「原子力時代=成長」ではなく「放射能汚染時代=小国化」から歴史を見ると…
- 2011年 11月 2日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原子力原爆武谷三男
2011. 11.1昨日、地球人口は70億人をこえました。1950年に25億人、1999年でも60億人でしたから、21世紀に急速に増えています。中国が13億、インドが12億で、両国で3分の1以上の比率です。日本は現在1億2535万人で各国別第10位ですが、すでに2006年から減少に転じていますから、21世紀の世界の中で、相対的な小国化は避けられません。経済力ではなおGDP世界第3位ですが、生産力の基礎である労働力の減少は、不可避です。このような趨勢は、すでに21世紀に入る時には、はっきりしていました。ですから小渕内閣時の2000年1月、「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書「日本のフロンティアは日本の中にある」は、外国人労働者の積極的受け入れや英語教育の抜本的強化で「グローバリゼーション」に対処すると述べていました。その第3章「安心とうるおいのある生活」には、「科学技術は、本来人間が産み出し、人間が利用し管理するものであるはずなのに、効率・進歩を至上とする一元的な価値観のもとでは、それが自己増殖していき人間が管理しきれないのではないかという不安さえ抱かせている。生命操作、原子力などにその感がある」とも書かれていました。しかしこうした答申の常として、英語版・中国語版・朝鮮語版が今でも首相官邸ホームページに入っている21世紀構想は、時の政権に都合のよい部分がつまみ食いされるだけで、政治の指針にも政策の基礎にもなりませんでした。2001年9・11と2008年リーマンショックで国際環境が大きく変わり、20世紀末に「安全・安心への不安」が一応語られていた「原子力」は、2011年3月11日の東日本大地震・大津波に際して、「自己増殖していき人間が管理しきれない」本性を悪魔的に発現し、福島第一原発の世界史的事故を引きおこし、放射性物質を陸地にも空にも海にも、まき散らしてしまったのです。日本の「小国化」は、人口だけではありません。経済力でも地球環境・生態系との関連でも、どのような社会と国家をつくるのかが、地球全体から改めて問われているのです。
東北地方は、まもなく厳しい冬です。ようやく入居できた仮設住宅には、暖かい毛布もお年寄りも使える暖房も、用意されていなかったようです。震災を直接経験しなかった私たちには、想像力を必要とします。故郷岩手で、大船渡や陸前高田の惨状を見てきましたが、それはあくまで東京に住まいのある旅人としてのもの。たとえばウェブ上の、「日本では放送できない 報道できない 震災の裏側」、Metisの「人間失格」をBGMに流れる映像で、夏の海外滞在中は、その1「風化してはいけない出来事」とその2「忘れてはいけない日」を、ほぼ毎日聞いていました。久しぶりでアクセスしたら、その3「生きる、希望version」も見つかりました。そして、すでに毎日新聞HPからは読めなくなっていますが、7月9日同紙1面トップの福島県南相馬市93歳女性の遺した言葉ーー「またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい」。「平和と民主主義」の重要性を若者に説きながら、政治を変えることのできなかった、政治学者の無力を痛感します。そんな「戦後民主主義」の、フクシマに帰結する原発・原子力エネルギー問題での誤りのルーツを探っていくと、1945年8月ヒロシマ・ナガサキ原爆の受容の仕方の問題にまで、行き着かざるをえませんでした。その中間報告、10月15日の早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会報告「占領下日本の『原子力』イメージーーヒロシマからフクシマへの助走」には、多くの研究者・メディア関係者の方々も出席してくれました。『東京新聞』10月25日「メディア観望」でも、取り上げられました。『朝日新聞』は10月から夕刊で「原発とメディア 『平和利用』への道」を連載しはじめ、NHKは9月に「原発事故への道程」前・後編で、戦後原子力研究再開を主導した茅誠司・伏見康治ら核物理学者に焦点を当てました。研究の素材としては有意義ですが、私の観点からすると、不十分なものです。『朝日新聞』の場合、日米戦争開戦時1941年11月から、朝日新聞社が『科学朝日』という雑誌を刊行し、2000年12月まで出ていました。戦時中は「無人兵器の続出 使用方法に三種類」「”V2号” ついに飛ぶ 速度は音速の九割か」「威力は野戦重砲級 ロケット砲弾の将来」といった軍事技術情報だったそうです。それが1945年8月ヒロシマ・ナガサキと敗戦を経験すると、今回ウェブ版「占領下日本の『原子力』イメージ 」で増補したように、45年9月1日号「原子エネルギーの利用:平和再建のために」、同11月号「原子爆弾の副産物」「原子機関車登場か」と、ほとんど戦時中と同じ視点で、「原爆の威力」と「原子力の平和利用」を報道し続けるのです。
