60年安保50周年記念 60年安保「壮大なゼロ」と、日米同盟論の虚妄
- 2010年 6月 23日
- 評論・紹介・意見
- アメリカ帝国史学生運動日米同盟特集:安保50周年蔵田計成
1.主観的願望にも等しい民主党政権
菅内閣の登場は、第2幕のはじまりというよりも、仕切り直しというに等しい。「メディア支持率!」の回復にも示されているように、「一票一揆」は出直しとなった。だが、先の世界金融資本主義崩壊にはじまった自民党政治の崩壊、小鳩政権登場と崩壊などの一連の事態は、「成功した暴動」とはほど遠いことはいうまでもない。その意味はで、それは主観的願望に過ぎないだろう。菅内閣の登場は、半世紀以上にわたる過去を総決算するための「歴史の清算」に向けた第1歩になるという予測は、鳩山内閣の迷走と崩壊が示すように、暗示的である。その崩壊は「政治とカネ」の浄化を求める「メディアデモクラシー」が後押しをしたにすぎない。あの「戦後55年体制」「戦後デモクラシー」の延長線上で起きたという、歴史限定的ワクをはみ出すものではない。それに、なによりも、事態の深刻さは「真の主体」の側の不在性にある。
明らかに民主党政権の登場は、国会議席数と首相官邸の主(あるじ)が入れ替り、新しい行政大臣が霞ヶ関に「落下傘降下」した、といっても過言ではない。世界一の財政赤字、実体経済構造の劣化、医療・雇用システムの崩壊、中央官僚権力構造(司法・警察・教育)の反動化、シンクタンク・メディア支配構造など、保守55年体制を支えてきた統治機構・形態は、いまもほころびつつあるにもかかわらず、網の目を張りめぐらせたままである。それが「友愛政治」を挫折させた元凶でもある。この先、たとえ「琉球処分の本を読んでいる」(菅直人)としても、普天間・沖縄・本土基地問題、抑止力・日米同盟論廃絶・止揚、アジア外交関係構築へと至る道のりは、はるか彼方にある。
2.変革への政治的課題は山積している
旧秩序にかえて新秩序を実現するという大衆運動の不在のまま、メディア主導型ポピュリズム「メディア型デモクラシー」の擬制が先行し、政変劇を加速させている。その低迷した政治の底流には、第2次保守イデオロギーの再編も進行し、偏狭な民族排外主義、軍事大国論などのアナクロニズムさえも徘徊している。
いま問われている喫緊の政治課題はいうまでもない。労学市民による大衆的昂揚のうねりをつくり出すことである。大衆運動を直接媒介にしない限り、政治の場における変革をはじめとした、真の社会変革は夢物語に終わる。沖縄民衆の闘争は、かつての「島ぐるみ闘争」の様相を示している。84%の県民が日米安保に「ノー」を示している、という。日米同盟論、基地経済依存主義、繁栄の虚構の矛盾が、いまにして露呈したのである。「自治権の主張」「独立」「対米直談判」まで突きすすもうとしている。この事実は「本土の沖縄闘争」「日米反安保闘争」の不在に対して、琉球民衆が示した無言の不信である。本土における自足的な運動の積み上げという旧来型の運動陣形を否定するつもりはないが、明らかに「本土の沖縄闘争=反基地闘争」をふくめた「第4次安保闘争」(50年安保締結、60年安保、70年安保・沖縄)の創出が問われている。
それを実現するには、過去から背負ってきた「負の遺産」の総決算が必要である。歴史観、革命論、運動論、運動作法などの見直しを経ることなくして、どん尻まで行き着いた不信感の大衆的信頼の回復はあり得ない。運動の再構築も不可能である。
そのためには、どこまで過去の歴史にさかのぼることが必要だろう。
少なくとも、第2次大戦後10年目に迎えて登場した、あの「戦後55年体制」の確立期までさかのぼることが必要である。その55年体制にはじまる政治構造は、半世紀におよんで延命を続けており、現在にもつながっている。この明白な歴史の事実をふまえることはきわめて重要である。最低限そこまで歴史をさかのぼることが必要である。そして、如何なる「虚妄」を演じてきたかという歴史認識が、ひとつの分岐となる。
3.55年体制=日米同盟の本質
55年体制といわれた歴史の幕開けは、わずか半年間の劇的な出来事であった。偶然的な政治的出来事のように演じられたが、すべては、歴史の必然でもあった。保守合同による自民党結成、左右社会党合同、共産党「6全協」(議会主義政党化)、戦闘的産別労働運動都の訣別→「物取り型」組合主義=総評の登場として、一挙に戦後政治史は劇的変貌をとげた。この出来事は戦後10年目に迎えた戦後デモクラシー(実はアメリカデモクラシー)を象徴する歴史的事象であった。
同時に、「戦後55年体制」の確立こそは、憲法9条の非戦平和主義と日米同盟=安保体制という相即的な二重基準構造(立前と本音)が本格的に始動した年でもあった。その背景には、「55年度版経済白書」があった。「戦後は終わった」とうたいあげた「戦後時代の終了宣言」である。
日本の戦後経済構造は、大きな転換をとげた。1949年中国革命翌年の50年朝鮮戦争において、米軍に基地=兵站を提供した。その「悪しき縁」ともいえる戦争特需があり、なりふり構わない「金儲け」にわき返ったのである。
このように、日本資本主義経済は戦後経済の混乱から抜け出した。いわゆる「国家独占資本主義」確立期の到来であった。この経済的再生を背景にしてはじめて、戦後政治は大きな政策転換をとげた。日米単独講和・日米安保条約を軸にした反共軍事同盟という独自の政治的、経済的、社会的仕組みを構築した。
安保条約締結(1951年)から10年後の改訂に向けて、新たな政策準備過程にはいった。政府自民党は二つの目標をかかげた。日米対等の政治的関係を求めた日米安保条約改定(占領下片務協定→双務協定)と、憲法改訂である。(後者の野望は、60年安保闘争の2年後に始動するが、やがて失速する)。
これを迎え撃つ側は、砂川基地反対闘争、勤評反対闘争、警職法改悪阻止闘争を展開した。この闘争では、日教祖への「勤評」をのぞいて、左翼は政治的に勝利した。その闘争過程において新左翼は創成された。共産党の議会主義平和革命路線を否定し、「真の前衛党」建設をめざした。それが共産主義者同盟(ブント))、革命的共産主義者同盟(革共同)であった。
4.60年安保闘争の概型
いま、60年安保闘争50周年の節目を迎えるにあたって、安保全学連が主導した闘争を、自らの視点から振り返るとしても、決して無駄ではないだろう。戦後史を再検証する際の重要な検証対象の一つである。
果たして「60年安保闘争とは何であったか」、その歴史命題を、いま進行している現代史と重ね合わせたとき、そこには、等身大の記憶がよみがえるだけではない。現在直面している政治的諸課題、その克服の方向性までも、鮮明にうきぼりになってくる。まず、簡単な歴史経過を振り返る前に、諸党派の政治的立脚点、闘争への係わり方をみておこう。
① ブントの政治綱領は「プロレタリア独裁」「マルクス・レーニン主義復権」(トロツキズム受容)、大衆闘争を直接媒介にした「真の前衛党建設」「日本帝国主義復活阻止」「安保改定粉砕」「岸内閣打倒」であった。ブントが指導した全学連は「反帝実力闘争」「学生運動先駆性論 (捨て石運動論) 」であった。なお、ブントの立脚点は、「反スタ・マルクス主義」ではない。個人的解釈にも巾があるとはいえ、広義には「スターリン主義反対」であったが、厳密には「非スターリン主義」「非スタ・マルクス・レーニン主義」と理解していた。革共同黒田派の「帝国主義打倒、スターリン主義打倒(反帝反スタ)」には距離をおいた。
② 革共同多数派(他称・関西派)は、トロツキーが創設した国際組織「第4インター」「過渡的綱領」に同調した。学生運動路線においては、「労学提携論」から演繹した「炭労国有化支援全学連ゼネスト路線」を主張し、ブントの「安保闘争路線」と対立した。この両者の「経済主義」「政治主義」の対立は、ひとつの組織上の分岐点であった。ブント結成=革共同全学連登場4ヶ月後には、革共同(関西派)は、ブント全学連主流派から排除されることになり、学生グループは学生組織「社学同左翼反対派」を結成した。政治的実践過程においても、ブントの急進的学生運動路線(学生運動先駆性論)との対立を深めた。一部革共同(太田派)は、トロツキズム全面支持、ソ連=堕落した労働者国家・無条件擁護、第4インター日本支部、社会党加入戦術論であった。
③ 革共同全国委(通称・探究・黒田派)は「反帝反スタ論」であった。その特徴をブント流に表現すれば「サークル主義的建党組織論」「同心円的拡大論」「党のための党組織論」「永遠の今論」にあるような「党の絶対化」にあった。ブント全学連に対する運動路線上の批判は、「ブントの小ブル急進主義反対」という戦術批判であった。全学連主流派の1年余にわたるデモには参加したが、逮捕者1名(羽田)の例外を除いて、その起訴名簿には名を連ねていないと記憶する。
④ 全学連反主流派(共産党系・党内反主流=構改派)は、帝国主義分析においては「国家独占資本主義論」であり、反米路線とは距離をおいた。党中央の「日本従属論」「反米・民族独立」「民族民主革命路線」に対しては批判的で、「反日帝路線」にちかい立場であった。その闘争戦術は「議会主義平和革命論」「お焼香デモ」の列にいたが、「学生の左翼的感情によって欲求不満は高じていた」(井汲多可志・早大)。ただし、基本的には国民会議の路線を受入れつつ、60年4月闘争段階までは、学生大会の決議に基づいて全学連主流派の集会にも参加していた。また、党中央の路線におとなしく従ったわけではなかった。正確にいえば「党中央学対部長は、あれこれと戦術方針を指示しなかった。都自連(のち全自連)が独自に決めていた。全学連の統一と団結を主張した地方学連(大阪府学連等)は、全自連結成にも反対した」(女屋栄一・法政大)という。
⑤ 社会党・総評は「非戦・反戦・不戦・9条護憲論」「非武装中立論」「議会主義平和路線」であった。
以上のように、諸党派の政治的立場は異なっていた。
付記しなければいけないことは、1年余に及ぶ60年安保闘争におけるきわめて特徴的な事象である。ブント安保全学連の戦術に対して、マスコミ、社共両党はもちろん、革共同両派も、執拗かつ熱心に「極左戦術主義批判」を展開したことである。安保全学連の闘争は、この圧倒的な戦術批判と孤絶に耐え抜いた闘争であった。にもかかわらず安保全学連が自己を貫徹することができたのは、先進的民衆の期待感、表出することのない。民衆の共感にあったことは確かである。あの闘争最終局面がなによりも雄弁である。
5.不幸な主役
安保闘争は1959年春からはじまった。その前半は、「安保は重い」が口癖であった。ところが、その口癖は、闘争の大衆的高揚を秩序のワクにはめ込むための口実に過ぎなかったことは間違いない。その論拠は、いまみたように、誰もが予期しなかったとはいえ、最終局面において、爆発的な潜在的大衆エネルギーが解き放たれたからである。
