資本論を非経済学的に読む 1
- 2024年 12月 4日
- スタディルーム
- 山本耕一資本論
1. はじめに
『資本論』を非経済学的に読むという作業をこころみてみたい。『資本論』は、読んでいておもしろい本である。しかし、その内容は、けっしてやさしくはない。そこで、理解がゆきとどく範囲をすこしでもひろげようと解説書のたぐいを手にすると、すくなからず面食らうことになる。へたをすると『資本論』そのものよりむずかしい記述を読まされることになるからである。
そうなる理由は了解できる。解説書に目をとおせば、『資本論』には、膨大な研究の歴史があることがすぐにわかる。専門家が『資本論』についてなにかを書こうとすれば、その莫大な研究史をふまえ、言及すべき論点に周到に配慮するのは当然だろう。しかし、その一方で、そのような過去の学説や論争への顧慮が、解説書を『資本論』そのものよりもむずかしくしているといった感もなくはない。(最大の要因がこちらの理解力にあることは十分承知している。)
専門家であれば、研究史への目配りがゆきとどいた議論のほうがむしろ理解しやすいであろうことは、容易に想像がつく。そうした手順をふまない議論については、そもそも信頼するにたりないということもあるだろう。しかし、ずぶの門外漢には、たとえざっとにせよ、『資本論』研究史をたどるというのは、どだい無理であり、論争については、その眼目が理解できないこともおおい。かくして、解説書を読もうとして最初の数十ページで挫折するという経験がくりかえされることになる。(まったく個人的な特殊な経験かもしれないが。)
こうして、あれやこれやの経験を経たあげく、専門の研究者のかたがたにはたいへん失礼ないいぐさではあるが、従来の研究史をかっこにいれて、まったくの独断で『資本論』を読みすすめてみようと思いいたった。「非経済学的」というのは、あくまでも過去の研究を顧慮しないという意味でしかなく、たとえば哲学的に読むといったことではない。
『資本論』の内容を第1章から順にみていき、その全体像をなぞるということは、はなから目ざしていない。そのような仕事は、『資本論』を隅まで知りぬいた人にゆだねられるべきだろう。本稿がめざすのは、『資本論』のなかのいくつかの論題をとりあげ、マルクスの思想の特質をあらためて確認することであり、それによって、現代という時代について考えるための手がかりをみいだすことである。したがって、かたちとしては、『資本論』全3 巻のあちこちをうろうろすることになる。
また、「非経済学的」というのは、当然のことながら、「経済」とはかかわりのないかたちで読もうというわけでもない。そもそも『資本論』の対象が資本制である以上、あれこれの経済的事象にふれることになる。
こう考えてくると、結果的にでてくるものは、しろうと芸の域を一歩もでないものであることは確実におもえる。
しかし、そうしたたどたどしさのゆえに、あるいは、基本的ないくつかのことがらの再確認には役立つかもしれず、また研究史や論争に通じていない『資本論』読者にとっては、かえって、理解しやすいという利点もあるかもしれない。もっとも、『資本論』の本体にはついにゆきつかず、その周辺をうろうろするだけで終わる可能性もたかい。かりに、『資本論』のなかに多少たちいることができたとしても、反面教師をおみせすることが最大の意義だったということでおわりそうではあるが。
2. 「社会的労働」をめぐって
まず、「社会的労働」に焦点をあわせることにしたい。大月書店のマルクス=エンゲルス全集版の『資本論』各巻の索引をみると、このことばは第3巻の索引で摘録されている。他の巻に「社会的労働」がつかわれていないわけではないから、このことばが最も重要なはたらきをしているのは第3巻だと考えていいのかもしれない。
そうだとするなら、「社会的労働」から出発するのは、『資本論』を逆から読んでいくということになる。しかし、ここでは、そのような野心的なくわだてが意図されているわけではない。そうすることで、ひょっとしたら、『資本論』の理解が容易になるかもしれないという思いつきから、やってみようとしているだけである。
マルクスは、このことばをきわめて多義的にもちいる。とはいえ、意味があいまいであることはない。ていねいに読みさえすれば、「社会的労働」という概念が、それぞれの文脈のうちでなにをいいあらわしているかについて、理解しそこなうことはない。
マルクスにとって、そもそも「社会」は、複数の諸個人が相互に関係・関連のうちにはいりこんでいる状態をさす概念である。したがって、「社会的労働」は、こうした諸個人相互の関連・関係のうちでいとなまれる労働を意味している。この場合、諸個人の相互関連・関係の規模はさまざまであって、日常的表現でいうところの「社会全体」から、それよりはるかに小規模の相互関係までふくむ。
後者の例としては、たとえば、第1巻第4篇第11章でのつかいかたがあげられる。そこでは、「協業」にたいして「社会的労働」という表現がつかわれている。(以下での引用は、もっぱら大月書店の『マルクス=エンゲルス全集』23・24・25巻からおこなう。ページ数は邦訳に記載されている原書のものである。訳文はかならずしも『全集』のものとおなじではないが、もっぱら表記のつごうからであって、岡崎次郎の名訳に異をとなえようなどという気は毛頭ない。また『資本論』以外からのマルクス(そしてエンゲルス)の文章の引用はできるだけすくなくしたい。学術論文ではないから、注が必要となる叙述にはしないつもりである。)
