小倉利丸 《日本のデモに表現の自由はない》
- 2011年 9月 14日
- 交流の広場
- デモ小倉利丸松元保昭
みなさまへ 松元
小倉利丸さんのブログから、「日本のデモに表現の自由はない」を転送させていただきます。私の経験からも、とても共感します。
※なお、各国のデモの貴重な画像は転載できませんので、サイトから見てください。
=====以下転載=====
小倉利丸 《日本のデモに表現の自由はない》
2011-9-13 21:30
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=135
新宿のデモで12名もの逮捕者を出したが、多くの証言者の証言にあるように、その責任はデモを警備していた警察側にある。警察の暴力も見過ごせない。警察の過剰警備は、この国の憲法が私たちに保証している表現の自由を大きく侵害していることは今更いうまでもないが、やっぱり声を大にして、表現の自由が第一であり、警察は介入するべきではない、ということ言い続けなければならない。ほとんどの国は、先進国であれ第三世界であれ、表現の自由を人々の基本的な権利として憲法で保証しているということは、わざわざあえて言うまでもないことだが、日本のそれは、他の諸国と比べて、極端に自由度が小さい。もはや自由などという言葉は死語となったと宣言してもいいくらいだ。
さて、下記に引用した画像は、ネットからアトランダムにとってきたいくつかの国のデモ風景の写真である。テロとの戦争以降の反戦デモが大半である。ニューヨークのマンハッタンのような交通渋滞の激しい都市部であれ、ソウルのように交通量が非常に多いアジアの人口密集地域であれ、デモ隊のために車道を全面的に開放し、警察官がデモ隊の脇を並列して密着したり、歩道とデモの隊列の間を分断したり、デモ隊を細切れにして、梯団の間を数百メートルも開けさせるような介入はどこにもない。ましてや、デモの隊列の先頭に警察車両が陣取り、デモのシュプレヒコールを妨害する大音量の嫌がらせの警告演説(デモは警察の言論の場ではない!)によるデモへの威圧的な言動と通行人へのデモに対する敵意を煽るような言動などは、日本の警察の固有のことといっていい。
こうした日本の現在のデモは、日本の伝統芸なのではなく、ある時期から急速に普及してきたものだ。下記の最後から二番目の画像は、1960年代末のデモ風景である。当時、デモは道路全体を使用するのは当たり前だった。それは人数が多いからとかという問題ではなく、デモによる意思表示は、一般の交通に優先する憲法で保証された思想信条の自由のための権利行使だから当然のことなのだ。このことは、ほぼどこの国でも共通認識だ。デモによって、公共交通に支障をきたすことや通行人や車の通行に支障があるとしても、そうであっても保証すべき重要な権利だという理解が、権力の側にもあるからだ。(少なくとも、日本の権力者と比べてということだが)
1970年代以降、警察は路上でのデモなどを徹底して弾圧し、デモをあたかも公共の福祉に反する行為であるかのような印象を人々に与え続けてきた。車道を歩きながら、自己の政治的社会的な主張を訴えるという表現手法が、文化としての基盤を奪われるにつれて、多くの人々にとって、デモは身近な表現手段からむしろ「自分たちがやらない特別な人たちの行為」といった印象に支配され、ますますデモを疎遠なことがらとみなす感情が常識のレベルにまで浸透してしまった。
しかし、冷静に世界の民主主義の目に見える表現としてのデモを見比べてみよう。ニューヨークやロンドンやソウルで人々が路上で行うことができる表現が日本では行えず、もし、同じような行為をしようとしても、警察はデモ申請にたいして許可を出さないか、許可条件に反して路上を全面的に使用するようなデモを行えば、逮捕を覚悟しなければならないということは、いったいどのような論理によって、正当化しうるのだろうか?米国や韓国の人々がもっている自由をなぜ私たちは持つことができないのか?その理由は何なのか?理由などありはしない。それは、警察が抱く秩序への有無を言わせない従属の要求でしかない。これは、法治国家がとる振る舞いでは断じてありえない。
ぼくたちの権利は、憲法に書いてあるからといって、黙っていても保証されるわけではなく、権利を確保するためには権利のために不断の努力が必要だということは、憲法自身が明記している。とすれば、下記の最後から二番目の写真から最後の写真へと至るこの半世紀のこの国の表現の自由の歴史は、ぼくたちの努力の至らなさの歴史であるということだろう。
日本の警察は、代用監獄、密室での取調べ(ビデオ撮影も弁護士の同席も認めない)、長期の勾留など、他の国と比べても極端に警察の裁量が大きい。逮捕勾留も、精神的な拷問ともいえる取調べやガサ入れなどの手段のためのもので、本来の法の趣旨を逸脱した権力の濫用が横行している。しかも、今年の8月15日の反靖国デモの警備に端的にみられたような、警備についての故意ともいえる怠慢のように、警備そのものがイデオロギー的なバイアスを露骨にもつようになっている。もちろん、外国の警察が褒められた存在ではないことは、先のロンドンでの暴動のきっかけとなった警察による人種差別や暴力など、どこの国にも見られることではある。しかし、日本の警察は、こうした暴力も徐々に米国流となってきただけでなく、そもそも表現の自由という基本的な権利そのものを「公共の福祉」への敵対的なこととみなし、こうした権利に露骨に介入することを当然としている点では、突出している。
僕達は、少なくとも他の国で当然認められているレベルの路上への権利、かつてこの国でも当たり前にみられたデモの権利をまず回復しなければならないが、同時に、なぜ、これほどまでに警察が肥大化してしまったのか、この半世紀のこの国の権力の有り様を根本から問うことも必要なことである。警察の肥大化は、その裏面で、人々のある種の不安や権力への依存と不可分でもある。こうした人々の警察への依存やデモも含めた社会的政治的な異議申し立てを民主主義の必須条件とはみなさないような権威主義的なパーソナリティの醸成がいったい何によってどのように構築されてしまったのか、このことを解き明かすことも避けられない。
権力の不合理な抑圧を許しているのは、この国の主権者の責任である。これは民主主義国家である以上避けられない責任である。しかし、この意味での責任は、警察が過剰警備と不当な逮捕に直接の責任があるということとは違う。後者の責任は明らかに警察にある。私たちの責任とは、こうした警察の権力行使を抑制して、表現の自由や基本的人権を確保することに関わる政治的な責任である。
(以上転載終わり)
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