① 59年11/27国会構内3万人抗議集会実現は、国民会議と警備当局の「ウラ取引」のスキをついた最初の予期しない「成功」であった。だが、それはひとつの「偶然性」を伴っていた。民衆の意志を体現した全学連と、戦闘的労働者部隊は「事前の密議」をこらし、全員請願の実現を確認した。安保改定阻止国民会議のアジテーションも「全員で請願しよう。われわれは国民の代表者である」(浅沼稲次郎ラッパ、と称した)という檄を飛ばした。全学連指導部の方針ははじめから「国会突入」であった。やがて全員請願は実現し、3万人のデモ隊は国会構内抗議集会の成功に酔いしれた。この歴史的事実のウラにはエピソード的貢献話しもある。国会正門のカンヌキを内側から開けてデモ隊を導入したという数グループがのちに、名乗りでている(由井格・中大)。低い土手から国会構内に入りこむことは容易であり、複数の人たちが「3万人の国会集団陳情団」を招じ入れたという「偶然」も事実である。また、共産党中央機関紙『アカハタ』は、メディア顔負けの「トロツキストの挑発」を批判したが、全学連反主流派の拠点校では、機関紙の配布取りやめを申し合わせた。(その同じ日、全学連ブント東大駒場細胞は自治会正副委員長選挙の「投票用紙すり替え工作(俗称ボリシェヴィキ選挙)」を決行。その自責は内攻し、人生をもかえた者もいる。京大自治会でもそれに類した事態があったというが、当事者には未確認)
② 60年1/16羽田空港ロビー占拠闘争の成功は、目的意識的に追求された闘争とはいえ、この闘争もひとつの「偶然性」が介在した。「岸渡米団が出発予定を早めた」という情報をいちはやくキャッチしたからである。そのために羽田空港閉鎖直前に「乗客」としてロビーに入り込むことに成功し、闘争の「幸運」をもたらした。食堂を主戦場にして立てこもり、ロビーは野次馬の安全な見物席と思い込んで、数名の「パクラレーター」を決めていた。やがて、2本の橋が閉鎖され「全員が首実検」されてしまうという想定外のおまけがついた。約700名のデモ隊の中には北海道学連105名の現地動員組がいた。一行は旅費を工面する厄介から自由であった。反主流派(東大教養=日共党員)メンバーも大会決議にしたがって参加・逮捕された。その他、空港閉鎖後の周縁部では、夜を徹して闘った労学・労働者地方上京代表団約3000人が、「全員羽田現地抗議行動」を信じておしかけ、警官隊と夜を徹して衝突をくり返した。さらに、全学連反主流派早大デモ隊は、予定通り、翌日早朝の一番電車で京浜蒲田から首相岸の車列が通過する多摩川土手をめざしたが遭遇戦は不発だった。当日、国民会議幹事会(総評=日共主導)は、羽田動員を二転三転させて、最後には日比谷野音で、飛行機が飛び立った後、正午過ぎから「岸渡米抗議集会」でお茶を濁した。全学連200名が「羽田闘争報告」求めたが拒否され、1万人集会も流会になった。このような。全学連の一連の闘争は、大きな成果をもたらした。日本共産党地区委員会細胞や組合細胞が、「ブント結集」を総会決議した。リベラル「文化人声明」も登場した。おまけに、外国メディアを通じて「赤いカミナリ族」の存在が全世界に知れわたった。
③ 60年4/26国会正門前バリケード突破闘争は、ブントは「総力戦」と位置付けた。全学連7000人(ブント系労働者も3けた参加)が警備阻止車輌5~6台縦列を飛び越えるという闘争方針であった。たが、多くのデモ隊は飛び越えないで、空振りにちかい闘争に終わった。その主な要因のひとつは、国会正門前集会の時点でも、戦後デモクラシー原則が生きていた、という逆説的事実にある。何が逆説か。大衆団体という全学連組織の方針の下に統一と団結を守る、という多数決原理による参加校がいた。「全学連国会前集会には参加するが、バリケード突破はしない」(東大駒場他)と決議した、全学連反主流派系(日共系)自治会がいたからである。そのために集会は成功しても、バリケード突破闘争は不成功という皮肉な事態が生じた。結局、この闘争の「不発」によって、ブント政治局は解体した。
④ 5月以降は、学連書記局(全学連・都学連合同書記局、筆者も闘争全過程所属)が代行した。書記局会議が確認した5月闘争方針・展望は以下のようなものであった。「安保改定粉砕闘争は、5月20日頃の衆議院強行採決、その1ヶ月後の自然成立で政治的には終局を迎える。だとすれば、強行採決の時点で安保闘争は敗北し、闘争は終息へ向うはず。その運動の見通しを前提した最善の選択肢は、国民会議路線に不即不離、闘争終了後の自治会ヘゲモニー争奪戦に不利な条件を排除する」。これは闘争最終局面にのぞむ「穏健な国民会議路線」への転換であった。ところが、現実に進行した事態は予想外であった。5/19警官導入→衆議員強行採決→議会民主主義破壊と暴挙、に対する民衆の怒りは日々高まった。そうしたなかで、全学連主流・反主流派5/20(1万人),同5/26(1万人)は展開された。その闘争過程で学連書記局メンバーは、6/1までには全員逮捕され、電話番すらいなくなった。上京組をふくめた第2指導部、首都圏大学細胞指導部が追撃戦を引き継いだ。
⑤ 6/4国民会議=総評、労・商ゼネストは整然と闘いぬかれた。また、全学連反主流派の6/10羽田空港3000人ハガティー抗議・ヘリコプター脱出という二つの闘争が展開された。後者の全学連反主流派の羽田闘争戦術が検討されたのは、その前日であった。全学連反主流派の一部が教育大自治会室に集まった。「ゲリラ的というよりも、三々五々、弁天橋に行こうという程度の闘争であった」(女屋栄一)という。同じ、全学連反主流派の早大グループは参加しなかった。「反国家独占資本主義論の立場から、反米闘争に消極的で、党中央に対して『すねた』のである」(井汲多可志)。だが、その日の抗議行動も「幸運」を呼び込んだ。抗議団は弁天橋をわたり空港敷地にたどり着いた。そこにはすでに多くの労働者も集まっていた。その群衆のかたまりの中にハガティーを乗せた車列が突っ込んできた。だが、車が立ち往生するという事態以上の混乱は生じなかった。突破することをあきらめてヘリで脱出した。起訴22名中、学生は4名で、あとは主に日本鋼管労組員であった。あの全学連主流派の1/16羽田闘争成功への反主流派のトラウマという説も耳にしたが、一部の当事者はその説を否定していることも、付記しておく。
⑥ 全学連主流派にとって残された道はもはや「国会突入」しかなかった。全学連主流派は、決意通り6/15国会突入闘争を打抜いた。民衆の耳目を反米闘争路線から反帝闘争へと引き戻し、国会突入闘争を実力闘争として闘いぬくほかはないとばかり、最終的に「都細代」(都学生細胞代表者会議)で申し合わせた。その闘いは学生運動の主導権を取り戻すという決意の闘いであった。明らかに、この6/15国会突入闘争(樺美智子の死)は、あの「ハガティー羽田闘争」成功に対するトラウマであったことは、ブント活動家内では半ば通説になっている。また、この激闘は6/18「国会包囲33万人デモ」へと民衆のエネルギーを引きだし、最後には民衆自らが行動するという空前の大衆闘争となった。そのこと自体に意味があったといえる。
⑦ 全学連現場指導部は、ふくれあがった33万人に対して、明確な方針を提示できなかった。展望・戦略をもっていなかった。例えば、「自衛隊がでてくる」「これ以上の流血は避けたい」という論理で自重をアジテーションした。裏付けのない「裏取引説」もあるが、より妥当な表現を用いれば「6/15国会突入」によって60年安保闘争を自己完結させたというべきだろう。当時の防衛庁長官赤城宗徳は「警備専門の警察がダメだという任務を、自衛隊の鉄砲やバズーカ砲で守ることはできない」(お孫さんから直接聞いたという筆者の友人談)であった。左翼総体も、それ以上に無方針、無策、無展望であったことはいうまでもない。
⑧ 歴史上の成果としては岸打倒である。岸内閣を退陣に追い込み、戦前の原罪を背負った政治的人脈を、政治の表舞台から退場させたこと。大統領アイク来日を中止させたこと。池田内閣をして「高度成長・軽武装」という迂回路線を余儀なくさせたこと。憲法9条改憲路線もゆらいだが、自民党が断念したわけではなかった。
6.神話化さられた6/15闘争
疑いもなく、6/15闘争は己の存在を賭けた決意の闘争であった。過去半世紀の歴史過程において半ば「神話化」されてきたとはいえ、その神話には、それなりの根拠もあった。その闘争が70年安保・全共闘時代の闘争とは異質とはいえ、時代の先端に位置していたことは確かである。
6/15闘争は、3つの時間的経過のなかで展開された。その突入闘争にのぞむ当事者の心象も各自各様であった。
① 国会突入闘争を決意して南通用門に到達するまでの心情。
② 南通用門を破壊して国会構内に突入し、やがて、機動隊の警棒によってたたき出されるまでの闘争の決意性。
③ 「女子学生が殺された」という事実を知って、再突入・構内抗議集会の実現をめざした激情と気迫は、それぞれ違っていた。とくに、2度目の突入闘争では、数千人の殺気が機動隊を圧倒し、たじろがせる場面さえあった。
その歴史を振り返るとき、心情に個人差があるのは当然である。例えば、ある東大生は、友人の1年生に、その日の朝、話したという。「今日は本気だ。全学連は国会に突入するはず。怪我や逮捕が恐かったら、全自連に行ったほうがいい」(小塚直正・東大駒場)。それは後日いわれるように「死」を覚悟していたという神話のたぐいではない。身の上に、何が起きても後悔しないという程度の決意であった。また、東大駒場全学連主流派支持の学生の間では、「突入する」という戦術が広範に知られていた。でも、あの激闘の幕切れは惨めであった。
「安保は負けたという意識は、改定を阻止できなかったこともあるが、『その場から逃げた』こともある。6月15日の夜、放水と警官隊の棍棒に襲われたのは、南通用門から流れて、国会正門前に最後に座り込んでいたときであった。みんな逃げた。吉本隆明氏も逃げて警視庁に逃げ込んだというのは有名な話だが、学生もバラバラに逃げた。『一緒に逃げてください』という見知らぬ女子学生にしがみつかれ、彼女の腕を引いて、三宅坂から半蔵門へと走った。国会前の坂の途中で警棒を振り上げた警官隊に追い抜かれたが、なぜか襲われなかった。とにかく私は逃げた。覚悟の闘いといいながら、襲い来る警官に刃向かう勇気もなく、19歳の私はひたすら逃げた。後の敗北感、挫折感というのは、安保を阻止できなかったこと、というより警官の暴力に抵抗できなかったことに対する敗北感であったかも知れない。行く前は張り切っていたが、実際は一目散に逃げたという惨めな結果であった」(同)。
