「3.11」後の日本再生プラン -脱原発から地球救援隊構想まで-
- 2011年 11月 13日
- 評論・紹介・意見
- 「雨にも負けず」シューマッハーローカリズム安原和雄日米関係
私は、先日東京・小金井市の高齢者学習グループ、「クリスタル」(菅沼七三雄会長代行)で講話する機会があった。テーマは<「3.11」後の日本再生プラン ― 脱原発から地球救援隊構想まで>で、活発な質疑応答もあり、高齢者健在なり、という印象を得た。
日本は目下、明治維新後の近現代史上、<第三の平成変革>に直面していると認識すべきで、その変革は「脱原発」はもちろんのこと、「脱日米安保」を目指す非軍事面での国際協力のための地球救援隊構想まで視野に収めている。日本の再生は、この変革プランをどこまで実行できるかにかかっている。(2011年11月13日掲載)
▽ <第三の平成変革>めざす5本柱の「脱」路線と「再生」プラン
日本は目下、近現代史上、<第三の平成変革>という「巨大な質的変革」に直面している。
<明治維新後>=維新後が目指したものは、富国強兵と対外侵略戦争。アジアシ諸国に甚大な被害を与え、その悲劇的な結末がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、300万人を超える日本人の戦争犠牲者を出した上での敗戦であった。
<敗戦後の戦後改革>=日本国平和憲法による非武装、基本的人権・生存権の保障などを柱に始まった。しかしやがて日米安保体制、軍事化、原子力発電推進、経済成長至上主義、グローバリズムによる企業の私利追求、さらに1990年代以降、新自由主義(=市場原理主義)路線による非正規労働、貧困、格差の拡大が主流となっていく。平和憲法の望ましい理念は骨抜きとなった。
<第三の平成変革>=「3.11」(2011年=東日本大震災と福島原発大惨事)の衝撃が走り、日本列島はもちろん、世界中を揺さぶっている。それまで日本の外交、政治、経済、企業のあり方を律してきた枠組みが根本から見直しを迫られている。日本列島全体が大きな歴史的変化の波に洗われている「平成の変革」である。この「変革」は第二次大戦後の<米国主導の世界>から<多極化進む世界>へと移行する上で有力な道標ともなるだろう。
<第三の平成変革>めざす5本柱の「脱」路線と「再生」プランは以下の通りである。
(1)脱「原子力発電」=太陽光、風力、地熱、小型水力など再生可能な自然エネルギーのすすめ
(2)脱「経済成長至上主義」=「豊かさ」よりも「幸せ」を求めて
(3)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」(地域重視)のすすめ
(4)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業のすすめ
(5)脱「日米安保体制」=軍事同盟から日米平和友好条約へ転換のすすめ
以下、5本柱についてその概要を説明する。
▽ 脱「原子力発電」を訴えたシューマッハーの警告
日本の良心的な科学者や研究者でさえ「原爆は反対、しかし原子力の平和利用である原子力発電は賛成」と原発を評価していた1970年代初め頃、仏教経済学の提唱者、E・F・シューマッハー(注)はすでに本質的な原発反対論を展開した。
著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、原題はSmall is Beautiful・1973年刊)で「原子力 ― 救いか呪いか」と題する一章を設けて原子力発電と核分裂について主張を展開している。一口で言えば、「人類の生存に脅威」、「人間の生命にとって想像を絶する危険」などと警鐘を打ち鳴らしている。つまり人類にとって「救い」どころか「呪い」そのものという認識である
(注)シューマッハーは1911年、ドイツのボン生まれ、父親はボン大学教授の経済学者。1977年スイスへ講演旅行に向かう車中で客死。66歳。有名な経済学者ケインズ(英国)らとも交流があった。ビルマで仏教に出会ったことから仏教経済学(思想)に傾斜していく。
以下、シューマッハーの主張を紹介する。
* 使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑
一番大きな廃棄物は、耐用期間を過ぎた原子炉である。原子炉を使える期間が25年か、30年かといった些末な経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、多分何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。どんどん増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する必要はないという考えの愚かさを記録し続ける。
*何万年の間、あらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらす
人類にとってかけがえのない地球が子孫を不具にするかもしれないような物質で汚染されているのに、経済的進歩、高い生活水準について語ることに意味があるのだろうか。
