藤﨑清さんへ スミスは「見えざる手」の市場論者ではありません
- 2011年 9月 30日
- スタディルーム
- スミス野沢敏治
藤﨑さんが9月5日付でスタディル-ムに掲載した小論「市場経済の現状を放置しておいてよいのか」を拝見しました。
藤﨑さんはその最初の部分でスミスの「見えざる手」について言及し、その市場経済論に本質的に重大な欠陥があると述べています。そして今日の経済状況に対して、投機マネーの虚業を野放しにするのでなく、社会的貢献度の低い事業に対して課税を高くして市場から退散させるという政策を提案しています。
私はその政策でなく、スミスについて以下にコメントしたいと思います。
私は正直なところ、またも例の「スミス=見えざる手の自由放任論」を批判するものかと思いました。
今では人の群に向かって石を投げれば大学教授に当たるそうです。今日の教授は戦前と違って希少価値はなく、みな「唯野教授」なのです。それと同じこと以上に、街頭で石を投げればスミス=「見えざる手」のイメージをもつ人に必ず当たるでしょう。われわれはそういうスミスを中学・高校で教えられます。大学では教員はスミス研究者を除けば例外なしと言ってよいほど、教壇でスミスと言えば「見えざる手」による資源の適正配分を主張した人と言うでしょう。ジャーナリズムも評論家もみな寄ってたかってスミスをそう評します。この人たちは自分で『国富論』を読んだことはないのです。かくして原発の安全神話と同じく、スミス=「見えざる手」の神話は作られ、再生産されていきます
藤﨑さんにはそのような人々と違う点があります。「みえざる手」は書かれてある箇所を大河内一男監訳『国富論』中(中央公論社)から引用しています。そこで私はコメントすることにしました。その引用は正確でありません。いや誤ってすらいます。せっかく日本語訳を参照したのに、自分が持っていたスミス像をそこにただ投影した結果になっています。
藤﨑さんは次のように引用しています。
「各個人が市場において自分自身の利益を追求すれば、見えざる手に導かれて、社会の利益を増進しようと真に意図する場合よりもっと有効に社会の利益を増進することもしばしばあるのである。」
私が同じ訳書から引用してみます。『国富論』第4編第2章第9パラグラフです。
「各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから、だれもが、必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図もしていなかった一目的を促進することになる。」(119-120頁)
これで分かるように藤﨑さんの引用では誤解が生じます。
1)まずスミスは「市場において」とは言っていません。
2)またスミスは利己心の自由を何でもよい無限定のものでなく、具体的に特定しています。その私人は非常に慎重な行動をとります。私人はその資本を「安全」を計って外国の産業よりも「国内の産業」を維持するのに使うのです。それは何をしてもよい自由ではないのです。ましてや投機的な自由などではありません。当該パラグラフだけでもそのようなことが言えます。
でもまだそれだけではだめです。ある言葉を多少とも正確に押さえようとすれば、その言葉が出てくる前後に眼をやらねばなりません。芝居を楽しもうとする人は見どころとされているところにだけ注意を集中することはありません。その前後の筋とのつながりでさわりを味わうすべを知っています。経済学の古典についても同じだと思います。ここに有名な「見えざる手」の文句があったと確認するだけでは面白くありません。
「見えざる手」があるパラグラフの前後を見てみます。すくなくともその言葉がある第2章全体を読んでみます。私がもっている旧い岩波文庫本で28頁ですから、たいした量ではありません。
眼に着くだけでも、以下のことが分かります。
この章は重商主義が国産の農産物や製造業品の保護または独占のために外国品の輸入を制限していることを批判しています。以下の通りです。
その制限はそれによって保護されている特定の勤労・産業の利益になるが(――スミスはこの点で重商主義の政策の効果を一応みとめています!)、社会全体の勤労・産業の利益にはならない(――消費者の利益にならないだけではありません!)。社会全体の利益とは資本によって雇用される勤労が最大になることである。そのためには資本の投下を私人の自由にした方がよい。なぜならば私人は資本を自分の利益のために自分が良く知っているところに、外国よりも国内の産業に投下するだろう。ただし、条件がある。それは自由な競争によって産業部門間で平均利潤率が成立していることである。そうすれば、資本は同じ利潤が得られるのであれば、遠方に投下するよりも近くに、資本の安全と利益の確実性を狙って、国内農業から順次に国内製造業に投下される。それは資本1単位当たりが雇用する生産的労働者の数の大きい順に投下される(――生産的労働者が経済的価値を生むのですが、その雇用比率は農業の方が大きいとされます。農業では製造業と違って地代を生みますが、それは自然も牛も労働者と同じく働くからです。これはケネーから受け継いだ重農主義の考えです。これの理論的な正当性についてはここでは不問にしておきます)。それゆえ資本は一国の内部で生産される価値の大きい順に投下されるようになる。商業であれば資本は国内商業から外国商業へ、外国商業の場合も近隣の国との外国貿易から第3国を経由した迂回貿易へ、最後に第3国間の中継貿易へと投下されるだろう。