実際、6/15闘争の現場では、突入をめざすデモ隊とそれを阻止する警官隊の双方の体圧によって、「足元が地上から浮き上がるような状態が10分~20分、いや30分以上も続いたかも知れない。その時間は体圧による『死』を覚悟した瞬間であった」(柴崎捷明・早大)。
きっと、樺美智子も同じような意識を感じたにちがいない。気を失って、気がついたら病院のベッドであった仲間たちもいた。その絶望的奇跡から生還した者たちが、いまだに、当時を自己開示できないでいる、としても決して不思議ではない。
なお、全学連反主流派は「女学生の死」という第一報を聞いて警視庁前で「緊急都自代」を開いた。ところが、多くの新規加入自治会の反対によって否決された。個人として闘争現場に引き返すことにした。(女屋栄一)
このようなエピソードが物語っているように、孤絶のなかの「ブント主義=新左翼主義」という党派イデオロギー性は、いまから考えても想像以上の決意性を必然の前提としていた。だが、その決意性が「死を覚悟した」と語るとすれば、当事者性を欠くことになる。
確かに、強大な権力に立ち向かうには、正当な理念、思想、自己の存在を賭けるに足りる決意性を「当為」(まさになすべきこと)とした。後世の新左翼運動が歴史として受け継いでいったものもこの「当為性」であった。革命的敗北主義(レーニンの革命的祖国敗北主義ではない)、英雄主義、献身、自己犠牲という情念を内包した「新左翼主義」(革命的ロマン主義)ともいえる。
ところが、60年安保闘争の全過程において「当為」において展開された主要な闘争は、先にみたように、例外なく、その内に「歴史の偶然性」ともいえるような副次的要因を内包していた。もちろん、偶然性というものは、目的意識性を前提にしてはじめて、これを呼び込むことができる。とはいえ、のちに神話化された「捨て石運動論」にはじまる、67年「10/8羽田闘争(山崎博昭の死)」から本格化した「街頭武装闘争」「赤軍派結成」「前段階武装蜂起」「よど号ハイジャック闘争」「首相官邸武装占拠」「銃による殲滅戦」などの突出した闘争戦術は、60年安保闘争当時の決意性や、当事者性をふくんだ、その厳密な総括と偶然性を排除して成立した論理であったことは、疑いの余地がない。神話化と伝説化のもつ非限定性の功罪もここにある。
7.「壮大なゼロ論」と戦後デモクラシーの虚妄
60年安保闘争は、議会制民主主義、戦後デモクラシーを全面開花させ、それを再確認した闘争であった、という歴史の事実認識を、決して否定することはできないだろう。そのなかで一輪の「ハスの花」が咲いていた。それは60年安保闘争直後に「壮大なゼロ」(誰が言いだしたかは不明)意識が残ったという歴史事実である。とくに、1年間にわたる孤絶に耐えぬいた「首都圏ブント・社学同系活動家」の意識(厳密にいえば、60年入学の新入生の意識とは区別すべきだろう)の底流には、闘争に対する勝利感や達成感はみじんもなかった。むしろ、勝利感の対極に闘争の結末を位置付けていた。それは、60年安保闘争を「壮大なゼロ」として、なかば自嘲をこめ、揶揄した政治意識であった。その意識は必ずしも敗北感ではない。
一方では、「産湯とともに、赤子を流すな」と総括し、「革命の通達派(革通派)」の結成に対抗して「プロレタリア通信派(プロ通派)」を結成した姫岡玲治の言い分でもあった。つまり「ゼロではない」という論理につながるような「壮大なゼロ」意識であった。
他方、革通派の主張は「6/18再突入を提起できなかったブントの日和見主義」(東大細胞意見書、執筆当事者は公表をためらった)という総括であった。
明らかに同盟内分派闘争の口火を切った「東大意見書」の総括と、「壮大なゼロ」意識とは重畳していた。総じていえることは、「反帝・実力闘争」を掲げ、「反米民族闘争」を厳しく批判し続けてきた、ブント、とくに首都圏学生ブント・社学同活動家にとっては、60年安保闘争を「勝利」とする総括は、おおよそ自分たちとは無縁というのが実感であった。
例えば、6/18という自然成立直前の夜であった。午後3時頃までは、「地下から人がわき出る」と思われるほどの大群衆の波が、国会議事堂に押し寄せた。だが、夜になると四囲は暗闇に包まれた。その暗闇の路上で、なす術もなくうずくまったまま、自然成立のカウントダウンを迎えることになった。国会議事堂周辺の明かりはすべて消えていた。学生たちはつぶやいた。「午後10時頃だった。せめて社会党、共産党の控え室くらいは、明かりが灯っていてもいいだろうに!」(坂野潤治)。そのときこみ上げた無念さが、そのままその後の「挫折感」につながったことはいうまでもない。
安保闘争後の、その「壮大なゼロ」論という問題意識の根底には、実は、いまにして思えば現在生起している政治事象につながる重要な含意があった。この意識は、60年安保闘争の質が示した歴史上の限界性に対する示唆的な問題提起でもあった。戦後日本階級闘争においては、「戦後デモクラシー」というよりも、「ブルジョアデモクラシー」一般に対する「懐疑性」を、「プロレタリアデモクラシー」として対置、内在させていた。にもかかわらず、ほとんどの正統派マルクス主義は「戦後・アメリカデモクラシー」に対する本質的な歴史把握を欠いていた。そのために、反共産主義論と正面から対峙して、アメリカ覇権主義批判を全面展開し、実践することができなかった。この負の論理構造は、60年安保闘争のスローガンに「本土・沖縄軍事基地」を欠落させた論理にも通底している。もう少し論を進めよう。
8.打ち立てた金字塔の意味
先にみたように、60年安保闘争のマグマというヤマが動きはじめたのは、そのわずか1ヶ月前、5/19の強行採決であった。その後、全学連反主流派の6/10ハガティー來日阻止羽田闘争=反米民族闘争に触発された全学連主流派6/15国会突入闘争が導火線になって、あの「33万人国会包囲デモ」が実現し、民衆のマグマが爆発した。岸内閣は打倒され、大統領アイゼンハワーの來日も中止させた。ただし、岸内閣=改憲内閣とはとらえていなかった。実際、憲法公聴会は62年に登場した。
60年安保闘争において、歴史の金字塔を打ち立てたのが、全学連主流派の闘争であったことは、自他共に認める「公史」である。この闘争の政治的帰結を「勝利」とみるか、「敗北」とみるか、「いずれでもない」とするか、その問題は別な範疇なのでいまは論じない。ここであらためて提起したいことは、そのような歴史的な大衆闘争を実現させた政治的・社会的要因が「議会制民主主義」「戦後デモクラシー」「アメリカデモクラシー」への拝跪という、その一点における事実認識である。
別ないい方をすれば、すでに確認済みだが60年安保闘争は「世界を震撼させた市民革命」とはいえないまでも、民衆が決起した直接行動によって政治権力を退陣に追い込んだ民衆反乱という意味で、画期的な闘争であった。ところが、すでにみたようにその民衆の達成感の対極には、別な問題意識が伏在していた。それは全学連主流派ブント・社学同活動家の政治意識であった。全学連主流派首都圏活動家は、「真の前衛党建設」を遠望した「日本帝国主義打倒」という革命の質を志向しながらも、自分たちが「夢想」した闘争の質とはほど遠いものであった、という政治意識を抱いた。
その視点から、一つの問題点を指摘することは十分に可能である。
実際に、あの市民主義的運動の高揚観は、遠い過去の暗黒史を枕詞にしながらも、本質的には自国・自己が演じた過去の覇権主義と、その戦争責任論を捨象することによって、自らの過去史を切断したという、歴史の非連続性を演じたてきたのである。いわば、それは1945年をスタートラインにした過去切断型「戦後デモクラシー」の延長線上にあった。そのために、多くの首都圏ブント・社学同系活動家たちの結論は、結果として「戦後デモクラシー」に対して合理性を与えてしまったこと。この政治意識から引き出した結論は、「戦後デモクラシー幻想」への後押しをし、「壮大なゼロ」を演じた、という特殊命題であった。しかも「ブルジョアデモクラシー」を自ら否定しておきながら、結果的には「戦後デモクラシー」の本質を分厚いオブラードに包み込んで、ともども水先案内人役を引き受けた、と考えた。このように、歴史の不条理を演じたという自意識と論理を加味したとき、60年安保闘争は限りなく「壮大なゼロ」に近かったいという結論も否定しがたい。
ところが、歴史はどこまでも皮肉を演じる。「身に寸鉄を帯びない」激闘も、「ポツダム自治会」という戦後民主主義が保証した「クラス討論」「クラス委員会」「学生大会」という形式的手続きをへて実現した闘争であった。この形式民主主義の舞台上で演じた闘争の虚妄さには、気付くすべもなかった。すでに、その出発点において自己撞着という相即的矛盾を内包していたという事実も付記しておかなければいけない。
9.首都圏ブント活動家の敗北感と地方学連の達成感という落差
安保ブントが「プロレタリア革命論」「先進国革命論」の立場から、打倒対象を「安保改定粉砕」による「自国帝国主義復活阻止」を直線志向したことは、マルクス・レーニン主義の公理からすれば、半ば必然であった。しかし、「戦後デモクラシー」「資本主義デモクラシー」という近代市民主義に対置した新左翼・ブントの革命論は、たんなる「社会主義デモクラシー(真の前衛党)」に過ぎなかった。反米闘争路線に対しても、これを民族主義=反植民地解放闘争路線として、消極・否定する立場から、無視・断罪さえした。そのために「アメリカデモクラシー」の本質に対しては「免疫不全」に陥った。なお、この点は、後にふれるマルクス主義の根本問題にもかかわる。
さらに、この「壮大なゼロ」論は尾を引いた。闘争高揚の裏側にある不可視領域ともいえる影の部分が、ブント内分派闘争の誘発要因になり、しかも、学生細胞内分派闘争のワクに自らを押し込めたのである。そればかりではない。ブント内分派闘争は初発の段階では、特殊首都圏版であり、二重の意味で限定的な場所的空間にとどまった、という不毛な結果にも通じる。
このことは確かな事実である。地方学連においては首都圏とは逆な現象を呈していた。主流派地方学連は、6/15闘争を最大の成功とうけとうけとめた。ブント崩壊の事実に直面しても、「闘争は、これからだ!」(同志社大・佐藤浩一)という闘争意識の昂揚と勝利感があった。むしろ運動の結果に対する深い挫折感はなかった、というべきかも知れない。この点では全学連反主流派の「安保反対闘争」も同じ認識であった。「高揚した闘争は続く。急に消えるとは想像もしなかった」(井汲多可志)という高揚感であった。
