小林直樹氏の暴力論――戦争論・死刑論を中心に
- 2011年 11月 21日
- スタディルーム
- 宇井 宙小林直樹暴力正戦論死刑制度
1.総合人間学会関東談話会に参加して
先週土曜日(11月19日)、「小林直樹名誉会長著『暴力の人間学的考察』(岩波書店刊)を読む」と題した総合人間学会主催の関東談話会に参加した。会は、新著『暴力の人間学的考察』を出版された小林直樹氏(東京大学名誉教授、総合人間学会名誉会長)ご自身のお話の後、佐藤節子(法哲学)、長谷場健(法医学、分子生物学)、三浦永光(哲学)の3氏によるコメントとそれに対する小林氏の応答、最後に会場からの質疑応答、という順序で進められた。
小林直樹氏については改めて紹介の要はあるまい。長年、東京大学法学部で憲法の講座を担当される一方、護憲派の立場から憲法9条をめぐる論争をリードしてこられた反骨の憲法学者である。東大退官後は専修大学教授、北海学園大学教授を歴任され、大学教員を退職されて以後は人間学の研究に専念され、2003年には『法の人間学的考察』(岩波書店)という大著を刊行されている。2006年に総合人間学会を設立して会長に就任され、現在は名誉会長を務めておられる。卒寿を迎えられた今年、『暴力の人間学的考察』という大著を刊行されたが、そのあとがきを読むと、さらにまだ2冊の新著を準備されているとのことであり、今後のご活躍からも目を離せそうにない。
さて、前記の談話会では、個人的な感想だが、三浦氏による質問が最も重要かつ本質的な問題点を提起していたように思う。ところが、残念(かつ失礼)ながら、小林氏が三浦氏の質問に十分的確に応えきれていなかったように思われ、そのことが消化不良の印象を残す結果になったのではないかと思われる。しかし、会場でのコメントに当意即妙かつ的確な回答を提示できなかったとしても、そのことが直ちに小林氏の理論の欠陥を意味しているとは言えないだろう。小林氏の理論の内在的な論理からは、本来、どのような応答が可能であったのかを、誠に僭越ながら私なりに考えてみた。
三浦氏は、小林氏の著作に関して、以下の2点を質問された。
第1点。 小林氏は一方で、暴力抑制のための社会的条件のひとつとして、「兵器と軍隊の廃棄」を提唱されている(260-261頁)が、他方では、「真に“やむない”暴力もある」としてアルジェリア解放闘争におけるファノンとサルトルの正当化論に肯定的に言及されている(238頁)。(小林氏の見解によれば)正当化しうる暴力にはアルジェリア民族解放戦線(FLN)のような民間武装組織によるものもあれば、ベトナム戦争時にアメリカの北爆に対抗した北ベトナムによる反撃のような国家による戦争も含まれるのではないか。だとすれば、兵器と軍隊の廃絶という第1のテーゼとの整合性はどうなるのか?
第2点。 小林氏は死刑廃止論に反対されているが、その文脈で、戦争を肯定している欧州諸国が「死刑は野蛮だ」などと非難するのは“笑止の沙汰”だと述べておられる(282頁)。つまり、対内的には死刑という「国家による殺人」を否定していようとも、対外的に戦争という「国家による殺人」を肯定している欧州諸国を批判されているのであるが、小林氏の場合はちょうどそれとは逆に、対外的には戦争を否定されていながら、対内的には死刑を肯定されているのは、肯定・否定の対象が欧州諸国と逆になっているだけで、矛盾しているという意味では同じなのではないか?