以上が「資本投下の自然的順序論」です。これに対して眼の前の重商主義は輸出に向く特定の産業や遠方との貿易の部門に保護と独占を与え、それらを肥大させている。これによって一国の産業構造は不健全になっている(――そんなことのためにフランスと商業戦争を起こし、植民地の獲得と維持のために国家財政を危機に陥れている)。それを健全な産業構造と市場構造にしなければならない。これがスミスの考えです。
同じ章の中で他にこんなことも言っています。貿易の自由は急にしてはいけない、段階を追って漸次的にせねばならない。さもないと労働者の中にはそれまでの仕事を追われて失業する者がでる。それは人類愛がゆるさないことである。また資本家には自由化にさいしてあらかじめ時間を与えてやるべきである。さもないと高価な固定資本を無駄にしてしまう者がでる。それでは公平でない。
どうでしょうか。通俗に思われているスミスとは違うことが分かると思います。スミスの自由は新自由主義の人々の自由ではありません。スミスは自由を何の限定もなしに抽象的に主張しているのでありません。
ついでに、次のことを加えておきます。
スミスが対象にした経済人は労働者であっても資本家(今日と違ってまだ小生産者的ですが)であっても、禁欲と勤労の経済倫理の持主であり、等価交換の正義意識をもってフェアプレーをする人たちです。業者間で談合などはしません。そういうモラルをもって地位の上昇を計る人たちです。労働者は今日はこれだけ稼いだから居酒屋に一杯飲みに行こうと、家族のことを考えず使いはたすことはしません。雇用主も労働条件の改善を顧みずに労働者をこき使ったり、機械の採用と改善をさぼることはしません。スミスは以上の利己心を非難するのです。彼は上流の階級の自由を批判します。農村の封建的な地主貴族は贅沢な消費をしますが、そんな自由を攻めます。贅沢は結局産業に対する有効需要になるからと正当化することはしません。そして都市の重商主義階級である上層の商人・輸出製造業者の独占的利己心を批判します。彼が認める利己心は先ほどの道徳の持主のそれ、社会の中層・下層の人々のそれに限定されるのです。その人たちは都会のギルドのメンバーでなく、特権とは無縁の農村や都市郊外に住んで生産している者です。こういう生産者の自由を彼は主張しているのです。ただ消費者の自由をお題目的に唱えているのではありません。
もちろん、このスミスですべてよいことにはなりませんが、
こういうスミスがどうして近代経済学の父か、新古典派の後ろにいる権威でしょうか。
まだ言わねばならないことがありますが、もうやめます。ただこれまでスミスを正しく評価した人の中に次のような人がいたことを知ってください。E.ウイリアムズ。彼はトリニーダ・トバゴが1962年にイギリス帝国から独立した時の初代の黒人首相です。彼がスミスの奴隷論を読んでその広さに感心し、スミスを「近代イギリスの歴史叙述の父」と評価しました。1970年代には第3世界からG.フランクのような従属論者が出て、戦後に後発国は政治的に独立したのに経済的に自立できないのは先発国によって従属的な地位に置かれてきたからだ、今でもそうだと論じます。その彼らがスミスは先進国の富の原因を後発国の側から見返す眼をもっていたと見抜きます。スミスはイギリスだけの富でなく、「諸国民の富」を研究していたことを評価します。これでスミスはいかにもスミスっぽいことを繰り返す人には受け継がれていないことが分かります。
私は思うのですが、素人であっても、厭わずに自分で『国富論』を読んでみるべきでしょう。スミスはまさか今日の経済学史の専門研究者に向かって『国富論』を書いたのではありません。読めば、意外な発見をするはずです。これは『国富論』だけのことでなく、古典と言われるものはすべてそういう思考の転換を促してくれるのではないでしょうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study418:110930〕
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