地方のブント学生活動家にとって、首都圏で展開されている学生細胞内の分派闘争は不毛に思えた。何事が、何故起きたのかさえ理解不能であった。学生細胞内 (東大駒場、早大、明治、女子美等)の密室オルグという水面下の出来事は、何の前触れもなく起きた、クーデター的性格の出来事であり、当事者以外は知る由もないし、表に出ることもなかった。しかも、革命論と重ね合わせた首都圏ブント学生活動家が共有した「壮大なゼロ」意識ははじめから、通常の一般的理解の範囲を超えていた。このようなあらゆる不毛性に対する違和感が、やがて登場するマル学同への全地方的規模における移行を容易にした。その事実の必然性も、ほとんど総括されないままに、ブント全学連は空洞化した巨木が倒壊するように、歴史の舞台から突如消え去ることになった。
10.60年安保闘争とは何か、ひとつの結末
以下の数字は政治的、社会的、歴史的帰結ともいえるひとつの「収支決算」である。闘争の直後に行われた11月総選挙の結果は「自民296、社会145,民社17、共産3」であった。この数字は、55年体制=日米安保体制という、新しい日米同盟の再出発点を意味する。明らかに、現在につながる不条理な歴史のひとつの始点であった。論証は抜きに、問題点と結論を提起しておく。
① 「革通派」結成という特殊実践例もそのたぐいである。先のような「ブント=姫岡国家独占資本主義論(自己金融論)の日和見主義が6/18国会再突入を妨げた元凶」とばかり、新たな帝国主義分析(第2帝国主義論)の必要性に活路を求めたことに特徴的である。いずれの諸党派、諸潮流といえども例外ではなかった。過去の綱領・路線論争の枠組を踏襲し、有効な総括を引きだすことがなく、新たな左翼展開のスタート点にした。
② ブントは闘争に明け暮れており、イデオロギー的な掘りさげができなかった。党の綱領路線を理論的、思想的、戦略的に深めることもできなかった。例えば、学連書記局細胞内の綱領討論・学習は、1年以上にわたる闘争の全過程を通じて、1度も行わなかった。実践的成果の大きさとは逆比例して、イデオロギー的思考不能に陥り、サークル集団黒田派の理論的蓄積との乖離をひろげた。そのような事態のなかで、ブント3分解(または4分解)というあの「ビッグバン」は起きた。その後は、首都圏では60年に入学した多くの社学同活動家だけが、ブントの「実践的遺産」(理論的ゼロ遺産)にくわえて、「反マル学同」という2つの遺産を継いで、次なる政治課題に向けて疾駆しようとした。
③ その結果、マル学同が一挙に政治的実践の世界におどり出るという「暗転」を演じた。終始一貫、安保闘争の「全過程」を通じて、一握りの思弁的サークル集団であり、政治的試練をいっさいくぐることはなかった。にもかかわらず、「安後世代」の学生運動の主役を演じるという「暗転」をもたらした。マル学同=早大支部結成は59/12月(11/27闘争直後)。第1回マル学同都総会は60/4月(5月闘争直前)。第1回マル学同拡大全国大会は、実に、61/5月(安保闘争1年後)であった。
④ 結果的とはいえ、ブント主義敗北の空隙を埋めるという「たなばた」を手に入れたのが、革共同黒田派であった。半ば「教義化された黒田主義」「思想的カリスマ性」への分流が、反日共系新左翼総体にみる日本型の否定的特化現象をもたらしたといえる。それは大きな負の転回点でもあった。さらに、安保闘争総括の過程で、共産党は細分化した。社青同学生班協議会も、その年の暮れにレーニン主義にはローザ主義を対置して登場した。このように、共産党系、中国毛派系、社会党系、ブント系、革共同系など、5流18派への細分化現象は、日本的新左翼特有の現象であり、「宇宙放射」であった。
⑤ 日本の左翼は、すでにみたようにアメリカ帝国主義=資本主義デモクラシーを「等号」で結び、それに対する厳密な歴史考察を欠いてしまった。そのために55年体制=日米安保同盟という条約形態は、半世紀を超える希有な世界史的協定の見本にされるという、ギネスブック的例外を記録することになった。
⑥ その淵源をたどれば、マルクス主義「先進国革命論」「植民地論」「民族論」の欠落。共産党が「植民地従属論」「反米民族民主革命論」に立ちながらも、結局は戦後デモクラシーの呪縛によるアメリカ覇権主義に対する本質的把握の欠落。社会党型平和護憲運動が日米軍事同盟論にまでは切り込む回路をもたなかったことなどの、新旧左翼の問題点をうきぼりにした。
⑦ 1948年全学連結成、1956年再建全学連「8中委9大会路線」(平和と民主主義、よりよき生活のために)にまでさかのぼるべきだろう。この伝統的な「平和と民主主義論」を支えてきた戦後デモクラシー論は、「アメリカデモクラシー」とも同義に等しかった。そのために、新左翼自体も先にみたように「戦後デモクラシー」の二重性に対しては、解析不全症候群に陥っていた。先進国革命論の立場からこれを否定し、反米色を薄めてしまった。これは、琉球反基地・反植民地闘争を、60年安保闘争の埒外においた論理的要因でもある。
11.安保闘争の政治的収支決算
あの60年安保闘争直後の総選挙の「成果」をひっさげて、大胆にも「所得倍増論」を掲げた成長論のエース池田内閣が登場した。「安後時代」に再始動したこの55年体制=日米同盟(安保体制)は、池田内閣の所得倍増路線によって、その有力な物質的根拠を与えられた。倍増するにはGDP成長率毎年8.5 %=6.5年間で可能である。池田内閣は「奇跡」を演じた。名目11%を超えるGDP平均成長率によって、10年を待たずに「所得倍増」をなし遂げるという公約に対して、左翼は批判し、無関心でさえあった。だが、この「高度成長路線」は、池田勇人の「大言壮語」ではなかったのである。「社民型平和主義路線」「日共型議会主義平和革命路線」「新左翼危機論型世界革命論」「日韓階級決戦論」をふくめて、いずれも次元を異にして無力であり、論理的にも、物質的にも、左翼総倒れであった。先進国革命路線は、55年体制=日米同盟論が掲げる「日米反共国益論」「民族益同盟論」を越えることはできなかった。
結局は、あの「壮大なゼロ論」の結末は「高度成長」「大衆消費社会」「総中流意識「市民主義」へという雪崩現象となった。さらに、この60年代所得倍増・高度成長は、一部既成左翼をふくめた戦後デモクラシーという多数派市民の政治理念を担保してくれた。(補足すれば、その蓄積された冨は、70年代田中内閣の「列島改造」というバラマキ政治とオイルショックを経て浪費され、90年代世界金融資本主義崩壊へとつながり、グローバリゼーションの実態を露呈した)
12.アメリカデモクラシーの虚実
以上みたように、安保ブントをはじめとした戦後左翼は、アメリカ帝国主義の野望、日米反共軍事同盟の本質、「安保体制」(共産党は体制打破論であったが)の政治的意図・本質に対しては、致命的な見落としをしてしまった。
アメリカ帝国主義の真意はいうまでもない。アメリカ帝国の外征史は、入植、独立=建国、西部開拓という内征史を終えて、「フロンティア(最前線)終了宣言」(インディアン掃討終結宣言)から始まった。その外征史は果てしなく続き、現在にまで至っている。過去の日米関係史において、双方の覇道が最初に直接衝突したのは真珠湾先制攻撃であった。イギリスをはじめとした西欧の覇道も、その延長線上において相互に展開され、やがて後発帝国主義は敗北した。
その戦争の戦勝国アメリカ占領軍の目的は、日本列島の「不沈空母化」であり、アジア版「西征フロンティア」であり、ハワイ、フィリピン、グアムに次ぐ「琉球植民基地化」であったことはいうまでもない。その統治手段として、日本を51番目の「準州」にして直接統治するか、天皇制を温存して立憲君主制のもとで「間接統治」「傀儡政権」をつくるか、という二者択一であった。
その後も、日本はアメリカの強欲に対して「みかじめ料」を過払いしてきた。あの過去27年間の「思いやり予算」(1978年~2005年・単純累計)基地負担総額、20兆4000億円(内訳直接支払額6兆5600億円、自治体交付金13兆9000億円)は、「みかじめ料」としては高価に過ぎた。43万人都市年間予算の154年分に相当する。
日米安保体制という「反共の遺産」の中味は、「抑止力」「侵攻フロンティア」「反共拠点」「島嶼防衛の前線基地」であり、沖縄がその最前線基地というのが、日米政府の相互認識であった。だが、厳密にいえば、1951年の日米単独講和にはじまり、それ以後においても、そのような相互認識は、いわば「明白なる仮象」であり続けた。にもかかわらず、あたかも抑止力を実体化して描きあげ、相互に利害を共有し、軍事兵站部を担い、資本市場であり続けた。
だが、その裏には「日米同盟」という神話がつくられていた。この利害神話は政治的欺瞞、経済的野望をとりつくろうための論理であった。「核の傘=軍事大国」「経済大国」「単一統治イデオロギー」は3重の施錠であった。これらの呪縛によって自存を保証するという論理的倒錯を演じたのであった。
明らかに、それが行き着く先は、21世紀「新型ファッシズム」(グローバリゼーション)への帰結である。そのような頑迷を信じこませる役割と仕組みを代行するのが、代議制民主主義という近代国民国家論、それをささえる形式的多数決原理、官僚機構、メディア型ピュリズム形態による支配戦略である。これが総体的な市場経済主義を原理とした「国益共同幻想」ともいえる「国家統治論」の仕組みをなしている。
わきみちにそれるが、小選挙区制が「民意を反映する」という理屈の偽りについて、少しふれておきたい。例えば、05年の小泉郵政選挙においては「与党得票率=49%」、「野党得票率=51%」であったにもかかわらず、小泉与党は議席の2/3以上を獲得した。05年度イギリス下院総選挙においても同様であった。ブレア労働党は「得票率35%」で、過半数を30議席も上回った。このような「35%の多数市民型代議制」が、中世以来のイギリス型選挙制度である。
この「イギリス議会制民主主義」による統治形態は、いまや「壊れた政治」(元イギリス政府官僚トップ・ターンブル、毎日新聞10年4/17)になったという。日本が「イギリスをまねてはいけない」とも助言する。明らかに、イギリス型、アメリカ型を問わず、二大政党制という資本主義デモクラシーの制度的欺瞞は突出している。「戦後55年体制」も、このたぐいの多数市民による多数支配という統治形態をとりながら、その「非合理性」にもかかわらず、正当な玉座にすわり続けてきた。
時代の変化が示す如上の事実は、たんに敗戦を境にして、「ファッシズム支配」から、「デモクラシー支配」という形態において、硬支配から、柔支配へと、その統治関数が原点移動したに過ぎなかった。先にみたように、「アメリカ=白人デモクラシー」「多数市民支配形態」の欺瞞の本質は、戦後日本政治においてもコピーされた。