いかに経済がそれで繁栄するからといって、安全性を確保する方法も分からず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にため込んでよいというものではない。それは生命そのものに対する冒涜(ぼうとく)であり、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的、精神的にも化け物じみている。
▽ 脱「経済成長至上主義」=「豊かさ」よりも「幸せ」を求めて
*財界の経済成長主義への執着
財界団体の一つ、経済同友会は提言「野田政権に望む」(2011年9月12日)で「成長実現に向け、あらゆる政策の総動員と迅速な実行を」と訴えた。
「経済成長」(正確にはプラスの経済成長)とは何を意味するのか。企業人はなぜ経済成長に執着するのか。経済成長はモノやサービスの量的拡大を指しているので、企業業績を伸ばすにはプラスの経済成長が継続した方が好都合だからだ。しかし経済成長が続いても新自由主義(市場原理主義=1980年代の初めの中曽根政権時代から始まり、2001年4月~2006年9月までの小泉政権時代に顕著になった)による弱肉強食の無慈悲な競争がある限り、企業、労働者の整理淘汰、貧困、格差の拡大は避けがたい。
一方、経済成長は資源の浪費、自然環境の悪化、廃棄物の増大をもたらすが、これは経済成長にとって、マイナスに計算されない。廃棄物の処理にカネがかかれば、それはむしろ成長のプラス要因である。限りない経済成長は地球環境の汚染・破壊につながる。
経済成長を人間にたとえれば、体重を増やし続けるだけで、精神的な人間力の向上には関心を抱かないいびつな状態を指している。同じ「成長」という表現でも、人間の成長(量的成長=子どもの体重増加だけでなく、質的発展=人間的魅力の増大も)は経済成長(量的拡大)の成長とは、意味が異なる。
*「豊かさ」よりも「幸せ」を求める時代
経済成長による「豊かさ」の意味はモノやサービスが「量的に豊富」というイメージが強い。貧しい時代には豊かさに魅力を感じたが、「3.11」以降の「脱原発、脱経済成長」の時代は幸せこそがキーワードになってきた。
幸せとは何を意味するのか。経済成長がゼロ(経済規模の横ばい)あるいはマイナス(経済規模の縮小)になっても、経済成長に含まれない非貨幣価値(=非市場価値)、すなわちいのち(人間に限らず、動植物などいのちあるものすべて)、地球環境、豊かな自然、人間で言えば、絆(きずな)、責任感、慈悲、思いやり、生きがい、働きがいなどを重視することで、そこに幸せを見出していく。
といってもモノやサービスの生産、流通、消費を意味する経済成長のマイナスが続いて、経済規模が限りなく小さくなれば、暮らしが成り立たなくなることはいうまでもない。人間の体重がゼロに近づけば、生きていけないのと同じだ。
▽ 脱「グローバリズム」=「ローカリズム」(地域重視)のすすめ
グローバリズムの名の下に進められている米国主導のTPP(=Trans Pacific Partnership Agreement。環太平洋経済連携協定、環太平洋パートナーシップ協定など呼称は多様)に日本が参加すれば、日本の食糧自給率が現在の40%から10%台へ低下(農林水産省試算)するなど弊害が大きい。それにしても強い反対の世論に背を向ける野田首相の顕著な対米従属振りはなぜなのか。
<追記>上記の「顕著な対米従属振りはなぜなのか」について講話では触れることができなかったので補足しておきたい。参加表明を一日先延ばしした野田首相は11月11日夜、首相官邸で記者会見し、「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と述べ、参加の姿勢を明確にした。その背景に何があるのか。
朝日新聞(11月13日付)の次の記事(立野純二・アメリカ総局長)に着目したい。
<TPP参加国の多くと米国は近年、軍事協力を加速させてきた。米軍事網の強化は、通商網と同時平行で進める米国の政経一体の新アジア戦略なのだ。米国がその足掛かりとする同盟相手について、クリントン米国務長官はまず日本を挙げる。日本の参加をめぐっては、安保戦略を重視する国務省や国防総省は積極的だ。「我々は鳩山政権を突き放し、菅政権を無視した。重要さを増す対日同盟をこれ以上不健康なまま放置する余裕はない。野田政権とは真剣に関係を成功させたいと思っている」(米当局者)>
この米当局者の意向からうかがえるのは、TPP参加問題は「経済」にとどまらず、「軍事」つまり「日米安保」が密接にからんでいることだ。日米安保体制に忠実な野田首相にとって「顕著な対米従属振り」以外の選択肢はあり得ないということだろう。TPP問題は同時に軍事問題であるという視点は日本国内では希薄すぎるのではないか。
最近、日米軍事演習が増加している事実を指摘しておきたい。この事実も多くのメディアはほとんど報道しない。TPPを疑問視することは、すなわち日米安保体制にも批判的な目を向けないわけにはいかない。
*ローカリズムをどう育てるか
さて昨今のグローバリズムに疑問が多いとすれば、選択すべき道はローカリズム(地域重視)をどう育てるかである。農林水産業・地場産業、地域自立型経済、田園の多様性の尊重に視点を向けたい。
日本はこれまでいのちを育てる産業である農業をおろそかにし、いのちを削る産業である工業をたくましく成長させてきた。日本社会にいのちを軽視する風潮がはびこっている一つの背景である。外国産の食べものが安く買えるのであれば、輸入すればいいという安易な自由貿易推進の発想が背景にある。