「協業」についてみておくなら、それは、「おなじ生産過程で、またはおなじではないが関連するいくつかの生産過程で、多くの人びとが計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態」(第1巻 344ページ)である。ここでの議論の最大の眼目は、そうした相互関連・社会的つながりのうちにおかれた複数の個人が、個人の力をこえた「社会的生産力」をうみだすことの解明にある。
マルクスは、一例として、「レンガ積み工」によるレンガの運搬作業をあげている。ひとりが「足場を昇り降り」してこれをおこなう場合と十二人が列をつくってはこぶ場合を対比するなら、作業量に格段の差が生じるというわけである。
具体例としてあまりに素朴という感もするが、そもそも、こういった対比をわかりやすくおこなうのはそれほど容易ではない。マルクスの観点からすれば、他者からきりはなされた単独の個人というのは抽象であって、労働のような場面でそのような個人を設定できるのは、相当にかぎられた条件のもとでしかない。そう考えるなら、これは具体的にイメージしやすいということからいっても、すぐれた例といえよう。
確認のために引用しておこう。結合労働の「独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生じる。他人との計画的な協働のなかでは、労働者は、かれの個体的な限界をぬけでて、かれの類的能力を発揮するのである。」(第1巻349ページ)
マルクスが協業をとりあげているのは、「相対的剰余価値の生産」の文脈のうちである。労働の「社会的生産力」は「資本にとってはなんの費用もかからない。」(353ページ)にもかかわらず、資本はこの生産力の成果をそっくり手中にする。このことが、「相対的剰余価値」の主要な源泉のひとつであるというのが、ここでのマルクスの議論の力点である。しかし、協業のような「社会的労働」つまり諸個人の社会的結合が、「個」をこえた「社会的生産力」をうみだすという認識は、「相対的剰余価値」を理解するうえで重要であるばかりではない。それは、独断を承知でいえば、ある意味で、『資本論』全体の根幹ともなっているのである。
3. 資本制と「社会的労働」
協業というかたちでの「社会的労働」であれば、それはなにも資本制に固有とはいえない。人類社会では、きわめて早い時期から協業がおこなわれてきた。資本制のもとでの「社会的労働」をかんがえるにあたっては、いうまでもなく、いわゆる全社会的規模での諸個人の相互関連・関係を視野におさめる必要がある。(現在であれば、マルクスの議論をさらにさきへとすすめて、「全地球規模」というモデルをつくるべきなのだろうが、それはいかにも門外漢の手にあまる。)このような規模での「社会的労働」について、周知のいくつかの論点を再確認しておこう。
それと対立することがらとの反照のうちで、あることがらの特質を把握するというのは、マルクスやヘーゲルがよくもちいる手法である。マルクスは、第3巻1081ページで、「孤立的労働」をとりあげ、「社会的労働」に対置させている。
「孤立的労働」は、歴史的には、全社会的規模でおこなわれる「社会的労働」に先行している。それは、「人口の圧倒的多数」をしめる「農村人口」が、「ちいさな土地」を所有しているという状態のもとでの労働の形態である。こうした「孤立的労働」の特徴は、まずその担い手であって、基本的に家族の成員に限局される。その成果の消費もまた、「孤立的」な生産活動に対応するかたちをとる。自家用というのが、生産物の主要な消費のかたちである。いいかえれば、「孤立的労働」のもとでは、自給自足が基本であるといってよいだろう。(蛇足を承知でつけくわえるなら、自給自足する個人などは論外であるが、家族単位であっても、完全な自給自足というものをおそらくマルクスは想定していない。)したがって、このような「孤立的労働」の生産物は、そのほとんどが商品になることはない。
こうした「孤立的労働」の性格を反照的に否定すれば、「社会的労働」の規定がでてくる。それは他者の消費を前提にいとなまれる労働である。しかもたいていの場合、不特定多数の他の諸個人による消費が想定されている。当然のこととして、「社会的労働」の成果が自家消費されることはきわめてまれである。このような「社会的労働」の実例としては、現在は、資本制のもとでのそれしか存在しない。われわれは、こうして資本制のただなかにはいりこむことになる。
労働がこのようなありかたをするところでは、個人のさまざまな欲求の充足は、かずかぎりない他の諸個人の労働をまってはじめて可能になる。一方、労働のがわに視点をうつすなら、それらのおのおのは、無数の他者の欲求をみたすことをめざしている。このような労働が、まさしく全社会的規模での「社会的労働」なのである。こうした「社会的労働」のきわめて複雑な連鎖が、社会的分業の体系をつくりだしている。いうまでもないが、労働が「孤立的」であれば、社会的な分業が発展することはない。
