ベンヤミンのメッセージ ―― 希望の倫理へ
- 2010年 6月 22日
- スタディルーム
- ベンヤミン論希望の倫理高橋順一
今年三月、社会評論社から『ヴァルター・ベンヤミン解読』を上梓しました。一九八四年から二〇〇七年にわたって折に触れて書いてきたベンヤミンに関わる文章を集めて作った本です、ぼくのベンヤミンの読み方はかなり偏った問題意識に基づいていると思います。そういう偏ったベンヤミンの読み方を本にしてもはたして客観的な評価に耐えられるかどうか、正直なところ自信はありませんでした。でもベンヤミンを若い人たちに読んでもらうためのひとつの補助線くらいにはなるだろうと考え、最終的に本を出してもらうことを決意しました。この本のあとがきにも書きましたが、ベンヤミンを読むことは、勝者だけがのさばる世界をひっくり返すための武器を手に入れることにつながります。この本でいちばん伝えたかったのがそれです。あらゆる希望も可能性も失われてしまったからこそ、希望を、可能性をあらしめねばならない、いや、現にあると信じなければならない――これがベンヤミンの思想の核心にあるメッセージだと思います。ちょっと魯迅の「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに相等しい」と似ていますね。
青年運動から『暴力批判論』へ
ベンヤミンはベルリンで生まれたユダヤ系ドイツ人でした。
父親は富裕な商人、母親も割合に富裕な家系で、一八七一年のドイツ帝国成立以降しだいに経済面で力をつけてきた上層市民階級に属していました。もっともこの市民階級は当時のドイツでは政治的力をほとんどもっていませんでした、力を持っていたのは軍人と官僚です。一八七一年に統一されたドイツ帝国の中心だったプロイセンは、ドイツ語でいうカゼルネシュタート(兵営国家)、つまり国民全体を兵営のような軍国主義的国家秩序の中に押し込めて厳しく管理する体制を取っていました。そのプロイセン・ドイツ帝国の首都ベルリンは、そうした国家秩序のシンボルでした。例えばフリードリヒ・シンケルのプランに基づくギリシア古典様式に範を取った荘重でモニュメンタルな建築群は、そうしたベルリンの雰囲気をもっとも典型的なかたちで示しています。それは権威主義的雰囲気といってもよいでしょう。ベンヤミンは、ベルリンのそうした雰囲気に早くから強い違和感を感じていたようです。
ところでドイツの教育制度では一〇歳でほぼ自動的に人生のコースが決まってしまいます。これが先ほどの権威主義の基盤にもなっています。近代国家が生み出した軍隊と学校という集団組織は秩序への服従という権威主義的心性を育成する役割を持ちますが、ドイツの教育制度はその典型的なケースでした。子どもたちは一〇歳になるとレアルシューレ(実科学校=ブルーカラー労働者養成)、ハウプトシューレ(基幹学校=中・下層サラリーマン養成)、ギムナジウム(大学進学中高校=社会的エリート養成)のどれかを選択しなければなりません。その選択はだいたい親の階層で決まります。ベンヤミンはギムナジウムへ進学しますが、権威主義的体質が合わなくて登校拒否に陥り、テューリンゲン地方にあったハウビンダ林間学校(東京シューレのようなオルタナティブスクール)へ転校します。権威主義的な公教育のあり方に批判的で、子どもたちの自発性を自由に伸ばす教育を目指していたこの学校で、創立者のヴィーネケンと出会ったことがベンヤミンの思想的出発点となります。まずドイツ青年運動との関わりです。一九世紀の後半から二〇世紀にかけて起こったドイツ青年運動は、青年層を中心とした当時の国家や社会に対する抵抗運動でした、ヴィーネケンの自由教育論はこのドイツ青年運動、特に学生運動に大きな影響を与えます。ギムナジウムに復帰して卒業し大学へ進学したベンヤミンはベルリンで、ヴィーネケンの影響を受けた当時最も左派的な学生運動組織「自由学生連合」の議長に就任しますが、就任講演「学生の生活」というテクストには後のベンヤミンの思想的モティーフが早くも現れています。それは後で触れる世界の変革と歴史哲学の関わりという問題です。
一九一四年第一次世界大戦が勃発すると恩師ヴィーネケンは戦争を支持します。ベンヤミンはこれに怒り、ヴィーネケンとも青年運動とも訣別します。第一次世界大戦はドイツも含めたヨーロッパの知識人のあり方に大きな影を落としました。ドイツだけでなくイギリスでもフランスでも、それまで政府に対して批判的だった知識人たちが戦争によるナショナリズムの高揚に巻き込まれていきます。社会主義者でさえそうでした。ドイツ社会民主党も戦争を支持します。アジア太平洋戦争のときの日本の知識人に生じたのと同じ問題がすでに第一次世界大戦のとき起こっていたのです。哲学者のゲオルク・ジンメルやニーチェの『悲劇の誕生』を批判したことで知られるドイツ古典学の総帥ヴィラモーヴィッツ・メレンドルフなど、およそ戦争と関係なさそうな人たちまで熱烈に戦争を賛美します。『ブッデンブローク家の人々』を書いたばかりの新進作家トーマス・マンもこの時点では戦争を礼賛していました。戦争に対して批判的だった知識人は、ロマン・ロランなどヨーロッパ全体でもごくわずかでした。
