台風の通過はあらためて大震災と原発震災を僕らに想起させた
- 2011年 9月 25日
- 交流の広場
2011年9月23日 連帯・共同ニュース第158号
9条改憲阻止の会
■ 若いころ結構突張っているように思えた作家に大庭みな子がいた。よく読んでいた作家の一人だった。『三匹の蟹』や『ふなくい虫』などの作品がある。彼女は夫の任地のアメリカに長年いたが、そこから帰える動機として『英語の感性についていけなくなり、英語の表現が自分にそぐわなくなってきました』と述べていた。例えば、「山が見える」という表現の中で、英語では「私」が主語で、日本語では山が中心であり、そういう差について行けなくなったと語っていた。山は自然でも対象でもいいがそこに含まれている自分という感覚と私という自我がこちら側にあるという感覚の差異とでも言おうか。僕らは3月11日の大震災や原発震災の中で日本人の感性、とりわけ自然との関係の意識(大きくは対象との意識)についてあらためて多くのことを気づかされた。自然をどう受け入れているか。身体化しているかについて自覚させられたところがあり、これは復興のことを考える大きな契機になると思えた。自我=近代意識とあまり図式化はしたくないが社会観や価値観の見直しにつながると思える。これはプラスの契機になるが、またマイナスの契機にもなるとも思えた。この自我の相対化というのは自然や対象の力や存在の再評価になるし、人間観や社会観を豊かにするが、権力や体制に対する意志力(主体力)をより曖昧なものにしかねないとも思えたのである。
■ 丸山真男は「成り成りて…」というように日本人の歴史意識を古層から析出した。これは日本の自然思想や主体と対象との関係を現わしているとも言える。大庭みな子が日本語に寄り添いたくなった意識と通底しているところがあると思える。僕はこの歴史意識は日本の歴史体制である官僚制(権力体制)の根底にあったものだと思う。官僚権力は意志力で社会や体制を変えようとする思想や行動を巧みに排除し骨抜きにしながら、他方で「成るように成って行く」という歴史意識に依拠してきたのである。権力や体制に抗い確執して行く意志力はこの歴史意識に衝突してきたのだ。そこに困難さがある。権力や体制を替える政治的―社会的のビジョン(構想)の難しさである。この問題は大震災の中の原発震災をどう考えるかということが要になる。原発震災は日本人の意志力の問題を問うているのであり、「成るようになって行く」という歴史的心性を否定しなければならないのである。復興の中では日本人の近代的社会観や意識を相対化していく契機が重要でも、原発問題の解決には意志力(権力批判)が強く働く必要がある。(文責 三上治)
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