問題だらけの法科大学院は速やかに廃止せよ
- 2011年 9月 30日
- 評論・紹介・意見
- 宇井 宙新司法試験法科大学院
1.はじめに
法科大学院がスタートして今年で8年目、新司法試験は6年目を迎えた。新司法試験開始後、移行期間の暫定措置として縮小しつつ併存していた旧司法試験も昨年度で終了した(ただし今年は、昨年の第2次筆記試験合格者に対する口述試験のみ行われる)。原則として(例外については後述)法科大学院の修了者のみが受験することができるこの新司法試験制度は、小渕内閣の下で設置された司法制度改革審議会が2001年に提出した最終意見書で、裁判員制度の創設とともに司法制度改革の2つの目玉として鳴り物入りで打ち出した構想を基に、政府が2002年に閣議決定したことで始まった制度である。
本来ならば、旧司法試験に完全に取って代わった新司法試験はいよいよその成果を存分に発揮すべき時期にきているはずなのだが、実際には制度スタート直後に明らかになった矛盾が、もはや誰の目にも隠しようもなく露呈し、後は、いつ、この馬鹿げた制度を廃止する決断をするか、あるいは、いつまでその決断を先延ばしにし続けるか、だけが問題となっている。今や、この制度をよく知る人や、関係者の中で、この制度が素晴らしいと思っている人はおそらく一人もいないであろう。
2.ジリ貧となる合格率
何が問題なのか? 論より証拠。詳しい話は後回しにして、まずは次の表を見て頂きたい。新司法試験が始まった2006年度から今年度までの受験者数と合格者数ならびに合格率を示している。(既修コースというのは、法学部を卒業した人など、法律学を一応学んだ人が入るコースで、修学期間は2年、未修コースは法律学を学んだことがない人が入るコースで修学期間は3年である。ただし、既修コースと未修コースの定義については各法科大学院によって違うので、実際には法学部を卒業した人が未修コースに入ったり、法学部を卒業していなくても自分で勉強して既修コースに入る人もいる。)
合格率を見てみよう。
・既修コースは、48.3→46.0→44.3→38.7→37.0→35.4
・未修コースは、32.3→22.5→18.9→17.3→16.2
・合計では、40.2→33.0→27.6→25.4→23.5
と、いずれも一直線に低下を続けているのである。ただの一度の例外もない。見事としかいいようのないほどの法則性を示している。この法則が示していることは何か? この問いには小学生でも答えられるだろう。つまり、新司法試験に未来はない、ということである。やればやるほどジリ貧になる、ということである。しかし、問題はそれだけにはとどまらない。そもそも政府は何のためにこんな制度を導入したのか?
3.ことごとく外れた政府の見通し
そもそも法科大学院と新司法試験制度は、アメリカのロースクールなどを参考に、法科大学院を修了した人の「7~8割」、つまり大半の人が合格するような制度として構想されたものである。制度発足直後は、そのような宣伝がなされたために、多くの人がバラ色の期待をもって法科大学院に殺到したが、いざふたを開けて見ると、既修コース修了者のみが受験した初年度(2006年度)でさえ合格率は5割を切り、3年目には3割台、4年目には2割台へと急速に低下し、1割台まで低落するのも時間の問題だろう。
だが、そもそもなぜ、そうした制度に変える必要があると考えられたのか? 司法制度改革審議会などで言われた議論は次のようなものだった。
(1) 市民の多様なニーズに応えるために、法曹人口を大幅に増やす必要がある。
(2) 「現行司法試験」(つまり旧司法試験)は知識偏重で受験テクニック中心の勉強をしてきた人が法曹になる傾向がある。また、一部の大学の法学部では法曹志望の学生が予備校中心の生活を送り、大学の授業が空洞化している。これを改めるには、法曹人としての幅広い教養や実務を身につけるための法科大学院の創設が望ましい。
(3) 多様な市民のニーズに応えるためには、法学部の卒業者に限らず、幅広いバックグラウンドと経験を持った法曹が増えることが望ましい。(そのため、法科大学院には学生の一定割合を未修コースとすることが義務づけられた。)
(4) 「現行司法試験」の受験生の中には、何年も、あるいは何十年も受験を繰り返し、人生を棒に振ってしまうケースが少なくない。こうした弊害を是正するためには、新制度では受験回数の制限を設けることが望ましい。(こうして新司法試験では、法科大学院終了後、5年間に3回まで、という受験回数制限が設けられた。)
さて、このような目論見をもってスタートした法科大学院=新司法試験制度であったが、現実はどうなったか?