食料自給率が現在4割まで低下し、6割を海外に依存している先進国は日本だけである。農薬や遺伝子組み換えなど健康を含めて大きな負の問題もあり、「いのちの源」の大半を海外に依存しているのは異常である。それに近未来の世界的食料不足を考えると、いのちを支える食料をどう確保するかという食料安全保障上もきわめて危険である。
*「田園の多様性」の尊重を
水田、里山、森林、河川などからなる田園には多様な外部経済機能(=「外部経済」効果、つまり市場メカニズムを経ないで暮らしや経済活動に及ぼすプラスの影響、効果)があることを見逃してはならない。それは国土・生態系の保全機能(自然のダム機能、豊かな生態系の保全など)、自然環境の保全機能(美しい田園、きれいな川の保全、大気の浄化、汚水の分解など)、社会的、教育的、文化的機能(都市と農山村の交流、コメ文化=日本酒と和食の文化など)に大別できる。このような日本の優れた田園の多様性を尊重したい。「食と農」の海外依存を安易に是認する時代は終わったと認識するときである。
▽ 脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業のすすめ
渋沢栄一(注)の「論語・算盤」説(『論語講義』・講談社学術文庫)、すなわち「片手に論語、片手に算盤」の精神のすすめはよく知られている。
(注)渋沢栄一(1840~1931)は傑出した明治・大正時代の財界指導者である。明治維新後、日本最初の株式会社組織の商事会社をつくったほか、大蔵省で租税、貨幣、銀行制度の整備にあたった。大蔵省を辞めて実業界に入ってからは日本最初の銀行、第一国立銀行を設立し、関与した企業数は500余に及んだ。東京商工会議所の初代会頭に就任、経済界の国際化にも貢献した。
中国春秋時代の思想家孔子(前551~前479、儒教の祖)の論語に次の名句がある。
「君子(くんし)は義に喩(さと)、小人(しょうじん)は利に喩る」
君子、つまり立派な人は何が正しいか正しくないかという道義中心に考え、行動するが、小人、つまりつまらない人間は何が得で何が損かという利にさとく、私利中心に行動するという意である。
これについて渋沢は次のようなコメントをつけている。
余(私)はいつでも事業に対するときには、まず道義上より起こすべき事業か、盛んにすべき事業かどうかを考え、利損は第二位において考えることにしている。もとより利益を度外におくことは許されぬが、事業は必ず利益を伴うと限ったものではない。利益本位であれば、利益の挙がらぬ事業会社の株は売り払うことになり、必要な事業を盛んにすることができなくなる。そう考えて事業を起こし、これに関与し、あるいは株を所有する。ただし株が騰貴するだろうと考えて、株を持ったことはない。
私利第一に走る昨今の企業人とは隔世の感が深い。今話題のオリンパス(金融商品の数百億円にのぼる損失隠しが表面化)は、渋沢精神とは180度異質の企業行動である。渋沢翁がいま健在なら、企業の乱行に仰天するのではないか。
「3.11」後の企業、特に大企業に求められる社会的責任は何か。次の3点を挙げたい。
・原発に代わる自然エネルギーの育成・振興
・ローカリズムの発展に尽力
・非正規労働、貧困、格差の是正
▽ 脱「日米安保体制」=軍事同盟から日米平和友好条約へ転換のすすめ
ここでは日米安保体制の目指すものは何か、さらに脱「安保」のためには何が必要かを考える。
*軍事同盟と経済同盟=対米従属国家「日本」を縛っているのが日米安保
軍事同盟は安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。1996年の日米首脳会談で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」で「地球規模の日米協力」をうたった。これは「安保の再定義」で、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、安保の適用区域が従来の「極東」から「世界」に広がった。
経済同盟は2条「経済的協力の促進」の「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」「経済的協力を促進する」などを規定し、新自由主義(市場原理主義)実行の裏付けとなっている。
野田首相の異常な対米従属振りの背景には日米安保体制がある。安保と軍事力の呪縛から自らを自由に解放しない限り、あの「奴隷」のような振る舞いは避けがたい。
特にいま注目すべきは日米安保条約第10条(有効期限)「条約は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後1年で終了する」で、国民多数の意思で一方的破棄が可能な規定となっている。この条項を生かして安保破棄を目指し、非軍事的な日米平和友好条約へ切り替えていくことを展望したい。困難な歴史的事業であることは承知しているが、この展望なくして、平和ニッポンを築くことはできない。
*地球救援隊構想=宮沢賢治(注)の詩「雨にも負けず」の詩情を地球規模で生かすこと。
地球救援隊構想は、日米安保と軍事力への依存症から自由になるための新しい21世紀版「いのちの安全保障政策」として提言する。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933)は東日本大震災の直撃に見舞われた岩手県の生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