労働が「社会的」であるというのは、したがって、それが社会的分業の一分肢であることにほかならない。そうである以上、「社会的労働」の生産物は、相互に交換されねばならない。もろもろの生産物の「交換」をまってはじめて、個人のさまざまな欲求の充足が可能となるのである。この「交換」は、資本制のもとでは「商品交換」のかたちをとる。つまり、「社会的労働」の生産物は、資本制のうちでは、「商品」になるのである。
4. 『資本論』の端緒をめぐって
われわれは、『資本論』の出発点をなす「商品」にたどりついた。ここで、すこしわきみちにそれて、『資本論』の端緒をめぐる議論にふれておきたい。
研究者たちが指摘しているように、マルクスは、『資本論』のプランを何度かねりなおしている。それにともない、叙述の出発点についても、構想が変更されている。当方は、いわゆるプラン問題、そして端緒の変更をめぐる問題について、なにかを言う立場にない。しかし、次のことはたしかなようにおもわれる。それは、「唯物論」というかれの基本的立場からすれば、叙述の端緒は「商品」以外にありえないということである。
「唯物論」は、マルクス(そしてエンゲルス)を読むものにとって、すこしやっかいな概念である。マルクス研究の歴史のうちで、あやまって解釈されることがすくなくなかったからである。ここでは哲学史的な議論はさておき、マルクス的「唯物論」について、基礎的なことがらを確認しておこう。
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』のうちで、「現実の世界」を「先入の観念論的な幻想なしにそれにちかづく者のだれにでもあらわれるがままのすがたで把握する」のが「唯物論」の立場であるとのべたうえで、つぎのようにしめくくっている。「一般に唯物論とはこれ以上の意味をもっていない。」(岩波文庫 60ページ)
さて、『資本論』の冒頭部分では、資本制社会という「現実の世界」について、つぎのようにのべられている。すなわち、そこでは「社会の富は、ひとつの『巨大な商品のあつまり』としてあらわれ、ひとつひとつの商品は、その富の基本形態としてあらわれる。」(第1巻 49ページ)
資本制社会のうちに生きるものにとって、周囲の現実の「あらわれるがままのすがた」は、たしかにこのようなものであろう。われわれは、今晩の必要をみたすために、食料品を購入すべくスーパーマーケットにいく。あるいは、ショーウィンドウのなかにある衣服の値札をみてためいきをつく(「ほしいけれど手がでない」というためいきではなく、「あるところにはあるんだ」というためいき)。
帰宅して周囲をみまわせば、目につくのは、そのほとんどがかつて「商品」として購入したあれこれである(その気になれば、現在でも中古品として売れるものもないではない)。まことにわれわれは、「商品」にとりかこまれて日々をすごしている。「商品」は、資本制社会の成員の感覚的経験に直接にあたえられるものである。これをもって『資本論』の叙述をはじめることは、唯物論という立場からすれば至当といえるだろう。
そうはいっても、「もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するものならば、およそ科学はよけいなものであろう。」(第3巻 1047ページ)直接にあたえられているものをそのまま叙述するだけでは、「現実の世界」の「把握」にはなりえない。直接的所与にみえるものが、じつは媒介されたものであることをあきらかにするのが、マルクス・エンゲルスがヘーゲルから継承した手法である。マルクス的唯物論が弁証法とむすびつく地点のひとつが、まさしくここである。
媒介のありようは、「事物」の歴史的ななりたちの追究によって、さらにはそれの「現象形態」をささえる社会的諸関係の探求によって解明される。資本制を自明のものとしてうけいれる立場、つまり資本制社会に内在的な視座からすれば、「商品」は直接的な所与である。『資本論』は、この直接的所与であるようにみえる「商品」が、いかに媒介されたものであるかをあきらかにし、さらには、その「商品」をつくりだす資本制の構造全体へと考察の歩をすすめていく。そのあゆみは、同時に資本制にたいする批判的視座が確立されていく行程でもある。
いうまでもなく、『資本論』が読まれるのは、おおくの場合、資本制を批判する意図をもってである。げんにマルクスは、『資本論』の主要な読者として労働者を想定している。しかし、かりに商品にとりかこまれた世界を自明視していたとしても、「先入見なし」(相当にむずかしいが)にマルクスの行論をたんねんにたどるなら、資本制に内在的な視点をぬけだすことが可能になる。それは、資本制を批判するための視角をわがものすることにほかならない。『資本論』の最大の魅力のひとつは、おそらくそこにある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1331:241204〕
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