ベンヤミンは早くから戦争に対してはっきりと反対の立場を取っています。その理由のひとつは友人フリッツ・ハインレの自殺でしたが、他にも後に二〇世紀最大のユダヤ神学の研究者となったゲルショム・ショーレムという友人の影響があります。ショーレムの兄は当時ドイツ社会民主党党員でしたが、社会民主党主流派が戦争に賛成した後も戦争反対の姿勢を貫いたツィンマーヴァルト左派の運動に関わります。ショーレム自身も兄と同じ立場でした。恐らくそうしたショーレムの影響もあってベンヤミンは戦争に批判的となっていったのだと思います。けっきょく徴兵を逃れてドイツを離れ、スイスのベルン大学に転じて(事実上の亡命)一九一九年に卒業します。博士論文にあたる卒業論文は『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』でした。「ドイチェ・ロマンティーク」と呼ばれる、一八世紀終わりから一九世紀初期にかけての一群の文学者たち(シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス等々)を扱ったこの論文は、後に二〇世紀のロマン主義研究の古典として評価されるようになります。ドイツ・ロマン主義における反省や批判、批評の概念の検討を通して、そこに潜む哲学的内容を掘り起こそうとするこの論文には、ベンヤミン独自の思考の世界が明確に現れています。
一九一八年ドイツは第一次世界大戦に敗北し帝政が崩壊します。前年にはロシア革命が起こっています。戦争が終わるとベルサイユ講和条約が締結されワイマール憲法が採択されますが、同時にドイツを天文学的なインフレと革命の嵐が襲います。ベンヤミンがベルリンへ戻った直後のことでした。ロシア革命を指導したレーニンは、ロシア革命を世界革命へのステップとして位置づけますが、その鍵となるのがドイツ革命の成否でした。しかしこの革命は、キール軍港における水兵の蜂起、ドイツ共産党の前身スパルタクスブントの蜂起とその失敗、社会民主党主流派のエーベルトとシャイデマンによる共和国宣言、そしてスパルタクスブントの指導者ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺という経緯をたどり失敗に終わります。そうしたなかで一九二一年、ベンヤミンは、二〇世紀の暴力論の古典というべきエッセー『暴力批判論』を書きます。そこには暴力をめぐる極めて本質的な議論が展開されています。このエッセーには、もうひとつの二〇世紀暴力論の古典ジョルジュ・ソレルの『暴力論』とカール・シュミットの憲法停止をめぐる例外状態論が影を落としています。このエッセーの主題は、そうしたソレルやシュミットの議論がすでに示唆していた既存の秩序を一気に破壊し法の停止をもたらす革命的暴力の問題でした。ベンヤミンはこのエッセーで、ソレルの暴力論やシュミットの例外状態論を革命的暴力の問題地平から読み換えながら、暴力の社会哲学的考察を行ったといえるでしょう。とくに支配の暴力としての「神話的暴力」とそれを滅却する真の革命的暴力としての「神的暴力」の対比は鮮烈です。
『ドイツ悲劇の根源』から『パサージュ論』まで
一九二五年ベンヤミンはフランクフルト大学に『ドイツ悲劇の根源』という教授資格論文を提出しました。この論文は「トラウアーシュピール」と呼ばれる一七世紀のドイツ・バロック悲劇を取り上げています。ドイツ語には悲劇を表す二つの言葉、すなわち「トラゲーディエ」と「トラウアーシュピール」がありました。トラゲーディエは英雄の死を描くギリシア悲劇を意味します。ギリシア悲劇の意味での悲劇は、主人公が神から課せられた運命に対して力の限り抗い人間の自律を貫こうしながらも最終的には神、つまり運命の力の前に敗北してゆく過程を描いています。しかしこの敗北へ至る過程を通して描き出される主人公の明確な輪郭をそなえた生と死のかたちは、そのまま人間の生と死の普遍的かたち、言い換えれば典型としての意味を持ちます。だからこそ彼らは永遠に記憶される英雄となるのです。ギリシア悲劇が今もなお感動や衝撃を現代の人間に対して与えてくれるのは、この人間の普遍的典型としての英雄の記憶が現代にまで受け継がれているからです。