具体策は自衛隊を非武装組織へ全面改組すること。その主任務は国内外の大型災害対策(地震、津波など)、医療、貧困、飢餓対策などで、その手段として「人道ヘリ」(武装ヘリコプターからの転換)、輸送船、輸送機などの平和利用を目指す。
軍事力を維持増強するためには仮想敵国の存在を必要とする。かつては日米にとってソ連が仮想敵国だったが、ソ連崩壊後は中国、北朝鮮が仮想敵国になっている。
しかし仮想敵国視を止めて平和共存路線を追求するときである。軍事力に執着しているときではない。世界は多極化をめざして急速に変化しつつある。アメリカ帝国はもはや時代の新潮流に取り残されつつある。米国軍産複合体(それに追随する日本版軍産複合体)の対外戦争という時代遅れの野望を封じ込めるときである。非軍事面での国際協力こそ重要なときで、その国際協力に正面から応えるのが地球救援隊構想である。
*21世紀版「雨にも負けず」に読み替えれば
「雨にも負けず」の大要は以下の通り。
雨にも負けず、風にも負けず、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういう者にわたしはなりたい
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨にも負けず」として読み替えれば、以下のように解釈し直すこともできるのではないか。<>内が読み替え
*雨にも負けず、風にも負けず、いつも静かに笑っている
<日本は2011年春に巨大震災と原発事故による複合的大惨事に襲われ、死者・行方不明者は総計約1万9500人(内訳は死者1万5829人、行方不明3686人=11月1日現在。警察庁まとめ)にのぼった。災害で苦しむとき、地球救援隊が駆けつけてくれるという期待があれば、苦痛の中にもささやかな安堵感を抱くこともできよう>
*東に病気の子どもあれば、行って看病してやり
<開発途上国では生まれてから1歳までに亡くなる赤ちゃんが年間約700万人、5歳の誕生日を迎えられずに命を失ってしまう子供は年間1100万人にものぼる。その過半数は栄養不良による。どのように看病すれば、いいのか。世界中で自然環境を汚染・破壊し、いのちを奪うために浪費されている巨額の軍事費のうちほんの一部を回せば、子ども達の目も生き生きと輝いてくるだろう>
*西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
<世界中で安全な飲料水を入手できない人は11億人(地球総人口は2011年11月現在の国連推計で70億人)、また基礎的な衛生施設を利用できない人は24億人もいる。人口増加を考慮に入れると、水をめぐる局地的な紛争や武力衝突は増加する可能性が高い。アフリカや西アジアでは水瓶(みずがめ)を頭の上に乗せて何キロも離れた距離を運ぶ女性の姿は珍しくない。これでは女性、母たちもたしかに疲れるだろう!>
*南に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいと言い
<世界で南の発展途上国を中心に8億人が飢えている。地球上の住民のうち9人に1人が飢えている勘定だ。スマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生)による死者・行方不明者約30万人、避難民約150万人。毎年50万人超の女性が妊娠と出産のために死んでいる。「怖(こわ)がらなくてもいい」と言われても、死に直面する恐怖から自由になるのは容易ではない。地球救援隊が素早く駆けつけて、救援の手を差し伸べることができれば、少しは恐怖が軽減されるかも知れない>
*北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
<「北に喧嘩」の北とはアメリカであり、喧嘩とは、アフガニスタン攻撃に続くアメリカ主導のイラク攻撃とイラク占領を指している。正当な理由もなく、正義に反し、世界中の非難を浴びているのだから、性懲りもなく続けるのは止めなさい、という声は地球上を覆っている。アメリカもやっと2011年内に軍隊を撤退させることになった>
*みんなに「でくの坊」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず
<日本がイラクへ自衛隊を派兵しなければ、アメリカは日本を「でくの坊」、つまり 「役立たず」と非難し、褒めてはくれないだろう。しかし自衛隊の派兵を日本が拒否し ていたら、イラクをはじめ、多くの国や人々からは「苦にもされず」つまり「結構では ないか」と評価されただろう>
*そういう者にわたしはなりたい
<そういう国に日本はなりたい。そういう思いやりがあり、「世のため人のため」に働く人間に私はなりたい>
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年11月13日掲載)より許可を得て転載
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〔opinion0685:111113〕
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