例えば、公開されたアメリカ外交関係公文書の全分量は、5年間50万ページ(1945年~50年、年間10万ページ)に達する。その資料をもとに書かれた著作のひとつ「豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫」に関する読後感がある。それは「興味と戦慄に値する」(八木健彦)という。その他、「砂川闘争伊達判決」に対する日米談合劇、沖縄返還時「核密約問題」の暴露事件にみるように、日米関係史の節目においても、外交政治の舞台裏において、欺瞞が跳梁跋扈していた。その個別の出来事は10万分の数ページに過ぎないといえるだろう。
民衆自身も裏取引を知らないまま、欺瞞を自演した。「『9条も、安保も』と欲張ったことが言えるのは、本土に住む日本人の身勝手であったことも忘れるべきではないだろう。安保体制を維持するためのコストは、広大な基地という形で沖縄に集中的にしわ寄せされた」(山口二郎『戦後政治の崩壊』岩波新書)。このことは事実である。その意味において、「戦後デモクラシー」は形骸化された擬制であり、空洞現象というに等しかった。
13.戦後の過払い、積み残された課題
われわれにとっての戦後史とは何であったか。日本の「防衛」「戸締まり論」という「表の論理」(建前論)は、51%の多数市民(否、ブレア票35%)の支配的多数市民の個欲を充足させ、そのような理屈と巧言(レトリック)を受容させ、論理的整合性をあたえるための、小道具として用いられたに過ぎない。
新憲法は、はじめから戦勝国主導の協定であり、アメリカが建国以来この方、破るために結んできた数百(対インディアン条約は300以上)もの条約の一つに過ぎなかった。憲法9条は額縁にはめ込まれた「建前」に過ぎない。「建前」(9条)と「本音」(安保)を使い分けて、実質的には軍事的兵站基地にするというアメリカ式二重性の伝統を移植しただけである。おまけに、日本もイデオロギー的価値観、経済的利害、反共国益主義を共有した。この、個欲、民族益、国益を保証するシステムが「55年体制=日米同盟」であった。
14.欲得の決算書、価値観の喪失
「日米安保体制が、戦後日本の復興を可能にした」という日米同盟信奉者に対して、果たして、その欲得の収支決算たるや如何に、といいたい。「日米安保=軍事同盟が、高度成長を支えた」というからには、その神話にも、有形無形の代価と理屈はあるだろう。そうだとすれば、時代を越えて質量ともに異世代に遺贈することがでるというならば、その中味を、明示すべきである。果たして、遺贈の中味は何か。「物質的豊かさ」「利便さ」が何をもたらしたのか。歴史の喪失感を捨象したような立論は成立しない。そのような思想は貧し過ぎるのではないか。
これは、ひとつの問題提起である。「戦争と平和の100年」を前史として、「不足と過剰の60年」(猪木武徳『戦後世界経済史』中公新書)のなかで、55年体制=日米同盟は主役を演じた。だが、いまやその「冨の宴」は幕を閉じた。私達は、その宴席のあとに残された酷たらしさから目をそらすべきではないだろう。
その結末が、後にみるような「病めるアメリカ現象」であるが、その日本版は、信じがたいような悲劇的事件の続発である。被害と加害という関係をこえた犠牲、悲惨、荒廃、破壊をもたらす心的土壌を確実に用意した。ある意味では、加害の事実は、被害の事実以上に深刻な意味をもつはずである。にもかかわらず、メディアはその事件の本質的な意味について触れようともしない。
自殺3万人以上(1日約90人以上)、無縁死・孤独死も3万人以上(そのうち身元不明1000人、NHK)、派遣労働=不況・雇用の安全弁、少子高齢化、里山の荒廃、原発の核汚染、地球温暖化等々。日本人の1/6.3人が「貧困」と闘い、世界の1/6.6人が「飢え」に苦しんでいる。このような地球上の「富の偏在」「暗黒構造」が現代金融資本主義の実態であり、その主要な一端を支えたのが55年体制=日米安保であった。
比喩的にいえば、「衣食足りて、礼節を知る」(春秋時代・管子)の本義は別として、高度成長という個欲を競い、貪欲に生きてきた結末は、「衣食足りて、礼節を失った」社会である。そこには「自由」もあった。その傍には「札束」もぶら下がっていた。「貧困からの自由」も用意されていたわけである。人々は「貧困を分かち合う」というつましさを捨てた。「貧困の平等観」の喪失だけではない。「冨の平等観」「豊かさの意味」までも投げ捨てた。祖国を追われた「難民」が、命を預ける場所を提供することさえも拒否しているのである。
「冨を分捕る」という欲望をふくらませた背景には何があるか。「自己責任論」「平等化の進展は、自由の浸食を生む」(トクヴィル)という19世紀的発想の現代版であった。その論理の歴史的帰結が「新自由主義(ネオリベ)」である。競争原理、市場原理を社会全体の統治原理とした「新保守主義」(ネオコン)」の極限化された価値観である。小泉・竹中・ホリエモンがそれを政治的社会的に体現した。その結末が、個と個の関係の切断、家族諸関係の解体、共同体的諸関係を切り裂くような社会的劣化・崩壊であった。いま必要な価値観は、傲慢・強欲・断定的な一般理念の反省から導き出される演繹的価値観ではない。過去の特殊な教訓から取りだして構築すべき帰納的価値観の定立である。
では、何故それが必要か。その回答のヒントは、次ぎに引用する、アメリカの実像を浮彫りにするであろう「3点セット」にある。
15.「ウソつきアメリカ人」、崩壊した市場主義価値観と自壊を深める帝国
以下の引用は。現代アメリカ社会の断層を示す、ワシントン支局員のコラム「ウソつきアメリカ人」である。
「パパはイラク戦争で死にました」という作り話を書いて、ある少女はコンテストに優勝した。だが、そのウソはすぐにばれた。「戦死者名簿に記載されていない」からである。「作文」を手伝った母親は「戦争に勝つためには何でもしようと思った」と、テレビで言い訳をしたという。コラムは続く、
「米国は人口の8割がキリスト教徒。ウソは聖書の十戒の一つのはずなのに、何とも軽々とウソをつく。…06年、カリフォルニアの研究所が高校生3万6000人を調査したところ、42%が『成功するため、時にはウソやだましも必要』と答えた。過去1年間で82%が親にウソをつき、60%がカンニングし、33%がネットから宿題をコピーしていた――という。大人も負けてはいない。従業員の75%が職場から金品を盗んでいる。管理職の57%が応募者の履歴書に学歴や経歴の詐称を見つけた経験がある。米国市民の2割以上が『脱税は倫理的に問題なし』と思っており、脱税による国庫の損失は年間2500億~3000億ドル(27兆=30兆円)と推定されている。ウソがはびこる理由として、『競争社会で、人を出し抜く必要がある』という説明や『勝者に利益が集中する社会構造が、ズルをしても勝とうとする欲求を生み出す』という分析もある。…欲望は倫理観を上回るのか、身勝手なだけか、ウソつきは絶えない。…米国が衰退する場合、原因のひとつはウソの蔓延ではないか、と思っている」(國枝すみれ「風に吹かれて」毎日新聞09年1/28)
このたぐいのウソは、自分自身の心の内側さえわからないでつくウソとは異質である。この引用文のなかの「脱税」という単語を、「戦争」という単語におきかえて「戦争は倫理的に問題なし」という答えがとび出したとしても、不思議ではない。「病めるアメリカ」と、その「虚構」「欺瞞」の裏側に、アメリカ建国史にみる「二重基準」が、日本のそれと重なる。
アメリカ帝国史には、論理の二重性がみちあふれている。骨の髄まで二重性をまとい、あたかも二重性を存立与件にしているかのようである。確かに、資本というものはその固有の論理に基づいて自己を貫徹する。その二重性は「一つのことの二面性」(香村正雄)として己の相貌を露出するかのごとくである。その実相を析出することの意味、必要性、理由、根拠などを、遠い歴史にさかのぼって取りだすことは有意義だといえるが、それは別に論じるほかない。
結論的ないい方であるが、アメリカ帝国史は、あらゆる意味で、悪しき現代史の元祖、元凶といいたい。このような歴史規定と断定は、決して誇張でも、偏見でもない。再検証するには好個な歴史考察対象でさえある。アメリカ帝国史の内側には、いまみたような社会現象を胚胎しており、帝国の実態のひとつの側面をみせている。そうでありながら、もうひとつたしかな事実がある。それは何か。アメリカ帝国の建国史こそは、二重性を「歴史の動力源」として巨大帝国へと発展をとげた、という事実である。その意味において、過去のアメリカ帝国史の再検証は、当面する政治課題をふくめて、喫緊の課題である。
16.戦争の規模、戦争中毒の数値化
アメリカの実像を知るためには欠かせないことがある。これは「アメリカ帝国史論」の予告編に過ぎないが、以下の数値は、アメリカ合衆国史の実証的な数値ともいえる、過去の「アメリカ対外軍事行動(戦争)」回数である。合衆国初代大統領J・ワシントン就任の10年後(1798年)から、J・ブッシュ時代(2000年)までの「202年間」に、実に、「263回」の対外軍事行動=戦争を行ってきた(『アメリカの対外軍事行動(1798~2000年)』(H・W・Stanley、R・G・Naomi、『アメリカ政治統計必携2001-2002』ワシントンD.C、CQ Press. 2001、引用:古矢旬『アメリカ過去と現在の間』岩波新書)。
この資料によるとアメリカ対外戦争回数は、年間平均「1.3回」のペースである。
さらに、軍事費でみれば、アメリカ商務省統計「アメリカの国防費」(NET)によると、2000年の物価・為替を基準にした1947年~2003年までの、ごく最近の56年間の国防費累計は「1845兆ドル」である。円に換算すれば、支出総額=「18京4500兆円(時価為替100円)」である。この金額は、2000年度日本国家予算額で計算すると、実に「21.6年分」に相当する。この軍事費を年平均に換算すると2000年度日本国家予算額の38.5%を「国防=侵略費」に計上し続けたことになる。この数値は「アメリカデモクラシー」の実態を数値化したものといえるだろう。邪悪な意図は、戦争=暴力によってしか、自己を貫徹することができなかった歴史を、その数値が裏付けている。