例えばギリシア三大悲劇詩人のひとりであるアイスキュロスの『オレステイア三部作』は、トロイア攻略へと向かうギリシア遠征軍の総大将アガメムノーンを襲った悲劇を描いています。遠征途中で風が止んだため船団を進められなくなったギリシア軍に対し「神々がアガメムノーンを妬んで罰を下したのだ」という神託が下り、アガメムノーンは娘イピゲネイヤを神への生贄、犠牲として奉げざるをえなくなります。そしてトロイアを征服したアガメムノーンは帰国後、イピゲネイヤの母親でありアガメムノーンの妻であるクリュテムネストラとその愛人アイギストゥスによって殺されてしまいます。だが今度はアガメムノーンとクリュテムネストラの間に生まれたイピゲネイアの妹エレクトラが、もうひとりの妹クリソテミスや弟オレステスをたきつけてクリュテムネストラとアイギストゥスを殺させます。このような復讐、殺戮の無限循環が神の課した運命なのです。ベンヤミンはこうした運命を「罪連関」といっています。人間は、神から運命を罪として科せられている、罪である以上、当然罪の償いをしなければならないのです。アイスキュロスは、アガメムノーン~クリュテムネストラ~エレクトラと続く罪連関を描きつつ、自らの欲望や意志を通してこの罪連関に挑んでいった人間の姿を浮かび上がらせます、もちろん彼らは運命に翻弄され破滅してゆきます。しかしそこには人間らしさのもっとも根源的なかたち、意味もまた現れてくるのです。
ソポクレスの『オイディプス王』の悲劇にはそれがより明瞭なかたちで現れています。テーバイの王の子として生まれたオイディプスは「わが母と交わり、わが父を殺すであろう」という神託のために生まれてすぐ捨てられてしまいます。だがコリントスの王に拾われ成長したオイディプスは、運命の糸によって引き寄せられるようにテーバイに戻り、偶然から父王ライオスを殺し、さらに怪物スフィンクスを退治してテーバイの王になり母であるイオカステを王妃、つまり妻にします。これがオイディプスに科せられた運命なのです。その後テーバイに疫病が流行し、盲目の預言者テレーシアスによって災いを招いたのはオイディプス王自身であることが、つまり父を殺し母と交わったオイディプスの罪によって疫病が起きたことが明らかにされます。イオカステは自殺し、オイディプスはイオカステの弟クレオンに王位を譲った後わが目をつぶし、母とのあいだに生まれた娘アンティゴネーを連れてテーバイを去ります。この物語は、神の運命との葛藤を通して人間の深部に潜む欲望や意志を露わにしています。だからこそフロイトはこの物語から主体=自己形成の原型的機能である「オイディプス・コンプレクス」という概念を作り出したのでした。
ではもう一つの悲劇を表わす言葉トラウアーシュピールのほうはどうか。この言葉は、ベンヤミンの時代にはほとんど完全に忘れられていた一七世紀ドイツ・バロック時代の悲劇を表わします。ベンヤミンによればトラウアーシュピールの主人公はもはや英雄ではありません。それどころかある種の破綻者というべき脆弱な存在でしかないのです。ドイツ・バロック悲劇の最大の作家は面白いことにカルデロンというスペインの作家です。カルデロンはドイツ文学史の中ではドイツ文学者として扱われています。彼の代表作『生は夢』では、現実に生きていることと夢の中で起こったことの区別がつかないような人間が描かれています。生と夢のけじめがつかないことは、その人間がギリシア悲劇の英雄のような明確な生の輪郭をもはや持ち得ない、生の衰弱の過程にあって狂気と理性のあいまいな境い目に立っているような存在でしかないことを意味します。ベンヤミンはこうした存在をトラウアーシュピールの根幹にすえました。これは何を意味するのか。
ここでベンヤミンの思想そのものについて少しお話ししてみたいと思います。私はベンヤミンの思想の中核をなしているのは歴史哲学だと考えています。この歴史哲学を最も根本的なレベルにおいて論じているのが、『ドイツ悲劇の根源』の中の「認識批判的序論」です。『ドイツ悲劇の根源』は大変難解な論文で、審査したフランクフルト大学の教授が最初から最後まで理解できず「どうか取り下げてくれ」ということで受理されなかったという経緯があります、そのためベンヤミンは大学の教師になれませんでした。そうした難解さがいちばん凝縮されているのがこの序論です。そしてこの序論では「根源」という概念が論じられています。
この「根源」ですが、ベンヤミンは早くからユダヤ思想に対して非常に強い関心を持っていました。ショーレムとの付き合いも一つのきっかけになっていたと思います。ショーレムは、タルムードあるいはカバラと呼ばれる中世のユダヤ教文書に基づいていわゆるユダヤ神秘思想の研究を行いました。彼によって中世ユダヤ神秘思想はよみがえったといってもいい。それと関連していえば、中世からルネサンス、バロックの時代にかけての時代、ヨーロッパの思想の歴史を考える上で重要な意味を持つ古代・中世の三つの思想要素が再生します。すなわち新プラトン主義の伝統、ヘルメス文書と呼ばれるテクスト、そしてユダヤ神秘主義です。
