原発存続の是非は国民の意志(自己決定権)で決めよ
- 2011年 10月 5日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2011年10月5日 連帯・共同ニュース第165号
9条改憲阻止の会
■ 「誰がどこでどのようにして原発の今後を決めるのか」という問いを発してみたとする。誰からも明瞭な答えは戻ってはこないだろう。誰もがそれは決まっているだろう、とは言うにしても(?) 内閣総理大臣であると。それは国家意志の決定者であるし、国民の意志の代表者であるからだ。確かに制度的にはそうであると言える。だが、内閣総理大臣は恒例ごとく毎年替わるし、彼の意志が原発の今後を決めるとは誰も思ってはいない。菅前総理大臣は脱原発を表明したけれど、野田新総理大臣は原発の存続を述べている。そこにどんな意志の連続性があるのか、意志一致があったのか疑問の湧くところだ。彼は原発の存続について政治判断と呼べるに値するものを持っていないのではないのか(?)これは誰もが抱く疑問だが、こんな総理大臣が決定力を持っていないとすれば、誰がという疑念が生じるのも当然である。答えはあるはずだ。
■ それは原子力行政を担ってきた経産省や原子力ムラの官僚である。彼らは霞ヶ関という日本政治権力の奥の院にありながら原発の存続を決定してきた。政治的には黒子役に過ぎないように見えるが、彼らこそが実質的な政治の決定をしている。これは日本の権力構造の歴史的な存在様式であるが、特に原発存続のような専門的判断を要することにおいては特にである。これは例えてみれば、防衛省に参戦の決定権があって内閣や総理大臣は承認の判を押すようなものである。さすがに参戦という事態については戦前の軍部の独断専行の苦い経験があり、シビリアンコントロール取られている。戦争より酷い事態を生み出している原発震災であるが経産省や原子力ムラの反省も解体の動きも見えず、依然として彼らが原発存続の決定権を握っている。エネルギーのベストミックス《電源の最適な組み合わせ》をコンセプトにした原発再稼働→原発存続の戦略を彼らは決定している。内閣総理大臣や閣僚、あるいはメディアの言動の微妙な変化は彼らの意図が浸透している結果である。内閣や政党の背後の動きを注視していればあぶり絵のようにみえる。
■ 本当は原発の存続の是非は国民の自己決定に委ねられるべきである。国民の意志こそがその決定力であるはずだ。原発震災から僕らが強いられて反省は原発存続の決定権を官僚や政府に握られて国民は関与できずにきたということである。この反省を生かすために僕らは原発存続の是非を国民の自己決定に取り戻す闘いが必要である。この経産省前のテントと広場はそのささやかな拠点である。守り広げながら国民の意志(自己決定力)の発現の場にしよう。(文責 三上治)
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