アジサイの季節になって―長めの論評(十三)
- 2010年 6月 25日
- 評論・紹介・意見
- ベトナム戦争三上治学生運動安保
1960年安保闘争の一つの帰結が1970年代の沖縄闘争であるが、その間にベトナム戦争反対闘争が介在している。これを間に挟んで見ると僕が先に述べてところはもう少し明瞭になるかもしれない。1960年の安保闘争の後、多くの人が1970年に安保闘争をと期待していたが実際のところそれは起こらないだろうと思われていた。竹内好という評論家は「1970年は展望か(?)」という論評を書いていたが、その診断はNOであった。この予想を覆したのはベトナム戦争の激化と反ベトナム戦争の波の日本への波及だった。
アメリカのベトナム戦争への介入はベトナムの内戦からアメリカとベトナム人民の間の戦争に性格を変えた。アメリカの戦争に対する世界的非難とベトナム人民の闘争に同情は強くなった。これは冷戦構造下の代理戦争的要素を持つものであったが、アメリカへの批判は強くなった。アメリカの経済学者のオーラスティンは朝鮮戦争では圧倒的にアメリカ政府支持が強かったが、ベトナム戦争では逆になったと述べていた。アメリカ国内だけでなく、世界においてアメリカ批判は強まり、ベトナム反戦の波は日本にも波及してきた。これは太平洋戦争と重ねた民族的感情による保守層のものから、アメリカの帝国主義(強権)的な在り方への批判と大きな幅を持つものだったが、1960年の安保闘争との連続性を考える時、ある種の空隙を持つものでもあった。日本政府(佐藤首相)がアメリカの要請に応じてアメリカ政府を支援することに対する反対は強くあった。1960年安保闘争がなければ政府は日本政府はベトナムに自衛隊を派遣していたであろうと想像できるから、このつながりは考えられる。そうであれば僕がここである種の空隙というのは何か。1960年の安保闘争に現れた日本のナショナルな意識や感情、その戦争についての意識とベトナム反戦との距離が存したということだ。アメリカの戦争に対する批判や反感としてこのナショナルな感情は幾分か満たされたのであるが、また、距離感もあったのだ。日本政府のベトナム戦争への関係が曖昧であったこともあるが、このナショナルな意識と感情はその流出において1960年の安保闘争時との差異も存在したのだ。沖縄での1960年代の運動がベトナム戦争とどのように関係しあっていたかは想像するだけだが、大きな影響は存したと思う。沖縄はベトナム出撃の前線基地であり、アメリカ軍の動静をもっと身近に感じていたであろうと思う。ベトナム戦争は本土よりは沖縄ではより具体的であったのだ。沖縄ではアメリカ軍の占領状態と軍政は続いていたのだからだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion037:100625〕
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