新プラトン主義は、プラトンより数百年後に生まれた哲学者プロティノスによるプラトンの再解釈から生まれた思想です。新プラトン主義の根幹をなすのは「流出」という考え方です。非常に単純な説明になりますが、根源(イデア)としての神、創造者としての神は、われわれの存在するこの世界、すなわち被造物の世界を創造します(これはユダヤ思想もキリスト教思想も同じです)。この創造のプロセスをプロティノスは流出という論理で説明するのです。ようするに、この被造物に向かう神の世界創造において根源であり創造者である「もっとも善きもの」としての神は、その実在的本質のすべてをこの被造物のうちへと注ぎ込むというわけです。神の本質は全部被造物の中に流れ込み具現されるのです。中世ヨーロッパにおける正統派だったキリスト教は、神と被造物のあいだに「断絶」を設けます。神の本質の完全性と被造物の不完全性のあいだの断絶です。しかし新プラトン主義には断絶はありません。神の本質はすべて被造物の中に注ぎ込まれるのです。
ヘルメス文書は、初期キリスト教の異端であったグノーシス派(北アフリカから現在のオリエントの地域にあって、かつてのマニ教やゾロアスター教などオリエントの宗教からも影響を受けたグループ)の考え方をまとめたもので、基本的には新プラトン主義の考え方を共有していますが、善(神)と悪(被造物の世界)の二元論を強調するところにその特色が現れています。別な言い方をすれば、グノーシス派においては悪の中からの善=神の認識(グノーシス)が問題にされるのです。ユダヤ神秘主義では、ユダヤ思想における神と世界の関係、神と被造物の関係がより徹底化されています。ユダヤ思想では、神によって選ばれたイスラエルの民に対してのみ神の本質が開示されると考えられています、したがってその開示はイスラエルの民にのみ理解される秘密のメッセージ、暗号を通して行われなければなりません。ユダヤ思想ではそれを「黙示」と言います。この黙示の伝統がユダヤ神秘思想の一つの起源となります。『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』、アポカリプスですね、これは、ユダヤ思想の黙示の伝統がキリスト教へと入り込み公認されて残っている唯一のテクストです。そこに示されているのは、堕落した被造物の世界を一気に破壊し正義を実現するべく神が軍勢を率いて来襲するという一種の革命思想です。この破壊と正義の創造が終末(エスカトン)になります。黙示の伝統はユダヤ神秘思想へ受け継がれますが、『ヨハネの黙示録』のようにキリスト教内部の終末論、あるいは終末をもたらす救い主(メシア)を待望する救済論(メシアニズム)にもつながってゆきます。
これらを組み合わせると、神の実在的本質は被造物の側へと全部流れ込むが、被造物の中にある神の本質はそのままでは認識されえない、一種の暗号のかたちでしか与えられていない、したがってこの神という自らの存在の起源、根源としての本質を認識するためにはこの暗号を読み解かなければいけない、という神の秘密のメッセージの解読術への志向が生まれます。同時にそれは、メッセージの解読が現にある世界の破壊と再生、つまり革命をもたらすことも意味しています。こうした考え方が、例えば「錬金術」、ヘルメティスムにつながります。錬金術は、神が被造物に暗号というかたちで与えた本質を読み解くための一種の解読術、解釈技術なのです。これが中世の末からルネサンスのころに成立します。
こうした発想がベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』序論における根源概念の背景になっています。根源、別な言い方をすれば理念としての神は、それ自体としては完全なるもの、善きものとして永遠の「今」となります。そこには歴史は存在しません。永遠の真理というべきものです。
トラゲーディエとトラウアーシュピールとの対比で言うと、前者では、神々は根源として絶対的な威力を被造物の世界に対して発揮しますが、被造物の側もまた敗北(罪連関)を通して英雄というかたちで根源を具現させます。つまり神と被造物、つまり人間の関係もまた根源の顕われとなります。ところが後者ではそういうふうにはなっていないとベンヤミンはいっています。確かに流出は起こっているかもしれないけれども、非常にかすかな暗号、徴しを通して極めて不安定なかたちでしか神と被造物はつながっていない、いや、つながりが感知されうるかさえ定かではない。これは、根源としての神、言い換えれば本性としての自然(ナトゥラ)が歴史によって風化されて朽ち果ててしまっているということです。そこには分裂、矛盾、断片化の集積としての廃墟しか残されていません。