(1)旧司法試験の合格者数は、1990年頃までは年500人程度であったが、その後徐々に増加し、新司法試験が始まった2006年頃には1500人前後にまで増えていた。政府は、新司法試験の合格者数を、2010年頃には年3000人程度にまで増やすという計画を掲げていたが、この目標は現在はもちろん今後も達成されそうにない。確かに法曹人口、それも弁護士人口は急速に増えたが(言うまでもなく増加分はすべて新米弁護士である)、それに見合った需要があるわけではない。そのため、せっかく苦労して新司法試験に受かっても、法律事務所に就職できず、弁護士になるのをあきらめてしまう人も出てきている(この問題については後述する)。当然のことながら、弁護士が急に増えたからといって司法が急に市民に身近になるわけではなく、弁護士の増加に応じて弁護士需要が増えるわけではない。弁護士が増えれば、企業や官庁が弁護士を雇用するようになるだろうと、政府は勝手な見通しを立てていたようだが、もちろん企業や官庁が政府の思惑通りに動くわけではなく、現実にはそうしたニーズは増えていない。
(2)旧司法試験の受験生の多くが知識偏重で受験テクニック中心の勉強をしていたのは事実かもしれないが、新司法試験になればそうした傾向がなくなる、などというのは全くの幻想にすぎない。現に、法科大学院を創った結果、今度は法科大学院自体が予備校化しているのが現状である。旧司法試験時代に(一部の)大学の法学部の授業が空洞化していたかどうかは知らないが、仮にそうだとすれば、それは旧司法試験のせいというより、大学自体の問題であろう。しかしながら、一部の司法試験受験者が大学の授業に出てこない、などといった問題(?)よりも、大学自体が予備校化する方がはるかに深刻な問題である。法科大学院は言うまでもなく、新司法試験の合格実績がすべてである。合格実績が経営に直結するばかりでなく、法科大学院の存続そのものにも直結しかねない。現に今年の新司法試験では、74校のうち、合格者数が1桁(0~9名)の法科大学院が37校、すなわち50%に上っている。真剣に法曹を目指す受験生ならば、合格者が10名に満たないような大学に行く気がするだろうか? つまり法科大学院の半数は存亡の危機にあるのだ。そして合格者数が20名に満たない大学まで含めれば、存亡の危機およびその予備軍の法科大学院は50校、すなわち全体の3分の2に上るのである。しかも、法科大学院を設置した大学の法学部教員は、法学部と法科大学院の授業とその準備で疲弊しており、そのしわ寄せは直接あるいは間接的に法学部の授業に及んでいる。直接的な影響としては、実定法の教員を増員する必要から、基礎法学などの科目やコマ数や教員がどんどん削られている現状がある。
(3)法科大学院に未修コースを設けることで、多様な人材を確保しようとした政府の目論見は完全に裏目に出た。上の表に示されているように、未修コースの合格率は今年度ついに16.2%にまで低下してしまった。しかも、上の表の傾向から読みとれるように、この比率は今後さらに下がり続けるだろう。つまり、未修コースを出てもほとんど司法試験に受からない、ということである。そのことがすでに数年前から明らかになっているので、未修コースの志願者は年々減少の一途を辿り続けている。このような状況の中でなお未修コースに入っても、勉強の厳しさと絶望的なほどの将来の見通しの暗さなどから、うつ病や神経症など精神疾患に罹る学生が後を絶たない。しかも、詳しくは後述するが、法科大学院の授業料は通常の大学院の授業料よりはるかに高額であるため、経済的な負担が半端ではない。さらに未修コースは3年制なので、既修コースの1.5倍近くも経済的負担が重い。周知の通り、日本の大企業は原則として新卒しか採用していないので、大企業の社員が仮に法曹を志したとしても、現状のような制度では、会社を辞めて法曹を目指すなど、あまりにもリスクが高すぎて、ほとんどできないことである。それに比べて、旧司法試験制度の時代には、今よりもはるかに多様な人材が法曹になることが可能であった。大学など出ていなくても、誰にでも司法試験を受ける機会が開かれていて、何度でも挑戦することができ、司法試験に受かりさえすれば、誰でも法曹になることができたから、大学を出ていない人、法学部以外の学部に進んだ人、仕事をしている人などが、自分で、あるいは予備校などに通いつつ勉強をして司法試験を受けることができたからである。
