音と音楽――その面白くて不思議なもの(4)
- 2011年 9月 12日
- スタディルーム
- 石塚正英野沢敏治
映画音楽の楽しさ、その面白さ
>往< 石塚正英さんへ 野沢敏治から
映画音楽はそれを聴けば、見た映画の場面が眼の前に浮かびます。
ぼくは西部劇の音楽が好きです。ぼくだけでないでしょう。「ハイヌーン」、「リオ・ブラボー」、「帰らざる河」…、どれもいいです。「駅馬車」での軽快なバンジョーの旋律を聴くと、6頭立ての駅馬車がインディアンの襲撃を受けて逃げる、必死に駆ける馬の脚と急速回転する車輪、御者の鞭が馬の背にうなる、まったくはらはらドキドキでした。傑作は「大いなる西部」の音楽でしょうか。これを聴くと、西部の荒地が眼前に開けます。俳優のグレゴリー・ペックもいいですが、それと対立する家族の父親がチャールトン・ヘストン演ずる息子の卑劣な不始末を知って殴り倒すところなどは、いかにも男っぽくていいですね。音楽は最初は弦とトランペットの前奏があり、次にメインテーマが来る。
http://www.youtube.com/watch?v=kUCzRMDsZ9E
聴き終って、さー、やるぞと、ベートーヴェンやワグナーを聴いたとことはまた別の前に向かう気持になります。
とうとう、「ダンス・ウイズ・ウルヴズ」(狼と踊る)を観た
今、ぼくはインディアンと言いました。インディアンはアクション物の西部劇では白人開拓者にとって恐ろしい「未開人」ですが、それがそうでもない、いや白人の方が卑劣で野蛮だということが人の口に上るようになりました。1970年代の「ソルジャー・ブルー」では白人による不正義な先住民大虐殺が最後に出てきます。そして90年代に入っての「リトル・トゥリー」。ぼくはスコットランドに遊学した時、アメリカ先住民の暮らしと文化を伝えている協会の人に会いました。グラスゴー大学の図書館でも文献を調べました。アメリカへ移民したスコットランド人が先住民のある集団の指導者となり、ミシシッピ西岸へ追いやられる時のリーダーにまでなっていた史実を知ります。何人かの画家が先住民の中に入って彼らの生活を内部から描いた絵も見ます。そして2000年前後の頃に、とうとう映画「ダンス・ウイズ・ウルヴズ」をビデオで見ることができたのです。4時間ちょっとの無編集版です。これはつい最近、日本のテレビでも放映されました。
映画の主人公は19世紀の南北戦争の時の北軍の中尉。彼は自分が希望した西部の転任先で先住民スー(小説ではコマンチ)と出会い、次第にス―の生活と戦い・会議の一員として受け入れられていきます。「狼と踊る」はス―のシャーマンが中尉につけた名前。彼は狼とも交流できたからです。ス―の服装をしたそのハーフ性が白人部隊には不純に見え、彼はひどい扱いを受けますが、ス―が彼を助けに来て白人を倒します。その場面でぼくはスーを応援していました。
「狼と踊る」がどこまでも広がる大草原の中で風に揺れる草々に手で触れる場面があります。草が草と触れ合って出す「音」に耳を浸します。彼は自然に霊を見るスーの人々の感じ方に近づいていくのです。
伴奏するのでない、独立した音楽
いい映画音楽はメロディーが映画の筋に沿って伴奏をつけるよりは、筋から独立して、それだけでも聞かせる曲になっています。独立する音楽には「前衛作曲家」が実験的に作ったものもあり――武満徹が『砂の女』に入れたもの等、それはそれで面白いのですが、ぼくらのような素人からは離れています。
広告ではその種の傑作が生まれました。広告は広告主からすれば販売商品の使用価値を消費者に伝えるものであって欲しい。初め、日本のコピーライターはその注文通りに効能書きをやっていた。それが次第に変わっていきます。阪神の掛布内野手が出てきて、照れ笑いをしているような感じで、「カ、カ、カケフノ、キンチョール」とやり出したのです。蚊退治のスプレーを掛布と語呂合わせにしたのでしょう。うまいですね。キンチョールと言えば掛布、掛布と言えばキンチョールと、観念連合してしまう。さらに進んで、ある時、広告主からすれば、何だ、これは!というものが出た。商品の宣伝などそっちのけで、勝手に動き出した。新聞の四コマ漫画のような、それだけで完結する物語を演じだしたのです。川崎徹や糸井重里などのコピーライターの活躍する時代が来ました。車や洗剤の役立ちなど、一つも言わないのです。でも不思議に消費者の頭にはコピーと宣伝商品がインプットされてしまうのです。こんなふうにして研究者の本も売れればいいのですが。
「ゴンドラの唄」はセンチな少女の歌ではなかった