根源あるいは理念としての神は、まだ歴史による風化にさらされていない無垢な自然と同定されます。この自然は非歴史的なものです。ところが人間が登場してくると、自然は必然的に歴史化されます。つまり人間が登場することによって、無垢であった自然が歴史へと変化せざるを得なくなるのです。そこには相対化され、完全性を失って分裂や相剋にさらされる不安定な世界が出現します。これが歴史の意味になります。根源はもはやそのままでは現れえないし認識されない。それが根源、理念としての自然が歴史化されるということです。人間の世界は歴史化が進むにつれて、無垢な根源、無垢な自然の世界からどんどん遠ざかってゆく。歴史は根源からの「隔たり」に他なりません。言い換えれば、そうした隔たりによって生み出される根源の衰退、根源の力の凋落が歴史の意味だということです。したがって被造物の世界、つまり人間の世界の側から見れば、歴史とは根源を認識する力、根源からのメッセージを捉える力が失われる過程を意味します。トラウアーシュピールにおける主人公の脆弱さはその現われであるとベンヤミンは考えるのです。しかしひとつだけ根源を回復する希望の手立てが残されています。それは、廃墟と化した自然を根源の寓意的記号(暗号)としてのアレゴリーへと読み換えること、そしてアレゴリーのうちにかすかに残されている根源からのメッセージをキャッチすることです。
ベンヤミンの歴史哲学は、現代の問題と何の関係ないように見えるかもしれません。しかし今見てきたような歴史化の過程は、マルクス主義的に言えば「物象化」、あるいは「疎外」の進行プロセスを意味します。ベンヤミンは、疎外や物象化という概念で表され得るような支配連関の生成を、歴史における根源からの隔たり、あるいはその隔たりによって生じる根源を読み解き認識する力の衰退として、『ドイツ悲劇の根源』の中でとらえようとしました。そしてアレゴリー概念によってそこからの救済と解放の可能性をも構想したのです。彼は後に、一九世紀資本主義社会のトポスとしてのパリを文字通り暗号解読しようとする試みである『パサージュ論』に取り組みますが、この『パサージュ論』は『ドイツ悲劇の根源』でバロック時代について論じたことを一九世紀のブルジョア社会を対象にして行おうとしているのだと同時期の書簡の中でいっています。『ドイツ悲劇の根源』がたんなるドイツ・バロック悲劇の歴史的な研究ではなかったことは明らかだと思います。
一九三三年一月ナチスが政権を掌握しナチズムの時代が始まります。ユダヤ系ドイツ人でありすでにマルクス主義に接近していたベンヤミンがナチスの迫害と弾圧の対象にならざるをえなかったことはいうまでもありません、ベンヤミンは最終的にパリへと亡命します。パリへ亡命したのは、ライフワーク『パサージュ論』を完成させるためでした。
しかし『パサージュ論』は未完に終り、膨大な草稿だけが残されます。この草稿は一九八二年にようやく出版され、ベンヤミン解釈史の大きな転機となりました。われわれも八八年頃から翻訳に取り掛かり、ようやく九五~九六年にかけて公刊にこぎつけました。今は岩波現代文庫に入っています。お読みいただければ幸いです。原書で約一四〇〇ページの草稿のうち半分以上がさまざまな資料からの抜き書きになっています。ベンヤミンはパリのフランス国立図書館へ毎日通って様々な資料からカードに抜き書きし、それぞれを項目ごとに分類してゆきました。『パサージュ論』は引用の万華鏡みたいな世界です。この引用の万華鏡によって彼は何を描こうとしたのか。それは、一九世紀近代の首都パリを通して見えてくる一九世紀の根源の歴史の見取り図です。『パサージュ論』の中に無数に引用されているさまざまなテクストの断片は、『ドイツ悲劇の根源』にそくして言えば、廃墟としての歴史に散乱しているアレゴリーに他なりません。そのアレゴリーの交差(彼はそれを「夢と現実の弁証法」と言っています)の中から、一九世紀の根源史を浮かび上がらせる試み、つまり資本主義の支配の下で出現した廃墟としての商品世界から根源、理念をもう一度救い出そうとする試みが『パサージュ論』だったのです。
この『パサージュ論』の概要としてまとめられたのが『パリ―19世紀の首都』です。この中でベンヤミンは、根源とは「階級なき社会である」と端的に定義しています。階級なき社会こそが『パサージュ論』の中において読み解かれるべき一九世紀ブルジョア社会の根源の歴史の核心なのです。この根源の歴史の解読の舞台になるのが、一八三〇年代のパサージュ・ド・ロペラの誕生から始まるパサージュ(屋根つきのアーケード商店街)の歴史でした。それは消費資本主義の最初の舞台です。パサージュはいわば商品の殿堂なのです。『パサージュ論』は、さまざまな夢や欲望の徴しを帯びた断片、暗号の集積である商品の世界に向けて密かに発せられた、階級なき社会という一九世紀社会の根源史からのメッセージをアレゴリー的に読み解こうとする試みでした。その意味では、『パサージュ論』は第二の『ドイツ悲劇の根源』といってよいと思います。この『パサージュ論』を完成させるためにベンヤミンはあえてパリにとどまり続け亡命のチャンスを逸します。