(4)旧司法試験は、何度でも受験が可能であったがゆえに、法曹の夢を諦めきれずに何十年も試験を受け続け、人生を棒に振ってしまう人がいて可哀想だから、受験回数を制限してあげましょう。これが旧司法試験を廃止する理由のひとつに挙げられていた。何という親切な御配慮だろう・・・・なんて一体誰が思うのか! 喫煙者の健康が心配だからタバコを大増税して禁煙を手助けしてあげましょう、というのと似た、エセ人道主義ではないのか!(もっとも、他者の健康への配慮という美辞麗句により喫煙者にだけ負担を押し付ける嗜虐癖を合理化するタバコ増税論のエゴイズムほど醜くはないかもしれない。念のため付言すると、私は喫煙しない。)「人生を棒に振ってしまった」か否か、などという判断は本人のみがなしうることであり、他人が勝手に軽々しく判断していいことではない。しかも、旧司法試験の時代であれば、自分の懐具合に応じて、それほどお金をかけなくても勉強をすることはできたし、自分の生活スタイルに合わせて自分のペースで勉強を続けることができた。ところが、新司法試験は、原則として、法科大学院を修了しなければ受験できないので、法科大学院を出るまでに莫大な費用がかかる。裕福な親のすねをかじることのできる人以外は、貸与制の奨学金を借りることになるので、新司法試験を受けるまでに膨大な借金を背負ってしまう。そのうえ、5年間で3回まで、という受験回数制限があるのだ。この制限内に合格しなければ、最短でも5年(既修コース2年+3年)、長ければ8年(未修コース3年+5年)かそれ以上という年月と莫大な費用を投じた挙句に何の資格も得られない、ということになってしまうのが現在の制度なのである。旧司法試験とどちらがいいか、論じるまでもないだろう。
4.新司法試験に受かっても茨の道は続く
さて、法科大学院に合格し、莫大な入学金と授業料を支払い、必死になって勉強して法科大学院を修了し、難関の新司法試験にも無事に合格した、としよう。ああ、これでやっと晴れて法曹としての華々しい生活が保証された!とは言えないのが現状なのである。司法試験合格者は1年間の司法修習を受け、最後に修了考試(いわゆる2回試験)に合格するとようやく判事補、検察官、弁護士となる資格を得る(近年は2回試験の不合格者も年々増加しているそうだが、それはここでは措く)。判事補や検察官への任官は、基本的に司法研修所教官の判事や検察官のお眼鏡に適わないとなれないそうなので、ここでは除外して、弁護士志望者について考える。従来、弁護士志望者は法律事務所に「イソ弁(居候弁護士)」として就職し、そこで先輩に学びながら経験を積んでいくのが一般的だった。ところが、近年、司法試験合格者が急速に増加したのに、弁護士の仕事が増えたわけではないため、法律事務所に就職できない司法修習生・司法修習修了者が増加している。日弁連の調査によると、弁護士を志望しながら就職先が未定の司法修習生は今年7月末時点で43%に上るという。同時期の就職未定者の割合は07年の8%から09年24%、10年35%と年々着実に(ほぼ8~9ポイントずつ)上昇を続けているのである。そのため、最近では、固定給をもらわず机(軒先)だけを借りる「ノキ弁」や、すぐに独立する「ソク弁」が増加しているが、当然ながら、新米弁護士がすぐに一人前の仕事ができるわけもないから、働く見込みが立たずに弁護士会への登録を諦め、他業種に「転職(?)」する人も増えている。長年に亘る厳しい勉強と大金を投じ、ようやくにして新司法試験に合格し、司法修習も修了した挙句がこの惨状なのである。
5.貧困層を排除する法科大学院
さて、これまでは主として、法科大学院と新司法試験が、いかに当初に政府の目論見とかけ離れた悲惨な現状をもたらしたか、ということを述べてきた。しかし、法科大学院=新司法試験制度の最大の問題点はまだ述べていない。それをこれから述べる。
思えば、旧司法試験は、当然のこととは言え、万人に門戸の開かれた実に公平な制度であった。先にも触れたように、旧司法試験は大学を出ていなくても、一般教養科目や外国語を含む第一次試験に合格さえすれば、誰でも受験することができたのである。つまり学歴は一切関係ないのである。そのため、元「ヤンキー」や元「極道の妻」など、多彩な経歴を持つ人が弁護士になることが可能だったのである。また、予備校等に通わず、自分で独学すれば、貧しい人でも法曹になることは可能であった。その意味で、旧司法試験はかなり理想に近い形で機会均等を保障していたと言えるだろう。