日本の映画音楽にこういうのがあったことに気づきました。美空ひばりが出演して映画で唄う主題歌のようなものとは別のものです。これについてはまたの時にします。それは黒沢明監督の『生きる』です。判で押したような機械仕事の役人の世界は恐ろしいもので、ちょっと自発性を発揮しようとしても、すぐにローラーで均されてしまいます。主人公の市民課長は30年無欠勤でただ書類を見て判を押してきた男。こっそりつけられたあだ名が「ミイラ」。それが胃がんの末期であと数カ月の命と分かった時、人はどうするか。課長はメフイストに連れだされるファウストよろしく、残された人生の楽しみを求めて、パチンコに、ダンスホールに、ストリップ劇場にと、何十年もかかって貯めてきた大金を消費します。でも、満たされない。その時、同じ課の部下に出会う。彼女の活気がまぶしくうらやましい。自分も死ぬまで1日でよいからそんなふうにして生きたい、でもどうしてよいか分からない。そう問われて彼女は自分はただ働いて食べているだけ、今やっているこんな兎の玩具作りだって面白いのよと言う。その兎がかたかた動く。課長、それを見て、これだ、今からでも遅くないと思い、役所に戻って積み上げられたままの未決書類の一番上にあるものを取りあげる。それは不衛生な沼地をなんとかしてくれという陳情書であったが、土木科の管轄だとして放っておいたもの。彼はそれを他の課にまわさないで自ら責任を負おうと奮闘する。官僚制の慣行を破る変わり者となる。協力的でない他の課を憎んでいる暇はないと、最後は沼地を埋め立てて小公園にするという筋。この映画の作り方もいいのだが、それも置いておいて、工事が完成した時に、夜11時近く、新公園で雪の降る中、ブランコに乗って楽しそうにしみじみと唄ったのが「ゴンドラの唄」。
その第1番の歌詞、「いのち短かし 恋せよ乙女 紅き唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷めぬ間に 明日の月日は ないものを」。これは石塚さんが先回出した中山晋平の作曲で、作詞は吉井勇です。これまではロマンチックな夢想に浸る少女の刹那的な歌と思っていましたが、この映画では真実の「生きる」に変貌したのです。この唄にそんな力があったのか!後で分かったのですが、音楽担当はあの早坂文雄でした。
>復< 野沢敏治さんへ 石塚正英から
YOUTUBEで「スクリーンミュージック」と入力したら、「スクリーンミュージック・アラウンド・ザ・ワールド」が最初に出てきました。曲はスーパーマン~スターウォーズ~シェルブールの雨傘~白い恋人たち~アラビアのロレンス~野生のエルザ~小象の行進~ロミオとジュリエット~ある愛の詩~ムーンリヴァーです。この組み合わせは意図的なものでなく、ランダムなものでしょうね。最初の2曲は容易に映画のシーンに結びつきました。でも雨傘はムードできく感じでした。恋人たちは札幌オリンピックの笠谷・青地・金野ジャンプ隊によるメダル独占を思い出しながらきけました。
同じような世代との語らいから
映画音楽は、映画自体が封切られて以降、いろんな世代がいろんな場面で、いろんな思いできき継がれてきたので、一概には語れませんね。野沢さんと私の年齢はさほど違いませんので、明治大学のロビーで<音と音楽>を語らうときは、共感が多いです。「ハイヌーン」、「リオ・ブラボー」、「帰らざる河」など、野沢さんがあげた映画、私も同じように楽しみました。とくにマリリン・モンロー主演の「帰らざる河」にはしびれました。モンローのハスキーボイスがむせぶように歌いだす「ノーリタン、ノーリタン♫」、これをきくと今でも、激流を下る筏に身を任せるマッドとケイの姿が浮かびます。
1970年前後に大学生だった私は、安い映画館を探し、よく池袋駅東口の文芸坐に行きました。70年代には2本250円、オールナイト5本以上で500円。ここは地上が洋画で地下が邦画でした。ほかにル・ピリエというミニシアターがありましたが、ここでは映画でなく浅川マキの年末コンサートをききました。とにかく文芸坐は私にとって青春の○○スポットなんです。ここでみた映画とその主題歌を、のちにテレビで楽しみ、さらに最近ではパソコンでも愉しむようになりました。ハイテクの恩恵に浴しているわけです。そのたびに違った印象をうけるのですが、野沢さんとのあいだで話題に出るときは、それに合わせた思いが自然と心に湧きます。
映画「いちご白書」みたいな