ベンヤミンの亡命に関してもう一点触れておきたいのは、亡命期のベンヤミンにとって大きな支えになったのがフランクフルト社会研究所だったことです。フランクフルト学派という言葉は、この研究所のメンバー、あるいはベンヤミンのようにその周辺にいた人々を指しています。マックス・ホルクハイマーとテオドーア・W・アドルノを中心とするこの研究所は、一九三〇年代にホルクハイマーが所長になってから、批判的マルクス主義の立場(批判理論)に基づく資本主義社会とその文化の批判的考察を目ざしました。メンバーのほとんどがユダヤ系ドイツ人のマルクス主義者であった研究所は、ナチスの政権掌握後、いち早くアメリカへ亡命しそこで活動を続けます。一九二〇年代の早い時期からのベンヤミンの友人アドルノ(ベンヤミンより一一歳若い)はベンヤミンから強い思想的影響を受けました。アドルノの教授資格論文『キルケゴール論』にはそれがよく現れています。アドルノはホルクハイマーとともに、研究所の紀要への寄稿の要請や『パサージュ論』の実現のための援助といったかたちでベンヤミンを支援をします。ベンヤミンのためにアメリカへの入国ビザを取ったのも彼らでした。しかしベンヤミンはフランスの出国ビザを持っていませんでした。ナチスの傀儡というべきフランスのヴィシー政権はユダヤ人に対してナチスと同様の対応を取りつつありました。出国ビザを持たないベンヤミンは、ゲシュタポに引き渡される危険性が高くなったためスペインからポルトガル経由でアメリカへと出国しようとします。しかしピレネー山脈の地中海側のふもとのフランスとスペインの国境の町ポル・ボウでスペインの国境警察に拘束されついに自殺に追い込まれます。
『歴史哲学テーゼ』(歴史の概念について)
一九四〇年にベンヤミンが自殺をしたとき、ベンヤミンは大きな黒いカバンを持っていました。この黒いカバンに残されていた草稿が、一九四三年、当時ニューヨークにあったフランクフルト社会研究所に届けられます。それがいわゆる『歴史哲学テーゼ』(正式なタイトルは『歴史の概念について』)と呼ばれるベンヤミンの遺稿です。文字通りのベンヤミンの絶筆です。『歴史哲学テーゼ』は一八の断章からなっていますが、いくつかをここで紹介してみます。
<テーゼ二>哀悼的想起による過去の救済
【…幸福のイメージには解放のイメージが固く結び付いている。歴史の対象とされる過去のイメージについても事情は同じだ。過去という本にはひそかな索引が付されていて、この索引は、過去の解放を指示している。…】
歴史はこの世界をどんどん過去へと引きさらってゆきます。引きさらわれた過去は現在と無関係なものとして消えてゆきます。ようするに忘却されてゆくわけです。
ベンヤミンの歴史哲学は、認識論的な性格を持つと同時に倫理的な性格も持っています。『歴史哲学テーゼ』はその倫理的側面に関わっています。その核にあるのは、忘却に委ねられている過去をもう一度救い出さねばならないという当為です。忘却される過去を最も本質的な意味で象徴しているのは死者であり歴史の敗者です。勝者は記憶を独占します。死者や敗者は、敗北によって記憶から排除されたまま過去へと追いやられ忘却のかなたへと消滅してゆきます。歴史をアレゴリー的に読み解き、根源からメッセージを受けとめることは、何よりも死者、敗者を救い出すこと、それによって根源の再生を図ることを意味しました。これが彼にとっての大切な倫理となります。
ベンヤミンの重要な概念である「アイゲデンケン」(私は「哀悼的想起」と訳しています)の核心は「悼む」ことです。忘却のかなたへと追いやれた死者、敗者、忘却され歴史から消えてゆく過去を悼むこと、それが救いの始まりになります。ここでベンヤミンが強調しているのは、われわれの幸福が、忘却へと追いやられてしまった死者たちとのかすかではあっても、確実に存在するつながり、それを通じた応答に根ざすということです。この幸福は、根源としての階級なき社会が実現され、それによって世界が不正から解放されることを意味します。裏返していえば、根源としての階級なき社会へとわれわれが向かうためには、忘却された過去、あるいはそこに属する死者たちとのつながりをはっきりと自覚し、失われた過去をもう一度取り戻さねばならないということです。そしてそれは死者たちに対する哀悼的想起を通して行われるのです。
<テーゼ三>最終的に実現されるべきは階級なき社会
【…人類は解放されて初めてその過去を完全な形で手に握ることができる。…その日こそ、まさに最終審判の日である】
