アンチャアンチャ」と座らせたのはいまだに謎めく。座れという意味だが、朝鮮に出兵した経験のある祖父から教えてもらったのかも知れない。
<学習のきっかけと勉強サークル>
金芝河の詩を読んで感動した。私とほぼ同い年の彼が独裁政権と闘う姿がまぶしかった。
『苦行』『金芝河全集』を原文で読みたくなった。1970年代のわが国では隠れた金芝河ブームが起きていた。
銀座の浦田弁護士との出会い、勉強する仲間が集まったのは前回紹介した。教科書は早川嘉春の『朝鮮語入門講座Ⅰ』、京橋 の三中堂書店で見つけた。早川氏は1974年に韓国の民青学連事件で逮捕された少壮の研究者で釈放帰国後、大学教師、NHKハングル講座の講師を務めた。
<上写真/法廷の金芝河 死刑判決の宣告時>
<低空飛行を続けた25年>
難解に見えたハングル文字は短時間で読めたが、発音に苦労した。日本語であまり使わない濃音と激音- つまる音と激しい音。日本語の「ん」が舌の位置によって二通り、「お」の発音も唇の形で二通りある。半切表(日本語の「あいうえお表」に相当)の文字に、さらに子音が加わる複雑さ。発音を指示する文字は世界でも例がないという。学習者は李朝世宗王が庶民のために文字を考案させ、それを「訓民正話」として公布した(1446年)事実を知って納得する。
新しい言葉の学習と、言葉をとおして見え始めた隣国の文化に心ときめかせながら、年月は、あっという間に過ぎ去った。仕事を持ちながらの勉強会はなかなか進まなかったが、先生たちの話に刺激されながら、韓国に関する書を読み漁り、映画や音楽、韓国の民主化運動の話題で会は盛り上がった。通訳ガイド試験に合格する仲間もいたが、概して語学の勉強は低空飛行を続けた。それぞれマイペースで韓国語の勉強会を楽しんだ。
自作の韓国語の詩に曲をつけて披露する人もいれば、知り合いの韓国の友人を連れてきたり、飲み会を開いたり、ハイキングに出かけたり、泊りがけで韓国の料理教室を開いたりして楽しんだ。
NHKに韓国・朝鮮語講座を作ってほしいという運動にも取り組んだ。講座名を韓国語とするか朝鮮語にするかで決着がつかず開講は1年遅れたが講座は1984年度から始まった。待ちに待った講座・最初の1年間のテキストは私の「宝物」になった。
日本語では「あいうえ」、英語なら「ABC」、韓国語は「ㄱㄴㄷ」の順にならぶ韓国語の辞書を引くのに苦労した。今は電子辞書のおかげで簡単になった。最近は韓国語の教材は山ほどあり、パソコンやテレビで韓国のニュースや映画、ドラマを見ることができるようになった。私は早稲田奉仕園の韓国語講座に1年間在籍したが、何故参加したのか思い出せない。大阪に転勤して豊中の韓国語教室にも参加。勉強会で素晴らしい教師と友人に出会えたのも韓国語のおかげだ。
<はじめての韓国旅行>
1987年、勉強会の仲間たちと韓国を旅行した。成田闘争に心を痛め、私の「国際化」は10年も遅れた。初めてパスポートを取得した。
今では信じられないことだが、職場の仲間たちが私の三泊四日の韓国行きに「壮行会」を開いてくれた。当時の韓国はやはり怖い国だった。「韓国で捕まらないように」と心配する仲間もいた。
ツアーの全員が入国審査をパスした時、添乗員が無事に入国できて喜んでいた。ブラックリストに挙がった人が入国拒否されることが結構あるという。到着した晩、キーセン(妓生)がくわわつた夕食会が開かれた。朴正熙時代のなごりのようで、日本人観光客にキーセンパーティがセットされていた。夫人同伴、子供連れの私たちには招かれざる客なのでお引き取り願った。夜の明洞散歩、明け方の銭湯、反北朝鮮・反共主義丸出しのバスガイドも新鮮だった。帰国後、旅行記「からくにの記」を友人たちに配った。韓国語は少し喋ることはできたが、あらためて韓国語に対する意欲が掻き立てられた。
<韓国ひとり旅>
それから4年後、勤続25年の表彰で長期休暇を取り、韓国をひとり旅した。ソウル仁寺洞から始まり釜山まで、旅行ガイドブックとバッグひとつを携えた放浪に近い旅だった。ビザの延長には苦労した。当時観光ビザは15日、それを1か月に延長するために木洞(モクトン)にある入国管理事務所へ出かけた。朝の通勤時間のせいか空車のタクシーが見つからず「相乗り」に挑戦した。運転と客が「乗せてやれ」「ダメだ」ともめた。
「30日間の観光旅行なんて考えられない。他に目的があるのでは」と訝る係員に韓国語でひたすら懇願する外国人に根負けしたのか、2時間ほどかけて延長に成功して意気揚々と鐘路のYMCAホテルに引き上げた。偶然、同宿した早川嘉春(前出)さんに「信じられない」と羨ましがられた。彼は観光ビザより更に短いビザだった。
