東京裁判―「あの途方もない夢の瑕を見ようと」
- 2010年 6月 24日
- 評論・紹介・意見
- 井上ひさし半澤健市東京裁判演劇
演劇評 東京裁判三部作第三作『夢の痂』新国立劇場
(作:井上ひさし 演出:栗山民也)
「東京裁判三部作第三部」の『夢の痂(かさぶた)』の開幕直前まで、私の隣席の老夫婦は、「ユーロ」について長々と論じていた。それは抽象的ユーロでなくて海外旅行で使う通貨ユーロのことであった。今買うべきか先にするかを具体的な数字を挙げて彼らは喋っていた。やがて観客席が暗くなり2時間半の重喜劇『夢の痂』は始まった。
《東京裁判の問題点あるいは「瑕」》
井上ひさしは東京裁判に問題の多いことをよく知っていた。
問題とは、第一に「事後法による裁き」。第二に「勝者の裁き」。第三に「連合国による共同裁判」というのにアメリカが主導し日本占領に利用したこと。
にもかかわらず彼はこの裁判を「血と涙から生まれた歴史の宝石」であると評価した。その理由を三つ挙げている。一つは、のちの国際法や国際条約の基礎になったこと。二つは、市民がこの裁判をもとに戦争暴力に抵抗できるようになったこと。三つは、裁判資料によって隠されていた歴史が明らかにされたこと。
しかしこの裁判には「瑕(きず)」があると井上はいう。
一つは作戦計画をつくった陸海軍の高級官僚的軍人の責任が問われずその頂点にたつ大元帥が免責されたこと。二つは日本国民がこの裁判を無視していたこと。『夢の痂』の狙いはこの瑕を問うことであった。「この第三作には、東京裁判のとの字も出てきませんが、主題はこの瑕です。あの途方もない夢の、厚い痂を剥がして、その瑕を見ようと試みました」と作者は書いている。(注1)
《天子さま対市井庶民の対話》
『夢の痂』の主役は元日本陸軍のエリートで大本営参謀だった三宅徳次(角野卓造)である。玉音放送ののち敗戦責任を感じて熱海屏風ヶ浦に飛び込んだが失敗した。
2年後の47年夏、徳次はこの作品の舞台である東北のある町にいる。
繭種紙製造で巨万の富を築いた財閥佐藤織物の当主作兵衛(辻満長)は屏風美術館の開設を生き甲斐としている。農地改革、インフレ、労使対立など戦後の嵐は彼を襲い始めている。その屏風美術館の仕事を、今は兄が上野で営む古美術商のもとで働いている宅次が手伝っているのである。
作兵衛を囲む人物は、長女佐藤絹子(三田和代)、その見合い相手の地方新聞主筆(小林隆)、東京で三流画家と暮らす次女繭子(熊谷真実)、徳次の娘友子(藤谷美紀)、小作人の息子から出世した警察署長(石田圭祐)などである。
事件はどのように起こるか。昭和天皇の全国巡幸の宿舎に佐藤家が指定されたところから展開が始まるのである。人間宣言した元現人神(あらひとがみ)を、地方庶民はどう迎えればよいのか。その「お出迎え」の予行演習がこの芝居の核心である。「天子さまvs市井庶民」の予行演習での会話は十分面白い。作者はそのなかに「天子さまの戦争責任」を問うという危険な会話を挟んだ。それが井上ひさし得意の劇中劇空間で実現するのである。
《そのまたまた下の者も、そしてわたしたちも》
昭和天皇に扮するのは徳次である。彼には御前作戦会議へ大本営参謀として出席した経験があった。天皇を間近に見た彼は「天子さま」の思考方法やクセを知っている。東北小都市の住人にとって最適の「天子さま」役である。天皇へ詫びる遺書を書いた徳次は、いま天皇として「赤子」に向きあうのである。予行演習なのに彼はときに天皇が憑依したように振る舞う。クライマックスで彼に対するのは絹子である。恋人を戦争でなくした女子大出の国語教師は次のように「徳次」天皇に問いかける。
絹子 天子さまが御責任をお取りあそばされれば、その下の者も、そのまた下の者も、そのまたまた下の者も、そしてわたしたちも、それぞれの責任について考えるようになります。「すまぬ」と仰せ出された御一言が、これからの国民の心を貫く太い芯棒になるのでございます。御決意を!