小林氏はコメンテーターへの応答の中で、三浦氏の第1点目の疑問に対しては不十分ながらも応えておられたが、残念ながら質問者と聴衆の多くを納得させることはできなかったように思う。第2点目については、時間の関係もあったのかもしれないが、応答されなかったのは残念であった。
ここではまず、第2の論点から考えてみたい。
2.戦争と死刑
死刑制度と戦争をともに「国家による殺人」として同一線上にあるものと捉えたうえで、「正しい殺人」はないとの立場から死刑制度と戦争をともに否定する論者はときおり(しばしば?)いるが、例えばそのひとりに憲法学者の樋口陽一氏がいる。このような立場から見れば、一方を肯定して他方を否定することは、戦争反対・死刑賛成であれ、戦争肯定・死刑反対であれ、矛盾を犯している、と見なされることになろう。三浦氏の指摘もまさにこのような批判であるのだが、樋口氏が明快に「正しい殺人はない」という立場に立っておられるのに対して、三浦氏の場合、そこまで明確な立場ではなく、少しく迷いがあるように見受けられた。それはさておき、こうした批判は小林氏の死刑容認論への批判としてどの程度妥当するだろうか。それは、小林氏が死刑(による殺人)と戦争(による殺人)を同一の論理と性格を持つものとして捉えているかどうかによって左右されるだろう。もしも小林氏が死刑と戦争を同一の論理と性格を持つものとして捉えているならば、確かに論理矛盾という批判は免れないだろう。しかし、両者を異質なものとして捉えているとすれば、一方を肯定し、他方を否定しているからといって、論理矛盾を犯しているとの批判は当たらないだろう。結論を言えば、小林氏は両者を異質なものとして捉えていると思う。ただし、両者を同質的なものとして捉えているかのような記述も少なからず見受けられるので、三浦氏のような疑問が出てくるのも無理からぬところがあると思う。例えば、「死刑より先に問われるべきは、国が「交戦権」…の名で行う殺戮ではないか。(戦争と死刑とは次元が違う話だという反論は成り立たない。どちらも同じ国家行為である。)」といった記述は、小林氏が両者を同一線上で捉えていることを示している。確かに、両者はともに「国家行為による殺人」という点で同一の側面も有している。しかし、小林氏が強調しているのは、両者の異質な側面である。つまり、現代の戦争において犠牲者の多数を占めるのは罪のない一般市民であるのに対して、死刑制度による「犠牲者」は(冤罪でない限り)重大な犯罪を犯した死刑囚であって、両者の殺人は質的に異なっている、ということである。もちろん、樋口氏のように「正しい殺人はない」という明快な立場に立てば、論理必然的に死刑制度にも戦争にも反対することになろう。しかし、小林氏は、この前提を樋口氏と共有していない。したがって、小林氏の論述の仕方に多少紛らわしい点があったとしても、小林氏の死刑肯定論が論理矛盾を犯しているとは言えないであろう。
しかしながら、以上に述べたことは、小林氏の死刑存置論が戦争否定論との関係で論理的に矛盾しているわけではない、ということを示したにとどまり、氏の死刑存置論がそれ自体として説得力があるかどうかは別問題である。ここでは三浦氏の質問からは離れるが、小林氏の死刑存置論の根拠を見ておこう。小林氏はまず、死刑廃止論の根拠として、以下の6点を挙げている。
① 死刑は人道に反する残酷刑である
② 国家に人を殺す権利はない
③ とり返しのつかない誤判の惧れがある
④ 死刑には(暴力)犯罪の抑止力はない
⑤ 終身刑により、犯罪者の反省と悔悟を求める方が、人間的である
⑥ ヒューマニズムの見地から“殺す勿れ”という命題にしたがうべきである
これに対して小林氏は、第6点目の見地から死刑廃止を説くことには「嘉すべき理由がある」としつつも、①~⑤についてはいずれも反論・反定立が可能であるとして、それぞれ以下の反定立を掲げている。
(1) 死刑よりももっと残酷で人道を無視した犯罪者は、人間として応報の責めを負うべきではないか
(2) 死刑よりも先に問われるべきは、国が「交戦権」の名で行う殺戮ではないか。
(3) 誤判を防ぐ手立ては、別個に考案されるべきである。誤判の可能性が全くない犯罪まで、ひっくるめて“死刑廃止”とする理由はないであろう。
(4) 死刑に犯罪抑止力がない場合はむろんある。(確信犯やサイコパスなど)しかし、大方の犯人が死刑を恐れる点から見ても、抑止力はかなりあるといえよう。
(5) 反対に人格主義から見て、“死刑の方が人間的だ”という見方もある