それに対して、現行の制度では原則として(例外は後述)法科大学院を修了しなければ司法試験を受けることができない。では、法科大学院を出るためには、どのくらいのお金がかかるのか? 国立大学法人の場合、入学金と授業料(年額)を併せて、初年度に納付しなければならない金額は108万6千円である。既修コースを修了するためには、2年間の授業料と入学金だけで189万円もかかる。3年制の未修コースでは269万4千円である。私立大学は大学によってまちまちだが、ある有名私大では初年度納付金額が156万円、既修コース修了には292万円、未修コース修了には428万円もかかることになる。この間、基本的にはほとんど働けないから(バイトはできたとしても、勉強と両立できる範囲に抑えざるを得ない)、生活費もどこかから捻出しなければならない。すでに述べたように、社会人が自分でお金を貯めて法科大学院に入学するのは、あまりにもリスクが高いので、それだけのリスクを引き受けられる人は稀だろう。そうなると、法科大学院に入学できるのがどういう人たちであるかは明らかだろう。それだけの費用の面倒を(少なくとも当人が自立できるまで)見てくれる親を持つ学生に限られることになるだろう。学歴や所得と関係なく誰でも受験できた旧司法試験と比べて、現行制度の持つ排他性はあまりにも明瞭である。このような法科大学院制度が貧困層を締め出しており、機会均等の原則に反することは現行制度の最大の問題点である。ところが、こうした批判を交わすための“言い訳”として、現行制度はひとつの例外を設けたのである。それが予備試験という制度なのだが、これこそまさに現行制度の矛盾の象徴以外の何物でもない。
6.矛盾の象徴としての予備試験
現行制度は、法科大学院制度は貧困層を排除する不平等な制度だ、という当然予想される批判を予測して、それに対する予防線として、予備試験という制度を設けた。これは、「法科大学院を経由しない者にも法曹資格を取得する途を開くために設けられた試験で、これに合格した者は、法科大学院修了者と同等の資格で新司法試験を受験することができます」(法務省のサイトより)とされている。そして、旧司法試験と同じく、予備試験には受験資格や受験回数の制限はない。旧司法試験が昨年で終了したのに伴い、今年から予備試験がスタートしたことから見ても、「法科大学院に行けない貧困層を排除するのか」という批判を回避するために設けられた制度であることは明らかである。それなら別に問題ないではないか、とお考えだろうか。そうではない。法科大学院など行きたくないのは、金持ちのボンボンやお嬢チャンも同じである。高い金と時間をかけて法科大学院など行かなくても、予備試験に通れば新司法試験を受けられるのなら、そのほうがよほど費用と時間の節約になるではないか、と考えるのは誰しも同じである。とりわけ優秀な学生ならそうである。ということで、金持ちのボンボンやお嬢チャンも含め、予備試験に受験生が殺到することになる。ところが、もしも仮に予備試験の合格者が大量に出ることになれば、法科大学院の存在理由がなくなってしまうので、すでに崩壊寸前の法科大学院制度は一気に崩壊してしまうだろう。そうはさせたくない法務官僚は何が何でも予備試験をあくまでも例外的な制度に留めなければならず、必然的に予備試験の難関化が予測される。その結果、予備試験は貧困層の救済策としての意味よりも、優秀な受験生のための特権的「近道」としての意味を帯び、新司法試験受験者はいわば“エリートコース”たる予備試験合格者とその他の法科大学院修了者という階層化をもたらすことになるだろう。こうして、貧困者差別たる法科大学院制度を維持するためには、予備試験は法曹への「エリートコース」たらざるを得ず、法曹の階層化というさらなる差別を持ちこむことで、予備試験は法科大学院制度の矛盾の象徴とならざるを得ない運命なのである。
7.百害あって一利もない法科大学院制度は速やかに廃止せよ。
このように、現行の法科大学院=新司法試験制度は百害あって一利なし、と断言してもよいだろう。問題点ばかりであり、どこにも利点が見出せないのである。ところが、周知のように、日本の官僚はいったん始めた制度は何が何でも死守しようとする。その際、「これまでにこんなに大金をつぎ込んできたのが無駄になってしまうではないか」などという、わけのわからない反論(?)が持ち出されることがよくある。しかし、これまでに無駄金を使ってきたことが、今後も無駄金を使い続けるための正当な根拠になるはずがない。これほど問題だらけの法科大学院制度をこれ以上続けることはもはや許されない。速やかに廃止に向けた具体的工程表を策定すべきである。
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〔opinion0624 :110930〕
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