ところで、私は1996年に『映画「いちご白書」みたいな二〇歳の自己革命』(社会評論社)を上条三郎名で出版するのですが、そのネーミングには映画「いちご白書」(1968年)の主題歌と、それにバンバンの「いちご白書をもう一度」(1975、作詞・作曲 / 荒井由実)が大きく影響しています。この本は、1968年から1970年代前半にかけて私が書いた文章の集成です。18~20歳当時に記した備忘録=日記からの抄録と、19~22歳頃に学生新聞・機関誌・パンフレット等に発表した論説群の再録なのです。私にすれば、けっして改変してはならない証言=ドキュメントなのです。時代的なハイライトは1970年です。1996年に書いた序から引用しましょう。
「ぼくの自己革命には、1960年代後半につくられた映画『いちご白書』にどこか似たところがある、ということだ。70年代前半に流行したフォークソング『いちご白書をもう一度』でも知られるこの映画には、ボート部に所属する仲のよい二人の大学生が登場する。そのうちの一人は、学生運動に関心ある女子学生に恋をし、自らも学生集会に参加するようになる。体育会に所属する彼はボート部仲間からはじかれ、親友のかれから殴られてしまう。けれども、しだいに彼らはそろって学生集会やデモに参加していくことになるのだった」(26~27頁)。
このストーリー、実は私の学生生活にピッタリよりそっているのでした。私は大学で体育会系のバドミントン部に所属したままデモに参加しましたし自治会評議委員にもなり、その過程でローザと出逢い恋愛の坩堝に陥りもしました。1970年6月にむけ、ローザも体育会系の友人たちも、キャンパスのあちこちで知り合った仲間たちも、みなこぞって、70年6月には反安保の街頭デモに参加していくこととなるのでした。69年~70年とは、そういう時代だったのです。その文脈から私自身の学的歩み=歴史知探究が始まっているものですから、1996年にまとめた青春の記録は『映画「いちご白書」みたいな二〇歳の自己革命』と題されることになったのです。映画「いちご白書」の主題歌は、私のことを歌っている気がします。クライマックスで学生たちが機動隊のゴボウ抜きに合うシーン、あそこで私はわれを主人公とする劇中劇をみるのです。
後期高齢者に映画「いちご白書」の解説
ところで、2008年の春、社会評論社の松田社長から私に一つの依頼がありました。次回の本郷クラブで映画「いちご白書」を上映するので、解説を兼ねた講演をお願いする、と。いつも仲よくしている間柄なので、二つ返事で引き受けました。そして当日(4月5日)となりました。蓋をあけてビックリ、以下のサイトをご覧ください。
http://kamijyo.blog.so-net.ne.jp/2008-04-14
人数が少ないのはいいとして、みなおじいさんばかりなんです。いやぁ、話し相手がちがうなぁ、困ったなぁ、でした。1960~70年代のアメリカ、そして日本、その時代をかけて生きた青年たち、若いみなさんには知らない世界でしょうね、なんて切り口で滑りだそうと思った私がオロカデシタ、ハイ。参加したのは往年の活動家=ロートル、というより出版社のオーナーさんたちでした。そもそも「本郷クラブ」の名称からして、本郷界隈の出版社でつくっている組織だったんです。
それで、意外な展開となりました。解説自身はみなさんにも喜んで戴いたのですが、映画をみての印象が違ったのです。みなさん、60年安保か、おそくとも65年日韓条約ころに大学生だったので、バリケードのローザなんかに現(うつつ)をぬかす暇なぞなかったらしい。
ふたたび映画音楽のほうへ
文芸坐は貧しい学生・労働者には癒しの場でした、500円で一泊できたし。そこで味わう映画の音と映像、酒飲みなら新宿のションベン横町でしょうが、寝るのなら文芸坐とくに地下でしょうね。ここでみた黒澤明監督の「どですかでん」(1970年)は忘れられません。ウィキペディアによると、「撮影は東京都江戸川区葛西の1万坪もあるゴミ捨て場で、廃材を使って行われた。当時のシナリオには、黒澤自身の手による、画家のマルク・シャガール風の、死んだ乞食の子供が天に昇っていく絵コンテが描かれている。しかしながら当時の興行成績は明らかな失敗で」あったとのことです。主人公の六ちゃんが空想の電車を運転する音、どですかでん、この音というか曲をきいてない人は幸せです。なぜなら、あなたはまだこの音を始めて聞いてジ~ンとなるチャンスを持っているからです。私は、これをきくと3歳頃の作詞作曲「デンガボン」を思い出すのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study416:110912〕
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