最終審判というイメージは、新プラトン主義やヘルメス文書やユダヤ神秘思想と関連しつつ、一六、一七世紀のヨーロッパの民衆レベルのメシア信仰や終末論と結びついてゆきます。トーマス・ミュンツァーや再洗礼派のミュンスター千年王国運動などを想い起こしてください。ドイツ農民戦争を支えていたのもドイツ民衆のメシアニズムに根ざす情念であり、終末論的心情でした。キリスト教にはカイロス(最後の時)という概念があります。歴史がそこで終り根本的なターニングポイントがもたらされる瞬間を意味します。カイロスによって新しい歴史が始まるのです。こうした発想はじつはマルクスにもあります。革命によって歴史の前史が終わり真の歴史が始まるという発想です。そこにはマルクスの革命論の持つメシアニズム的、終末論的な傾向が現れています。ちなみにこうしたマルクス思想の側面を最初に見出したのがベンヤミンの友人だった『ユートピアの精神』の著者エルンスト・ブロッホでした。このような意味での革命が成就するとき、ベンヤミン風に言えば解放と救済が成就するときですが、このときすべての過去が引用可能になります。つまり過去が甦りふたたび認識可能となるのです。それは朽ち果てた自然のうちに潜在するあらゆる可能性が解放されることも意味します。つまり自然の真の生産力が解放されるのです。このあたりはスピノザからマルクスへとつながる自然思想とベンヤミンとの共通性を感じさせます。
<テーゼ四>かすかなメッセージを感知すること
【…階級闘争とは…粗笨な物質的なものをめぐっての闘争である。とはいえ、階級闘争の中にも繊細な精神的なものは登場する…。のみならず、それらのものの影響力は、さかのぼってはるかな過去の時代にまで及ぶ。…過去はひそやかな向日性によって、今歴史の空に昇ろうとしている太陽の方へ身を向けようと努めている。あらゆる変化のうちで最も目立たないこの変化に歴史的唯物論者は対応できなければならない】
物質的なものをめぐる階級闘争の本質とは、忘却へと追いやられていった過去の側から発信されるメッセージをちゃんと受けとめることであり、だからこそ忘却を強いられている側の発信するかすかなメッセージをわれわれ歴史的唯物論者、つまりマルクス主義者は確実にキャッチしなければならない、そのためにわれわれはアンテナをつねに研ぎ澄ませていなければいけないとベンヤミンはいっています。エルンスト・ブロッホは『この時代の遺産』の中で、左翼がナチズムに敗北したのは、民衆の内部のメシアニズム的な要素、終末論的な要素を組み込むことができなかったからだといっています。粗笨なマルクス主義者は進歩や科学的認識を強調するあまり、民衆の中に残っている、時代遅れな、言い換えればオカルティックで非合理的なかたちでしか現れ得ないメシアニズム的情念や終末論的心情を軽視してきました。これが左翼のナチズムに対する敗北の要因だったとブロッホはいいます。マルクス主義こそがメシアニズムや終末論を、あるいは新プラトン主義やヘルメティスムに結びついてゆく、一見する非合理的にしか見えない要素を、解放と救済の核心として、つまりは革命の核心として取り込んでゆかねばならないのです。それこそが本当の意味におけるマルクス主義的姿勢であり、階級闘争の本質であるとブロッホはいおうとしているのだと思います。ベンヤミンもまたこうした姿勢を共有していました。ではそのときに救済と解放というのは何によって可能になるのか。過去がもう一度すべての可能性を伴う形でもう一回われわれによみがえってくるのは何によって可能になるのかという問題が、ベンヤミンの歴史哲学と革命の倫理をつなぐ最も重要な環ということになります。それが次の二つのテーゼで展開されています。
<テーゼ五>過去は一回限りのイメージである
【過去の真のイメージは、ちらりとしか現れない。一回限りさっとひらめくイメージとしてしか過去はとらえられない。…過去の一回限りのイメージや、そのイメージを向けられた相手が現在であることを現在が自覚しない限り、現在の一瞬一瞬に消失しかねない…】
過去を救済し解放を実現するためには、アンテナを研ぎ澄まして過去から発信されるメッセージを正しくキャッチすることが必要です。だが過去からのメッセージは、さっと一瞬ひらめくように一回限りしかやってきません。なぜならば「歴史とは常に勝利者のものである」(テーゼ七)からです。「一瞬ひらめく」という言い方は、それが一瞬しか現れないという意味と同時に、現在の側が極度に鋭く過去に対する認識のアンテナを研ぎ澄ませていない限り、勝者の声高な声をぬって届けられる忘却された過去の声を聴き取ることは出来ないということも意味しています。そういう感受性、認識能力を持つことが歴史的唯物論者、マルクス主義者には要求されているのです。
<テーゼ六>介入によって過去を救いだす
【…歴史的唯物論の問題は、危機の瞬間に思い掛けず歴史の死体の前に現れてくる過去のイメージをとらえることだ。危機は現に伝統の正体を、伝統の受け手たちをも脅かしている。両者にとって危機は、同一のものであり、それは支配階級の道具となりかねない危機である。…メシアは単に解放者として来るのではない。彼はアンティ・クリストの征服者として来るのだ。…敵は依然として勝ち続けているのだ】