徳次 (棒のように硬直する)・・・!
絹子 御一言を!
徳次 わたしは屏風であった。
絹子 ・・・ああ!
徳次 すまなかった。
絹子 もったいないおことば!
徳次 退位いたします。
絹子 ありがとうございます。
徳次 そのあとは、この草深い片田舎で余生を送ることにする。
絹子 (さすがにおどろいて)徳次さん!
友子 ・・・父さん!
《人びとの日常はこうなんだぞ》
「すまなかった」、「もったいないおことば!」。
天皇の戦争責任を追及しているのに井上ひさしはなんと心優しい劇作者であろうか。
木下順二の東京裁判劇はこんな風には進まない。だが井上戯曲ではこのクライマックスから一呼吸のあと舞台の空気は一転するのである。明るい『日常生活のたのしみのブルース』を舞台全員が歌うのである。『三文オペラ』の作曲者クルト・ヴァイルのメロディーにつけた井上の詩は次のとおりである。
明け方のまどろみ
夢うつつ聞くは
大根刻むあの音
これが朝のたのしさ
昼下がりのそよ風
緑ゆれる木陰
イチゴミルク 氷水
これが昼のたのしさ
湯上がりの夕方
友だちと会って
ビール注いでカンパイ
これが宵のたのしさ
真夜中にふと起きて
仰ぎ見る夜空
こぐま さそり カシオペア
これが夜のたのしさ
これが日々のたのしさ
これが日々のたのしさ
これは柳田国男の世界ではないか。宮澤賢治の世界ではないか。宮本常一の世界ではないか。人びとの現実はこうなんだぞと井上は叫んでいるのである。それは大事件の発生よりも平凡な日常の反復が歴史だという思想につながる。
《天子さまの屏風・マッカーサーの屏風》
一方で井上は日本人がなぜこのように優しいのかと自問している。
その理由を、国語教師の絹子に「日本語には主語がない」、「主語、すなわち〈わたしは〉は、いつもその時々の状況の中に隠れている」と言わせながら説明している。さらに地主で企業家の作兵衛に状況を屏風に喩えて次のように言わせている。
作兵衛 金屏風でおごそかな場、簾屏風でくつろぎの場、枕屏風で安らかな眠りの場、みんなでむずかしい理屈をこねているが、わたしたち日本人は、屏風を使って、一つの座敷をいろんな場に変えるんだよ。むかし立っていたのは天子さまの屏風、だからそこは神の国。いま立っているのはマツカーサー屏風、だからそこは民主主義の国。自由自在なんだ。
これは丸山真男のいう「ズルズルベッタリに現実に屈服する」日本人の精神でもあるだろう。そういう「現実」を上目遣いに紡ぎ出す日本人を井上は強い自責の念とともに批判的に表現しているのである。
《「夢」の「裂け目」「泪」「痂」とは何か》
井上ひさしはこれらの言葉を多面的に使っている。一言でいうのは難しい。
「あの途方もない夢」というとき、井上は、「憲法九条」のような「世界の奇跡みたいな時間の十字路のところでぽろっと出た理想の強制力」(インタビュー発言)を考えていたのであろう。これは歴史の一瞬に人類が見た理想とも言い得よう。
また『夢の裂け目』のカーテンコールの歌詞に、作者は「劇場は、夢を見るなつかしい揺りかご、その夢の真実を考えるところ、その夢の裂け目を考えるところ」と書いている。ここでの夢は演劇という演技空間に見出すべき理想という意味であろう。逆に夢から逆算される厳しい現実の謂いでもあろう。『夢の裂け目』と『夢の痂』の主演者である角野卓造は座談のなかでこういっている。
▼演劇って、観なきゃ分からないものだと僕は確信しています。生の舞台を観ていただき、同じ空間で役者と同じ息をしているその時間を一緒に生きているということが、演劇のいちばん素晴らしいところだと思います。(注2)