NHK「原発事故への道程」については、「ちきゅう座」に、諸留能興さん「問われる科学者の責任「NHK特集シリーズ 原発事故への道程(前編)『置き去りにされた慎重論』」という批判的コメントが出ています。茅誠司・伏見康治から湯川秀樹にいたる核物理学者の責任を問題にする点ではほとんど同感です。ただし、こうしたメイン・ストリームに武谷三男を対置し、そこに「もうひとつの道」を見いだすことには、賛成できません。武谷の「原子力を戦争のため、破滅のために使用せず、平和的に、人類の幸福のために使用することであれば、大いに歓迎しなければならない」という言説(『戦争と科学』理論社、1953年、『武谷三男著作集』第3巻、149頁)の背後には、「原子爆弾はその最初から反ファッショ科学としての性格を持っていた」「この原子力の解放にあるものは、この社会形態の下における人間と自然との関係において、客観的な自然の法則性に対する確固たる自信と、ち密なるその検討と、そして膨大にして組織的で意識的なその適用にほかならない」とする「原子力時代」という歴史認識がありました(『日本評論』1947年10月号、『著作集』第1巻、211・214頁)。この「原子力時代」は、武谷にとっては徐々に「見果てぬ夢」になり、50年代後半に実際に始まった原子力研究・原発政策を、まだ「原水爆時代」だから未成熟だと規定し、茅・伏見・湯川らにも認めさせた「自主・民主・公開」3原則、『だからこそ』の論理、「安全性の考え方」等々の「現実に存在する原子力」への批判を展開しました。しかしそれは、高木仁三郎・小出裕章ら武谷に続く世代の「原子力そのものの問題性」認識とは異なるものではなかったか、ここでも問題は「原発」以前の「原爆」観にあったのではないか、と問題提起しておきます。もっとも、この核物理学者たちの世界における政治は、なお手探りで研究を始めたばかりです。9月・10月のトップで用い、早稲田での『原子力』報告でも扱ったトマス・パワーズ『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したかーー連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルグの闘い』(福武文庫、1995年)の、ドイツの物理学者ハイゼンベルグの善意=「ヒットラーに抵抗して原爆開発をサボタージュ」「原子炉は将来の平和利用のため」説は、冷戦崩壊後の世界の科学史研究では成り立たなくなった、実際にはハイゼンベルグらは乏しい資源・予算のもとで原爆開発をめざしていたというご指摘を、専門家の方からいただきました。新たな典拠とされるMark Walker, Nazi-Science:Myth,Truth,and the German Atomic Bomb, Perseus 1995, などを読むと、どうやら「サボタージュ」説は、戦後もハイゼンベルグが戦時原爆開発について沈黙し続けたことから生まれた「神話」のようです。日本でも、仁科芳雄・嵯峨根遼吉はもちろんのこと、湯川秀樹・朝永振一郎・武谷三男ら戦時原爆開発に携わった核物理学者たちが、ほとんどは沈黙し、そのまま戦後の「平和利用」の旗手になりました。問題は、「科学の戦争動員」「科学者の戦争責任」、武藤一羊さんのいう『潜在的核保有と戦後国家』(社会評論社、新刊)につながりそうです。
前回、10月22日沖縄大学地域研究所・日露歴史研究センター共催第6回ゾルゲ事件国際シンポジウム「ゾルゲ事件と宮城與徳を巡る人々」での私の報告「宮城與徳訪日の周辺ーー米国共産党日本人部の2つの顔」をアップして、沖縄に行きました。この報告も幸い好評で、『沖縄タイムス』10月23日号に写真入りで報道されました。その頃沖縄には、政府高官が相次いできていました。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を「日米合意」として押しつけるための、「説得」活動です。沖縄県知事も名護市長も県内移設に反対しているのに、「沖縄振興策」予算をぶら下げて「民意」を転換させようという、米国国防長官来日に合わせたパフォーマンスです。基地経済をビルトインせざるをえなかった沖縄を見ると、東北・北陸の過疎地に補助金をばらまいて原発を増殖させた「原子力村」のやり方が、よくわかります。「ヒロシマ、オキナワ、フクシマ」を通貫するものを、地元の評論誌『けーし風』が特集しています。時の政権に裏切られ、翻弄され、その不作為で被害を拡大してきたのも共通しますが、2004年8月、沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件の現場を見、話を聞いて、よくわかりました。小出裕章さんが沖縄での講演で述べていましたが、墜落したヘリコプターには、ストロンチウム90を含む検査装置が積まれていました。