戦争の原資は域内の労働や奴隷労働がもたらした冨だけではなかった。戦争が、戦争を保証した。その戦争経費の積み上げがはじまったのは、19世紀半ばのアメリカ第2次産業革命期からであった。その後、第1次大戦、第2次大戦までの2世紀半以上にわたる強蓄積によって吸い上げた独占的冨が加算された。ドルを基軸通貨にした資本主義大国アメリカは、その特権に見合う以上の世界の冨、白人帝国の建設(白人の人口増)や旺盛な消費需要を賄うに足りる国内市場を創出した。それを維持するために、域外からの収奪、資本の世界的環流の仕組みをつくりあげた。先の戦争の支出総額は、経済的ドル支配、政治的収奪形態を維持するための必要経費であった。しかも、戦争の収支決算は十分すぎた。実に、あの人類史的背理さえも「神は許したもうた」という自己暗示が、現在にも通じる「アメリカデモクラシー」の原像である。
アメリカ帝国史の世界史的貢献度は無残としかいいようがない。「アメリカ独立戦争」(1775年)をふくめて、アメリカ建国史の検証に際しても、開戦の「大義」「理屈」だけを、開戦時点に限定して切り取ってみれば、その「大義」「理屈」は外形的には合理性があり、合目的的かのように思える。だが、その本音は、例外なくその外形的な「大義」「理屈」のウラにあった。本音は決して主役を演じることはなかった。つねに黒子に徹した。言葉の粉飾を小道具にして、「建前」をたくみに演出するのが最高権力者に求められた資格でさえあった。現在まで44人の大統領のうち、11人が軍人出身であった。いわば、アメリカ合衆国が際限なく繰返してきた戦争史の背後には、戦争というアメリカ帝国の闇が果てしなく広がっている。しかも、その闇は現在に至るまで切れ目がない。歴史の時系列でいえば、「アメリカ独立戦争」(1776年)と、その後に続いたフランス革命(1789年)、ハイチ奴隷反乱(1791年)の過程おいて、アメリカ独立戦争が内包していた「強欲の闇」は隠蔽されただけではない。逆に神話化されていった。アメリカ独立戦争の「闇」は、トーマス・ジェファーソンの自伝が雄弁に物語っている。
「人間とは、まことに都合のいいものである。したいと思うことなら、何にだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできるのだから」(友清理士『アメリカ独立戦争』学研M文庫)というわけである。
いまや、アメリカ型戦争貢献史は、大幅な値引きが必要である。その理由もここにある。貢献度はゼロか、せいぜい1/2に過ぎない、と断言できる。しかも、最大の貢献史のひとつとされる「第2次米英戦争」(1812年)時の、相次ぐ中南米独立はひとつの歴史の大道に過ぎなかった。10年後の「モンロー主義」は、独立戦争に並ぶ「アメリカの大いなる二重性の象徴」であり、負の世界遺産というべきである。いずれにせよ、アメリカ戦争史の事実が示す「戦争の連続性」は重要である。その視点から、アメリカ帝国史を実証的に再検証することは、欠かせない。「反テロ戦争論」の本質をあばく意味からも、きわめて重要である。
17.1980年大統領カーター年頭教書にこめた帝国の野望
3番目の記述も注目に値する。いまから30年前、アメリカ上下両院に提出された大統領カーター年頭教書である。「人権派!?」大統領カーターは、以下のように明言した。それは「東欧社会主義」が劇的に自壊する「10年前」であった。
「ソ連が強大な軍事力をアフガニスタンにたいして行使したことは、世界の平和に対し第2次大戦後もっとも深刻な脅威である」(1980年、カーター年頭教書、引用:武井昭夫『社会主義の危機は人類の危機』スペース伽耶)。
大統領教書がそう語るとき、その主語「ソ連」を「アメリカ」と入れ替えたらどうなるか。その言い換えは、見事なまでに成立する。
「アフガン革命に介入した今回のアメリカの行動は…世界の平和に対する深刻な脅威である」ということになる。まさに、このような言い替えと文脈上の論理が30年を経た現在においても立派に成立する。この歴史的事実は重要である。さらに大統領教書は続く。その言説の意図が正真正銘のアメリカの本音であることは疑いない。アメリカ合衆国は東欧型社会主義崩壊の10年前から中東湾岸、イラクを射程にいれて、アフガニスタン、隣接するイランに対しても、覇権主義的野望をむき出しにしていたわけである。さらに本音が続く。
「世界が平和に過ごせるか、国際規模の紛争に突入するかの決定において、米国とソ連との関係は過去30数年間でもっとも危険な状態にある。…ソ連軍のアフガニスタン侵略によっていま脅かされている地域は、大きな戦略的重要性をもっている。同地域は、世界の輸出可能な石油の三分の二以上を埋蔵している。アフガニスタンを支配しようとするソ連の努力は、インド洋から300マイル以内、ホルムズ海峡の間近までソ連軍を進出させたが、そこは自由世界の大半が通過しなければならない水路なのである。ソ連はいまや、中東石油の自由な移動に対する重大な脅威となる戦略的な位置を固めようと図っている。…ここで米国の立場を疑問の余地がない形で明確にしたい。ペルシャ湾岸地域を支配しようとする外部勢力のいかなる試みも、米国の死活的な利益に対する攻撃とみなされるだろう。そうした試みにたいしてわれわれは、軍事力をふくむ必要な手段を行使して撃退する」(同上)
18.平成維新、左翼素通り現象
21世紀以後に生じた、小泉選挙、民主党政変に示された一連の変革志向への期待感は、いわゆる「革新・新・旧左翼」にまでは届かなかった。この「左翼素通り現象」は、明らかに、変革主体の政治的な質量不足という「左翼の非存在」を立証している。小選挙区制(二大政党論)の「からくり」、「死票の回避」という投票行動、わずか数%の「浮動票」の動向が政治的イニシャティブを発揮するという「メディア型ポピュリズム」を差し引いても、この現実は思い知る他はない。
戦後アメリカ占領軍による対日占領政策は、唯一と言っていいくらい、例外的に破綻しなかった。日本が例外を演じることができた理由は、アメリカの圧倒的な物質力による戦争の勝利もさることながら、思想的、社会的、宗教的、文化的価値意識もふくめた「政治の質」が、忌まわしい過去の「政治の質」に比べて相対的に高かった、という歴史上の落差にあったことは確かである。
しかも、江戸時代から明治維新を通過し、脱亜入欧、5族共和、富国強兵、天皇制ファッシズム時代を経て、敗戦によって「西欧デモクラシー」という幻想世界に一挙に投げ込まれ、「個の解放」という夢幻的な西欧近代化志向を加速させた。いわば、明治維新以来の近代化思想と同じ論理的土壌において、戦後のあだ花を咲かせ、日本人は自らを資本主義=反共イデオロギーのタガにはめてしまった。
ところが、それを左から補強したのがマルクス主義唯物史観であった。その戦後版ともいえる論理的「適応」の極め付きが、「占領軍=解放軍論」規定である。この解放軍規定が描いた図式は、アメリカ占領軍を、アジア的野蛮、ファッシズム的強権支配からの、文明への解放、封建遺制・天皇制ファッシズムからの「解放者」「反ファッシズム統一戦線の盟友」」という論理規定であった。日本共産党は、「唯一前衛党論」のもとで右に左にブレ続けた。冷戦時代、中国革命の勝利(1949年)のあと「反米闘争」へと急反転した。この反転は、もはや「遠雷」というにも等しい退潮期のスローガンであった。それは「左翼民族主義路線」の立場であった。日共版「民族解放民主革命」「先進国革命」も歴史博物館用の空砲であった。保守派の一部が掲げた「反米愛国民族主義」と同列の、「反米独立路線」であり、真の意味での「植民地解放」「反帝国主義」「国際主義」「国際民衆連帯」ではなかった。
この事実は「歴史の流れとしてやむを得なかった」という市民感情も耳にする。だが、そのような論理規定の致命的な誤りと不十分さが、結果として、現在につながる歴史の困難さをもたらしたことは疑いない。この誤りの結末は重要である。
歴史を戦後にさかのぼって考えるならば、天皇の政治責任を免罪した民衆の戦後史は、日本の「戦争加害史の不在」「戦前=戦後史の断絶」に体現されている。「西欧の覇道」を口実にした「アジアへ(琉球、台湾、朝鮮、満州、北方)の覇道」を顧みることもしなかった。自戒、反省、戦争責任糾弾、加害責任、認罪という道義的歴史的責務の片鱗さえ果たすことはなかった。いびつな戦後史の始点も、戦前史の延長線上に厳存した。やがて、55年体制=日米安保同盟として本格化し、現在に至るまで継起している。
19.階級闘争が演じた政治的愚昧
われわれ自身も多くの逆説を演じてきた。新左翼は55年体制下「全世界を獲得するために」として「真の前衛党建設」をめざしたが、正当な歴史認識を獲得することができなかった。新左翼運動がたどり着いた先も、無残にも「内ゲバ事件」「連合赤軍粛清事件」であった。
他者批判・誹謗・中傷を満載したビラ、機関紙・誌があふれた。おまけに、物理的手段の行使=ゲバルトによって自己の正当化をはかるという痛恨を演じてきた。党派闘争、内ゲバ、粛清をふくめて、他者を否定することが、実は「自傷ブーメラン現象」をもたらすという、あたりまえの事象認識さえも欠落させたかのようであった。その果ての結末は「パラダイム論」である。だが、これも旧聞にさえ属する。戦後左翼総体が掲げてきたイデオロギーの転換、価値観の代替とされながら、いまも閉塞情況にかわりはない。
銘記しなければいけないことは、過去の人類史から引きだす教訓的な事理である。歴史における「正義」「真理」とは相対的概念に過ぎないこと。しかも、人類史はその「正義性」「真理性」に関しても、絶対的尺度、価値基準、判断規範を手に入れていないのである。「宗教」「神」といえども、それは模造品であり、代替者に過ぎない。
政治イデオロギーにおいても同様である。その限りにおいて「真実」は相対的である、というべきかも知れない。主観的な「正義」「価値」「合理性」にとどまらず、独善的な「不正義」「不合理」さえもが、独り歩きを許される。悪党が善玉になりすまし、その逆もある。歴史の不条理はこの点にあるといえるだろう。
もうひとつ見過ごすことができないことがある。それは「歴史の公理」ともいうべき問題である。相対的正義や真理は、政治的、社会的実現過程を媒介にしてはじめて物質化され、実体化される。広く受容されてはじめて、真理として生命力を与えられる。日常的諸矛盾も実践的に克服されてはじめて、日常的「正当性」「妥当性」を獲得することができる。マルクス流にいえば、共産主義は観念や理想ではない。「現実の状態を止揚する現実的な運動の謂である」ということになる。だから、保守・革新・左翼政治党派が掲げるイデオロギー的正当性、理論・思想の正義性は、実践的に検証されてはじめて「合理性」を与えられる、という見逃せない側面をもっている。そこにおける合理性は実現過程を媒介にしてはじめて歴史的「正しさ」として自・他において相対化され、真理へ向けて収斂していく。
「独善」「排他」は同義概念であるが、この両者が「歴史への背理」とされる根拠も、相対化の否定という点にある。だから、その理由を根拠にして、過去の絶対王制、封建的君主制という個人の専制、個人の独裁、ドイツファッシズム、天皇制ファッシズム、党独裁、個人独裁、(ブルジョア独裁も含むが)も否定されてきたのである。