私はこの第六テーゼが『歴史哲学テーゼ』の最も中心的な内容を示していると考えています。前章で「アンテナを研ぎ澄ます」といいましたが、それは過去へと介入するということを意味します。この現在の、「今」の介入によってはじめ過去が救済されるのです。過去はじつはたいへん危ういものです。ドイツ農民戦争において農民たちの武装蜂起を突き動かしていたメシアニズム的、終末論的要素は、同時にいつでも敵の、つまり勝者である支配権力の武器にもなり得ます。ナチスがそれを証明しています。まさにブロッホの言うように、メシアニズムや終末論にまつわる情念や心情を、革命の側が取り込み組織化するのか、それとも敵の側に奪われてしまうのかが問われるのです。そういった問題を一笑に付した正統派マルクス主義者たちは、それによって手痛いしっぺ返しを食らったわけです。メシアニズムの情念や終末論的心情を取り込み権力の獲得に成功したのはナチスの側、つまり敵の側だったからです。そうだとすれば、われわれは敵の側からもう一度メシアニズムや終末論の持つ革命的な力をこちら側に奪い返さなければいけない。
ベンヤミンの中で救済をもたらす天使のイメージは大変重要な意味を持っています。ところで敵としての悪魔は天使の堕落した姿、堕天使です。だから天使と悪魔はじつは表裏一体です。つまり悪魔としてのアンティ・クリストは天使であると同時に悪魔でもあるのです。したがってメシアは天使と悪魔の両義性を帯びています。メシア、救世主は敵にも味方にもなり得るのです。
そして最後にあるように敵はまだ勝ち続けています。逆にいえばわれわれは依然として負け続けているのです。この文章がベンヤミンの自殺するその瞬間にも彼の脇に置かれていたことを想い起こしてください。彼はまさに今敗北の極みとしての死に直面しているのです。すべての希望は失われたように見えます。だがメシアが両義的である以上どこかでどんでん返しが起きないとも限らない。最後のどんでん返し、敗者の側のどんでん返しが起こり得る可能性が、歴史の中には絶えずひそんでいるということをわれわれは知らなければならないのです。そうした文脈を踏まえてこのテーゼを読んでゆくとき、このテーゼからベンヤミンの全生涯を貫くもっとも根源的な思想的モティーフを読み取ることが出来るはずです。
<テーゼ九>進歩の風に運ばれる天使の前に廃墟の山
【「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それには一人の天使が描かれており、天使は、彼が凝視している何者かから今にも遠ざかろうとしているところのように見える。彼の目は大きく見開かれて、口は開き、翼は広げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。彼は顔を過去に向けている。僕らであれば、事件の連鎖を眺めるところに、彼はただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは休みなく廃虚の上に廃虚を積み重ねて、それを彼の鼻先へ突き付けてくるのだ。多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風が彼の翼にはらまれているばかりか、その風の勢いが激しいので、彼はもう翼を閉じることができない。強風は天使を彼が背中を向けている未来の方へ不可抗的に運んでいく。その一方で、彼の眼前の廃虚の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶものは、(この)強風なのだ】
この詩的イメージに富んだ断章は、ある意味ベンヤミンの思想の総決算といってよいと思います。ここではもう救済すらもが断念されているように見える。天使は地上にとどまることができないまま、進歩の強風に乗せられて未来へと遠ざかってゆく。天使が遠ざかるにつれて、われわれの地上の世界、被造物の世界には廃虚が積み上がってゆく。歴史の進歩の中で被造物がどんどん根源から隔てられてゆくのです、それとともにこの地上世界は全面的な廃虚と化してゆくのだとベンヤミンはいっています。われわれは廃虚が積み重なっていくこの地上世界に取り残される他ありません。ではそこにはほんとうにもう救いの余地は残されていないのか。そうではないはずです。この本の中にも書きましたが、最後に残されているのはやはり人間の認識の力だろうと思います。それを通して、われわれは何度も断たれそうになるか細いメシア的なものとのつながり、つまりは根源との、救済と解放とのつながりを繰り返し歴史のただ中で掘り起こしていかなければいけない。そうしたかたちでたえず過去に介入してゆかなければならない。そういうメッセージをベンヤミンはわれわれに残してくれたんだと思います。それはブロッホの主著『希望の原理』をもじっていえば、ベンヤミンの「希望の倫理」といえるかもしれません。
初出:二〇一〇年三月二〇日現代史研究会での講演を採録。『情況』7月号から転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study307:100622〕
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