それ故米軍は事故現場をただちに立ち入り禁止にし、防護服をきた兵士が放射能をチェックし、機体もろとも証拠物件を現場から持ち去り、いっさい情報を公開しなかったのです。つまり沖縄は、返還時の密約による核兵器の持ち込み・貯蔵によってばかりでなく、放射性物質を積み込んだ航空機やヘリコプターによっても、日々被曝の危険にさらされていました。「ヒロシマ、オキナワ、フクシマ」は、いまや日本全国に広がった放射能の汚染度が局地的にも高く、ヒバクシャ・潜在的ヒバクシャを多数産み出してきたという意味で、つながっていたのです。『けーし風』第71号の特集「放射能汚染時代に向き合う」には、福島から沖縄に避難してきて、基地の問題に直面した家族の話も載っています。小出裕章さんがたびたび述べているように、原子力発電の基本的しくみは、石炭や石油の代わりに原子力で水を熱しタービンを回すもので、蒸気機関の延長上にありました。占領期に夢見た「第2の産業革命」でも「太陽の火」でもありませんでした。武谷三男のいう「原子力時代」という時代認識自体、人類にとって危機的な「核時代」の一部でした。「原水爆時代から原子力時代へ」(武谷「『原子力時代』への考え方」『エコノミスト』1955年9月、『武谷三男現代論集』1)ではなく、「原水爆時代から放射能汚染時代へ」と特徴づけることこそ、警世の物理学者・武谷三男のなすべきことだったのではないでしょうか。
その意味で、日本の社会運動の見方も、考え直さなければならないでしょう。もともとビキニ水爆実験の放射能被害から出発した原水爆禁止運動が、当初から「原子力の平和利用」には警戒心がなく取り込まれていった根拠を探るのが、私の「占領下の原子力イメージ」見直しのモチーフの一つでした。実際「原水爆禁止」に特化した運動は、「社会主義の核」をめぐる党派的イデオロギーに巻き込まれ、分裂していきました。「反原発運動」は、原水禁運動とは離れた住民運動・市民運動・環境運動の流れから生まれ、展開してきました。3・11を体験することにより、その二つの流れが合流し、9月19日には、東京で「さようなら原発」6万人集会・デモもありました。それを支え、その後も持続し広がっているのは、こどもたちを放射線から守ろうとする女性たちのネットワーク運動です。そこに「脱原発」運動の弱化を見る見方も可能です。何しろ「原子力村」は、停止中の原発再稼働を着々と準備し、政府は「社会主義」ベトナムへの原発輸出さえ進めようとしているのですから。しかし「放射能汚染」を原爆・原発を貫く「反核」の中核的論点におくと、その「トイレなきマンション」の廃棄物処理問題を含めて、原子力エネルギーに不可避的に伴う放射線被害の認識が広がっています。いのちを守り育てる原点から、女性たちのローカルな運動が全国に現れ、除染と補償を求めつつ行政に頼らず、身の回りの土壌・空気・食品の放射線量を調べ、情報を交流しはじめた事態は、むしろ運動の深化・拡大、本来の「反核運動」の始まりとも見ることができます。脱原発を果たしたドイツやイタリア、中東革命や アメリカのOWS運動に比すると、事態はなお初歩的・流動的で、もどかしくもなりますが、それは、この国の「戦後民主主義」の限界を事実として乗り越えようとする「産みの苦しみ」として、見守るべきなのかもしれません。「国際歴史探偵 」活動の一環として、今回アップする私の論文「亡命者佐野碩ーー震災後の東京からベルリン、モスクワへ」(桑野塾講演、The Art Times, No.3, October 2011)、及び「福本イズムを大震災後に読み直す」(『「福本和夫著作集』完結記念の集い・報告集』こぶし書房、2011年10月)は、いずれも「関東大震災後」という社会的災禍・激変のなかで「福本イズム」がなぜ受け入れられていったのかを、福本和夫の理論の側からではなく、「復興」にあきたらず受容した若者たちの意識の側から解読しようとしたものです。また「崎村茂樹の6つの謎 」に迫る『インテリジェンス』論文に続く第二弾『未来』10月号掲載「社会民主主義の国際連帯と生命力ーー1944年ストックホルムの記録から」も、第二次世界大戦中の「反ファシズム」を、より広い文脈で理解しようとする試みです。「政治学研究」室に、「国家権力と情報戦――『党創立記念日』の神話学」(『情況』2006年6月号)の前篇なのに入れ忘れていた「『党創立記念日』という神話」(加藤哲郎・伊藤晃・井上學編著『社会運動の昭和史――語られざる深層』白順社 、2006、所収)をアップ。やや専門的ですが、ご笑覧ください。前回トップで述べた、故瓜生洋一さん・安田浩さんの追悼文は、図書館に入れて永久保存します。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
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〔eye1697:111102〕
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