不本意にも、左翼政治諸党派に関するかぎり、その関心事は、もっぱら「左翼運動内のヘゲモニー争奪戦」でしかなかった。「綱領」「路線」「スローガン」をめぐる党派イデオロギー論争であり、対立・分裂・分派闘争、党派闘争という相剋史であった。日本における戦後55年体制の下において、既成左翼はそれを補完し、ときには主役も演じた。その否定・打破をめざしたはずの新左翼も、気がついたときには同じ側にいた。
そのために本来の意味において「正しさ」として自らを体現すべき党派イデオロギーは、主観的意図とは逆な事態を演じ、その政治的愚昧は最悪であった。問題点は、あの政治的な「実践手法の不毛」であった。その惨状はいまも続いている。結果的には、国労解体、総評解体など、吹きあれる逆風を加速させてしまい、おびただしい不毛を累積した。問われている課題は明白である。われわれ自身が互いに確認し、行動し、運動の基底にすえ、共有していくべき教訓である。
それは、理論の誤り、哲学の貧困、政治理念の衰退を克服することである。多様な異質性の包摂を阻んだドグマ、その理論的、思想的、現象的誤謬の根因にまでさかのぼって、イデオロギー的に再検証し、運動中枢としての前衛党論をふくめて、「運動作法上の誤り」を実践過程において克服することである。その克服の方向性は、唯一「大同志向」である。実践の場において止揚するしかない。
この実践的止揚なくしては、過ぎた歴史において失った社会的信頼性を回復することはできないだろう。あの宇宙に存在する「ブラックホール」のように、光や時間さえも吸い込むような「運動の求心力」をもった政治イデオロギー、論理的な訴求力、運動理念を保証する思想の深さと豊かさを獲得し、実践的に克服することである。
20.いまこそ「アメリカ帝国史論」
何を再検証すべきかを確認したい。遠くは古代史にまで言及しながら、中世史、近代史、現代史に至るまで、その体系的認識の基底部をなす「資本主義デモクラシー」「西欧中心主義史観」などの再検証である。とくに、アメリカ帝国の発展過程から「歴史の真実」「正義の意味」を検証することは重要である。これは貴重な突破口になる。
多くの人達はいまだに、アメリカ建国の神話を「アメリカ=白人デモクラシー」と信じ込んでいる。その歴史認識も「西洋的発展史観」「単線的発展史観」の同一線上にある。例えば、古代ギリシャ・ローマの奴隷制デモクラシー、中世封建農奴制、イギリス市民革命、フランス革命、近代市民主義、イタリアルネッサンス、欧米議会制民主主義として描いてきた。その歴史過程の果てに、現代史に屹立するアメリカ帝国史がある。
その本質をなす「アメリカデモクラシー」の偽装の事実を見抜くことができなかった歴史責任は偽装した側にあるのではない。アメリカ帝国史の中には、はじめから、そのたぐいの欺瞞は満ち溢れていただけである。アメリカは自らの歴史を演じ続けたに過ぎない。「アメリカデモクラシー」の受手の側が、「野蛮からの解放」という欺瞞的言説を、「文明史的発展」と誤解したに過ぎない。
例えば、「原爆」という野蛮な殺戮手段にみるような、あの血塗られた過去を、容易に帳消しにした。これほどの反人類的破壊手段を生命体の頭上で炸裂させるという「正義」に置換えることができる「不正義」がどこに存在していたというのだろうか。このたぐいの理屈を平然と押し立てるその欺瞞を許すべきではなかった。いわば「たった1枚のチューインガム」をエサに、真顔で稚拙な戦後史的喜劇を演じたのである。人類史の真の「発展」の意味を、物質的価値観に還元させてしまった。何故、アメリカの理屈の欺 瞞と蛮性を見抜く慧眼をもち得なかったのだろうか。
占領政策の野望と本質を見抜くことは重要であった。軍事大国のかさの下における「核抑止論」は、収奪と抑圧を本音としたブルジョア的欺瞞の最たる「死の遺物」であった。同時に、日本型・ドイツ型ファッシズムに対する厳密な基底認識も必要であった。世界の民衆は、野望と覇権を選択すべきではなかった。われわれの世界はどこまでも終始一貫、徹頭徹尾、民衆連帯に向う他はなかった。「世界民衆連帯」「共存型民族主義」「国際主義」「世界革命論」を共有しなければいけなかった。日米関係に関しても同様である。両国の民衆は連帯を共有すべきであった。にもかかわらず、過去において、共有する接点すら持ちえなかった。その罪の深さと自己欺瞞を問い直すべきであった。
戦後史の始点もここにあった。その過程で、歴史の発展と進歩の意味、文明と野蛮の本質、貧困と冨における平等観などを包摂した世界の歴史認識、資本主義、帝国主義の解析を、重要な検証対象にするべきであった。
民族という境界線が厳存している限り、その結果において、憲法9条(1項、2項)を政治理念として高く掲げた国家建設、その国家・民衆・民族的権力と自己存在の延長線上に「自己武装」「抑止力」を再度位置付けなおすべきだろう。
世界は、共に健康で豊かな生活への途を歩むべきである。貧しさをも分かち合うべきである。そのような自己実現のための政治の延長線上において、極東・アジア・世界の民衆に向けて「9条」「25条」を発信すべきである。いま中国では、3億人の若者が政府批判をネット上で発信している。健康で豊かな生活を実現するために、労働争議の先頭に若者が立っている、という。その若者に向けて発信すべきことは何だろうか。豊かな生活は、他人の冨を奪い取ることではないこと。戦争は最大の犯罪であり、政治の延長上において行使すべきではないこと。共に豊かさと貧しさをも共有しようではないか、ということ。このような共通理念の獲得が、思想的抑止力であり、物質的抑止力へと転化する。軍事的抑止力はつくられた虚構なのである。その虚構を否定するような政治の質の実現過程こそが、たんなる理想論ではなくて、現実的な政治課題として意味を付与することができる。非武装平和(中立)論も、そのような政治的な実現過程を媒介にしてはじめて、政治的リアリティーをもつことになる。くだんの世界革命論とも同質の理念となる。これは戦後社民型「護憲運動」に対する総括ともいえるだろう。いま必要なことは、そのような歴史的経過をたどることが出来なかった過去を再論証することである。
21.16世紀:ラス・カサスの糾問。19世紀:マルクス西欧中心主義史観の背罪
ヨーロッパ・イギリス資本主義を批判したマルクス主義唯物史観は、その解釈と適応における教条主義的な受容と実践によって、後世の世界革命運動の混沌(カオス)を加速させた。マルクスは、以下引用するように、アメリカ大陸、アフリカ大陸先住民に対する略奪、殺戮、征服、奴隷狩りを、「資本の原蓄過程」として、重商主義から産業資本主義時代への「曙光」「牧歌的」という事象認識であった。マルクス「資本論」はいう。
「つまり、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである。資本に対応する生産様式の前史をなしている…。資本主義社会の経済的構造は、封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放したのである」(『資本論』全集第23巻b第24章、大月書店65年版)。
別な論理もある。「民族精神や民意をいくら高らかに誇っても、本源的蓄積のためには植民地から収奪を行わなければ何も実現しません。西洋の発展がアメリカ大陸やあジア・アフリカからの収奪を抜きに語れないのと同じように、日本の発展も、19世紀後半からはじまるアジアへの侵略による資本蓄積を抜きにして説明できないのです。…奇しくもこうした問題を突き付けたのは、オリエンタリズム論…ポストコロニアル論…でした。マルクスの唯物論は、これらの問題を議論することなく再生することはありません」(的場昭弘『マルクスだったらこう考える』光文社新書)
ここで開示されている論理の問題点は、過去の歴史解釈に合理性を与える論理的手法というだけではない。これは過去の侵略行為を歴史の弁証法的発展の必然として解釈し、容認することの危険性を内包している。また、侵略という蛮行をひとつのエピソード的な史実として描くという「解釈学」というべきかも知れない。
極論すれば、このマルクスの「唯物史観」「資本蓄積論」は、第2次大戦における日本帝国主義のアジア覇道の犯罪性対する主体的剔出不全を、左から支える個の論理になりかねない。しかも、「ヨーロッパ単線発達史論」「反中華五族共和論」とも近接してくる。
本来ならば、第2次大戦論は、日米両帝国民衆の「個欲」を包摂した「国益」という全体性の一部として位置付け、論じるべきであった。にもかかわらず、中華周縁部への侵攻を黙過して、「曙光」とみなす論理である。
その論理は、あの戦後主体性論争にも影を落とすことになった。封建遺制から近代への過程における加害責任を「主体」「個」の問題に還元して、戦争責任を総括しようとしたのである。リベラリストや、梅本克巳、梯明秀、田中吉六の限界性だけではない。黒田寛一「主体的唯物論」へと帰結し、「自己絶対化」「スターリン主義打倒」「他党派解体」という特殊命題を演繹することになり、新左翼運動の破産を加速させた、といえる。
マルクスの功績は、近代資本主義が生み出す近代プロレタリアートを、その歴史変革の担い手として解明し、プロレタリア革命論を歴史措定した点にある。だが、16世紀からはじまったより直接的な略奪、征服、植民や、17世紀~20世紀にいたるまでの4世紀にわたる先住民、黒人奴隷、植民地における非抑圧民衆の抵抗、反抗、蜂起、戦争、革命論構築の埒外にあったことは事実である。マルクスは、下記にみるように略奪、征服、植民における組織された国家権力の暴力を、「新しい歴史を生み出す助産婦」「経済的な潜在力」であると喝破した。その邪悪な暴力行使に対する反抗、抵抗、戦争、革命という組織された「人民の暴力」は、論考の対象外であった。その意味でマルクスやポストマルクスの革命論は「1/2革命論」というべきかも知れない。
「マニファクチュアー形成に不可欠な諸条件の一つは…アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらのできごとは資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。このような牧歌的な過程が資本の本源的蓄積の主要契機なのである。これに続いて、全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦がはじまる。…一部は、残虐極まる暴力によって行われる。たとえば植民制度がそうである。しかし、どの方法も国家権力、すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して、封建的生産様式から資本主義的生産様式への過程を温室的に促進して過渡期を短縮しようとする。暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜在力なのである」(『資本論』同)