本当に行き当たりバッタリの旅。
仁寺洞のギャラリー巡りで画家本人やギャラリー主と話をしたり、曹渓寺、芸術の殿堂のピアノリサイタル、MBC放送ホールで旧友のヴァィオリニスト丁賛宇さんのリサイタルを聞いたり会食したり。江華島と水原城の小旅行。
ビザの延長で勇躍、百済の古都扶余、諭山、儒城、光州、木浦、麗水から船に乗って釜山へ。
下手な韓国語はどこでも歓迎された。山のような失敗談も忘れて関釜フェリー出航のドラの音を聞きながら、一か月の旅を思い出して涙した。
帰国後、旅行記『続からくにの記』を友人たちに配った。
<写真/2冊の旅行記>
友人の(つもりになっていた)茨木のり子さんから嬉しい感想文を貰った。失敗談満載の旅行記がとても面白かったらしい。韓国語の仲間、浦田弁護士からはエピソード一つ一つに感想を書き記した手紙をいただいた。『という人びと』の著者、永山正昭さんからは「漱石の『満韓ところどころ』1909年より上等」という感想をもらった。漱石より「素晴らしいのは文章ではなく韓国を心から楽しんだ君」だと言われた。
原稿を読み、ワープロ入力を引き受けたうえに「出版記念会」の計画まで立ててくれた銀行時代の畏友、入山清さんは昨年亡くなった。
当時、韓国の情報は新聞をとおした政治情勢が中心の時期。友人たちから歓迎された旅行記は「韓国通信」につながった。
<韓国へ留学>
意に染まらない銀行職場で定年まで勤める意欲を失っていた私が大阪転勤の辞令を受けた。1995年、1月には阪神大震災、3月にはオウム真理教のサリン事件が起きた年である。54歳になっていた。転勤先で何も期待されない異常な転勤だった。支店長も言葉を失い、関西旅行でもしてみたらとすすめてくれた。
修学旅行の続きをすることになって、大阪、京都、奈良、和歌山、兵庫をくまなく観光して回った。交通費は会社負担。
誕生日の前日から休暇を取って生まれて初めて祇園祭りを楽しんだ。
それまで嫌いだった関西弁がやさしく心に沁みて癒された。阪神タイガースの応援団解散を聞いてタイガースのにわかファンになった。豊中の韓国語講座でも素敵な出会いがあった。アムネスティの恒成和子さんから、かつての良心囚、李学永さんからの手紙の翻訳を頼まれ、それがきっかけになって韓国で活躍している多くの人たちと知り合うことになる。まさに「万事塞翁が馬」である。
それにしてもファックスのかすれた韓国語の解読には苦労した。謎解きのような翻訳は深夜まで、それも何日も続いた。
関西旅行にも飽きて1年間の大阪サリ(大阪暮らし)を切り上げて早期退職した。大学院進学と韓国留学、韓国への思いを生かせる第二の職場を目指した。
大学院では日本の植民地銀行だった朝鮮銀行の研究を「社史を読むー朝鮮銀行の歴史」として論文にまとめた。明治時代に始まる侵略の歴史を金融制度の側面から明らかにしたもので、敗戦後、残余財産で作った新銀行が見事にバブルで破綻するまでの物語である。
大学院に通いながら失業保険をもらうために職安通い、さらに高麗大学の夏季講座に通うという忙しい日々を送った。
論文を仕上げて1998年4月からソウル大の語学スクールに通い始めた。5級からのスタートである。
写真上/ソウル大正面入り口/正面奥が冠岳山/ソウル中心部にあった医学部を除く学部が1975年にゴルフ場跡地に移転した。
学生運動に手を焼いた朴政権が郊外に移転させた。門の形はハングル文字と言われている。
ソウル大のカリキュラムは高麗大に比べるとアカデミックで韓国文化の理解、文章表現に力を置き私の韓国理解には願ってもないものだった。午前中の授業が終わると午後は復習と予習に明け暮れる毎日。かつての大学受験よりもハードな毎日、寝る前には眞露焼酎チャミスルを欠かさず一本。授業のない週末は銭湯、床屋は一か月に1回、友人と会食を楽しみ日本ではめったに行かなかったカラオケにも2回ほど出かけた。
教科書中心の授業の合間にテーマを決めた討論会、ソウル大生との討論交流会(整形手術をめぐる討論は忘れられない)、市場見学、遊園地、美術館巡り、民族楽器の講習会など充実した学生時代を満喫。
<次回に続く>
初出:「リベラル21」2024.12.02より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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