冒頭に書いた「ユーロの夫婦」が『夢の痂』を2時間半の「消費財」と感じたのか、「演劇のいちばん素晴らしい空間」と感じたのかは分からない。私にいえることは、井上ひさしは「演劇のいちばん素晴らしいところ」を観客に感じてもらおうと必死に芝居を書き続けたということである。
《井上東京裁判論は21世紀では》
上演に9時間を要する集団芸術東京裁判三部作で作者は何を訴えたのか。
日本人には「エリートと庶民の現実」を提示して「国体保持」に逃げ込んだ支配層を批判した。同時に井上は日本国民が東京裁判を無視したことを指摘した。それは日本人に特有な受動性、同調性への強い批判である。外国人に対しても戦争犯罪裁判に固有な基本的な問題点を提示した。特に敗者や弱者にとっての戦犯裁判とは何かという問題提起である。なお「東京裁判三部作」以外にも戦争責任・戦争犯罪に関わるテーマは、『闇に咲く花』(BC級戦犯論)、『マンザナ、わが町』(在米日系二世の戦時下強制収容)、『父と暮せば』(広島ホロコースト)、『太鼓たたいて笛ふいて』(作家林芙美子の戦争協力)などの作品にも表現されている。
「東京裁判」の研究は新しい展開を見せているという。国立公文図書館における資料公開や新旧研究者による新著作の出現がその理由である。(注3)
そういう新潮流によって井上の東京裁判観が新しい光を放つことを期待したい。
東京裁判は20世紀後半の政治と外交を静かに揺るがした。そのテーマは21世紀に入って重要性を増している。
65年前の6月23日に沖縄本島では組織的な戦闘が終結した。
菅直人首相は糸満市摩文仁の平和祈念公園で昨日行われた「沖縄全戦歿者追悼式」に出席した。そのあと仲井間沖縄県知事と会談して、普天間基地の移設に関して「日米合意を踏まえつつ沖縄の負担軽減に全力を尽くしたい」と語った。これに対し知事は、「県内移設はこれまでの経緯を含めてなかなか厳しい状況だ」、「民主党さんが何で考えを変えたのかも含めて、何があったのか、こんなにきれいに180度変えてしまうのは。しかも、2、3ヶ月の間でしょ」と語った(テレビ朝日ANNニュース・電子版)。この会談では、日本の首相が米国の利益を代弁し、沖縄県知事が日本国民を代弁している。逆しまの構図である。我々の長い長い「現実」への屈服はいつ転換点を見せるのであろうか。
(注1)井上ひさし「ある献辞」、06年6月新国立劇場『夢の痂』初演時のプログラム。10年6月公演プログラ ム に再掲載あり。
(注2)座談会「井上さんの世界をきちんと伝えること」(角野卓造・藤谷美紀・小林隆出席、司会沢美也子)における角野卓造の発言、10年6月新国立劇場『夢の痂』公演プログラムに掲載。
(注3)保阪正康著『昭和史の深層―15の争点を読み解く』、平凡社新書、平凡社、10年5月刊。同書第九章「東京裁判が真に問うていること」には日暮吉延、戸谷由麻、竹内修司ら若手の台頭、粟屋憲太郎、半藤一利、保阪正康らベテランの資料分析、主に若手による新たな国際的視点の提示、などについての簡潔な記述がある。
『夢の痂』上演期間 10年6月3日~20日 新国立劇場小劇場
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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