アメリカ帝国の建国の歴史をたどる場合、その本源的蓄積過程(原始的蓄積)とともに、その社会的、政治的、歴史的源流をたどることは重要である。中世のジェノバ、フィレンツェの地中海時代から、スペイン、ポルトガル、オランダへとつながる商業資本・貨幣経済・略奪経済はイギリス綿工業を媒介にした産業革命、産業資本主義へと連動する。その過程において生じた歴史事象は重要な意味をもつ。
以下、2つの引用をあげておきたい。その歴史は16世紀イギリス重商主義時代にまでさかのぼる。1566年といえば、ちょうどイギリス絶対王政終焉の100年前、コロンブスによるアメリカ「上陸」から74年後、また、スペインによるインカ文明滅亡から33年後、さらに、北アメリカ・ニューイングランド植民「メイフラワー号入植」に先立つこと、実に54年以前の事例である。この時期にすでに、ヨーロッパ世界=スペイン・ポルトガルによる中南米やアフリカへの略奪、殺戮、征服が先行的とはいえ本格化していた。
この蛮行に対して、スペインの聖職者「ラス・カサス」は、自己の体験・目撃をもとにして、下記にみるようなスペイン王への「報告」(ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」柴田秀藤訳、岩波文庫)とスペイン枢機会議への8項目の「惜別の覚え書」を遺して他界した。「報告」は残虐ぶりを描き、「覚え書」(遺言)では、中南米大陸の莫大な金銀が、スペイン人によって略奪されたがゆえに、その略奪に対する、アメリカ大陸先住民の手による「戦争」の正当性、盗賊を「抹殺」する権利を訴えたのである。
にもかかわらず、近代ヨーロッパ世界は、その「報告」「覚え書」を歴史の闇に封印して、顧みることもしなかった。しかも、あの資料収集・分析・理論構成の超天才マルクスも含めて、ヨーロッパ世界は「西欧中心の単線史観」「階級闘争史観」に自己を染めあげた。これら一連の歴史への背罪は、マルクス主義の否定というのではなくて、再検証、止揚の対象に値する。「報告」「覚え書」(遺書)は、以下の通りである。
「その残虐ぶりは目にあまるものがあった。キリスト教徒たちは、子どもや老人、妊婦までもその標的にした。手当たり次第に引き裂き身体を切りきざんだ。彼等は、腕を競い合い、それを賭け事として楽しんだ。赤ん坊を岩にたたきつけるものもいたか、と思うと、インディオを焼き網に縛りつけ、下からとろ火で焙り、彼等が苦しさに絶えかねて悲鳴を上げ絶命して果てるまでそれを続けた。他にも同様なことを私は数限りなくみてきた。…キリスト教徒の側はインディオにキリスト教徒が一人殺されるたびに、その当然の報復としてインディオ100人を血祭りにあげることを取り決めたのである」(引用:丸山秀一『インディアンと米国』上、HP)
22.ラス・カサス・8項目「覚え書き」
① 征服は不正きわまりなく、圧政的なものである。
② スペイン人はインディアスのすべての王国を略奪した。
③ エンコミエンダ(引用者註・スペイン型農奴制)は邪悪きわまりなく、それ自体不正であるから、それに基づく統治は圧政的である。
④ エンコミエンダを与えるものは大罪を犯し、それを所有するものは大罪の中にあるので、それを放棄しないかぎり、救霊を得られない。
⑤ 国王は、神によって与えられた権力をもってしても、インディオに対して行った戦争、略奪、そしてエンコミエンダを正当化することはできない。
⑥ スペインに運搬されたり、インディアスとスペイン人の間で売買された金銀、真珠その他の財宝はすべて盗品である。
⑦ 征服もしくはエンコミエンダによってそれらの財宝を盗んだ人々および、その分配に与った人々はそれを返還しないかぎり、救霊を得ることはできない。
⑧ インディオはスペイン人に正当な戦争を仕掛け、地上から彼らを抹殺する権利を持ち、その権利は最後の審判の日まで消滅しない。(出典『ラス・カサス伝』柴田秀藤、岩波書店引用:土井淑平『アメリカ新大陸の掠奪と近代資本主義の誕生』編集工房朔、引用文献833冊の大著)
この引用文にある「スペイン」という固有名詞は、そのまま「ヨーロッパ」「ヨーロッパ資本主義」に代置することができる。その理由は、スペイン・ポルトガルの掠奪財宝を横取りしたのは、他のヨーロッパ諸列強国の「私掠船(公認)」「海賊船(民間)」であり、ヨーロッパ諸国はともに「征服事業」の莫大な利益を公平に分けあった仲間だからである。結果的には、コロンブス期からメイフラワー号上陸までの約130年間にわたって、スペイン・ポルトガルが演じた金銀略奪事業は、ヨーロッパ産業資本主義の本源的蓄積となった。15~6世紀ドイツ鉱山だけではなかった。「あの時代のヨーロッパの金銀は、地から沸いたのではないかと思われるくらい豊富だった」(川上忠雄)という研究者の感嘆もある。金200トン、銀1万6000トンという説(柴崎捷明)もある。すぐその後に続いたのがアメリカ合衆国である。この國もまた別な追加理由によって「抹殺」されるに十分すぎる資格を持っている。この抹殺の論理が「窮民革命論」というなら、革命論自体を再検証すべきである。
23.モンテーニュ「古代共同体」讃歌とマルクス主義史観
もうひとつの引用は、ラス・カサスの22年後である。モンテーニュ(『随想録」』1588年)は、イギリス名誉革命のちょうど100年前である。その「エッセー」のなかでモンテーニュは「あの新インドという世界」(アメリカ大陸)について述べている。このエッセーが書かれた時期は、あのマルク「共産党宣言」(1848年)の260年前であり、あのエンゲルスが評価したモルガン「古代社会」よりも、実に289年以前であることは注目に値する。
「われわれ人間社会があんなに人為も人間的結合剤も用いずに維持されることも想像できなかった。私は、プラトンに言ってやろう。『この国には如何なる種類の取引も、如何なる学問の知識も、数の知識もない。役人という名前もない。政治家という名前もない。奴隷の使用も、貧富の差もない。契約も、相続も、分配もいっさいない。遊んでいる以外には何も仕事がない。親に対する尊敬もすべての親に共通なものしかない。着物も、農業も、金属もない。葡萄酒も、麦もいっさい用いないし、裏切り、偽装、吝嗇、嫉妬、悪口、容赦等を意味する言葉も聞かれたことがない』と。そうすれば、プラトンも、彼の想像した理想国がこの完全さから如何にかけはなれているかを知るであろう」(『世界文学大系9A』筑摩書房)
マルクスは「これまでのいっさいの社会の歴史は、階級闘争の歴史である」として自由と奴隷、貴族と平民、領主と農奴など、搾取階級と被搾取階級という対立概念を措定した。だが、すでにあの壮大なスペイン・ポルトガルによる中南米における130年間の略奪史が重商主義から産業資本主義にいたる過程において厳存していた。にもかかわらず、既述したように、マルクス主義は人類発達史観を「野蛮から文明」へと描きあげた。さらに、産業資本主義の本質的な矛盾を解明することによって、階級闘争史観として先進国資本主義革命論への筋道をつけてしまった。少なくとも、ヨーロッパ産業革命のなかで登場する労働者階級、パリ・コンミューンの経験を含め、メイフラワー号から155年後の北アメリカ独立戦争、それに続くアメリカ産業革命を経て登場する近代労働者階級によるプロレタリア革命論は、原蓄過程の蛮行を捨象して論じたとすれば不毛であった。農民、零細商人、被差別人種、植民地先住民の血みどろの戦争(インディアン戦争、現パレスチナ解放闘争と同質)、ハイチ黒人奴隷解放革命戦争として展開された闘争、略奪・植民・収奪形態の実体と構造分析を抜きにして論じることは虚空であった。
その結果がもたらしたマルクス主義の歴史上の功罪のうち、後者の罪は、資本主義や帝国主義による植民地支配から派生する「本国性」(後述)が内在させるさまざま内部矛盾を、階級対立論として一元化したことである。それを路線化することによる不毛な教条は何をもたらしただろうか。試行錯誤、世界革命運動における世界性、本国階級闘争論、植民地革命戦争論に関する綱領・政治路線の交錯、混迷であった。ソ連論に関してもいえる。プロレタリア革命論→プロレタリア独裁→党独裁→人民不在の党物神崇拝→党官僚制・個人崇拝→個人独裁→体制自壊という急坂を80年間で疾駆した。終局の歴史過程は、すでに、一国社会主義、平和共存への路線転換の時点であり、市場主義価値論への屈服と解体という急坂であった。同時に、この過程は人類史的実験であり、教訓でもあった。これはポストマルクス主義が演じた背理であり、負うべき責任である。
24.帝国主義の本国性と資本主義的個欲
ここでいう「帝国主義の本国性」とは、帝国主義が内包する相即的諸矛盾である。同一階級内、同一階層内、同一職種内、同一地域内等における諸関係における矛盾にみられるような、各種、各様な相即的ともいえる対立をふくむ諸矛盾を、非和解的矛盾としてとらえ返す視点を「本国性」として概念規定したい。この資本主義がかきたてる「個益」「個欲」に根ざす帝国主義の「本国性」の解明なくしては、先進国=資本主義革命論の不十分さ・誤謬を止揚する回路は見出せない。国益・民族益論への対峙論の構築も、危機論型恐慌革命論の再検証も、疎外革命論の再検証も措定不能ではないだろうか。とくに、帝国主義段階における、植民地の民族解放闘争論を包摂し得ない国際共産主義運動、世界革命論、本国階級闘争論は成立しなかった。いまはその代償を支払っている。歴史の結果からみても、戦後階級闘争の過程において、際限なく繰返してきた綱領・政治路線論争の空無は必然であった。だから、ラス・カサスの警告を受容しなかったこと、モンテーニュの感動を共有しながらも、その論理的適用と実践にまでは到らなかったという、中世末期からから近代史に至る過程における理論的、思想的、実践的空白が、ひとつの分岐を示していたといっても過言ではないだろう。アメリカ帝国史の再検証の必要性を提起する論拠のひとつである。(『情況』6月号に加筆・訂正)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion033:100623〕
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