以上、(1)から(5)に対して、私も簡単に反・反定立を掲げておこう。
(1) 刑罰の最大の根拠が「応報」にあり、犯罪者が「応報の責めを負うべき」だとの意見には賛成である。しかしこの場合の「応報」とは同害報復を意味しているわけではない(5人殺した被告人に5回の死刑を求刑することはできない)。したがって、「応報の責め」が死刑存置を必然化するわけではない。
(2) 死刑と戦争による殺戮とはどちらが重大な罪であるかという違いはあるとしても、論理的に前後の関係にあるわけではない。そもそも交戦権の否認を主張している人に対しては、死刑存置の根拠になっていない。
(3) 完全に誤判を防ぐ手立てがあるか否かは疑問であるが、仮にありうるとしても、そうした手立てが採られていない現状では、誤判による処刑の可能性はなくならない。また、「誤判の可能性が全くない犯罪」があることは、「誤判の可能性がある“犯罪”」がないことを意味しない。現行の死刑制度が存続する限り、冤罪の可能性はなくならない。なぜなら、現行法下で死刑判決が下されるのは、「誤判の可能性が全くない犯罪」だけでなく、「合理的な疑いを超えた有罪立証がなされたとの心証」を裁判官が得た犯罪も含まれるからである。したがって、裁判官が「1~2%くらいは冤罪の可能性もある」と思ったとしても犯情が重大であれば死刑判決を下さなければならないため、冤罪はなくならないのである。これは団藤重光・元最高裁判事が死刑廃止論へと転換したきっかけとなった理由である。
(4) 「大方の犯人が死刑を恐れる点から見ても、抑止力はかなりある」というのは客観的な裏付けを欠いた独断である。死刑制度に抑止力があるとすれば、死刑制度を廃止した諸国で犯罪が増えるはずであるが、実際にそうはなっていない以上、死刑制度に抑止力があるというのは“神話”にすぎない。
(5) ここでの「人格主義」が何を指しているのかわからないが、「死刑の方が人間的だ」という見方がある一方で、「死刑は残虐で非人道的だ」という見方もある。一方の見解が存在することをもって死刑存置の理由とするのは弱すぎるだろう。また、「死刑の方が人間的だ」という見解は、日本の死刑囚の大半がいつ処刑されるか知れない極度の緊張状態から拘禁ノイローゼを発症しているなど死刑囚の置かれた現実を軽視しているように思われる。
三浦氏の質問からは逸れてしまったが、私は、小林氏の死刑存置論は軍隊廃絶論との関係で論理矛盾は犯していないものの、存置の根拠には賛同しえない点が少なくない。
3.非武装平和主義と正戦論の関係――憲法第9条の射程
さて、三浦氏の提起した質問のうち、より本質的で重要なのは第1点目の疑問である。再度繰り返せば、小林氏は一方で「戦力不保持」という日本国憲法第9条2項と同様の理想を掲げながら、他方で、少数ではあれ「正当化しうる戦争」(正戦)があると認めているのは矛盾しているのではないか、という疑問であった。これは誠に重大な問いである。ここでも比較のために「比較憲法学」の権威・樋口陽一氏の立場と対比するのがわかりやすいであろう。樋口氏は、先にも述べた通り、「正しい殺人」はなく、したがって「正しい戦争」はない、という立場である。したがって、「正当化しうる戦争」というものはなく、憲法第9条の戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認という理念は普遍的に普及すべき理想である、との立場であって、ここには何の論理矛盾もない。これに対して、小林氏は、「正当な暴力と不当な暴力を区別することは不可能であり、すべての暴力は同一だ」とするジャック・エリュールのような主張を暴力「同一性」の主張と呼んで、これを批判されており、「少数ではあっても、真に“やむない”暴力もある」と主張しておられる。このような正当化可能な暴力には正当化可能な戦争も含まれている(215-216、226、238頁参照)。すなわち、暴力同一性論、戦争同一性論を批判し、少数とはいえ、真にやむを得ない暴力、真にやむを得ない戦争もありうる、というのが小林氏の暴力論の基本的テーゼであると思われる。
そうだとすると、日本国憲法第9条2項のような戦力不保持を普遍的理念として推進することとはどうしても矛盾せざるを得ないのではないか、という三浦氏の疑問はもっともであるようにも思われる。しかしながら、ここでも小林氏の論理を丹念に追っていくと、必ずしも矛盾とは言えないように思われる。小林氏が「兵器と軍隊の廃棄」すなわち戦力不保持の理想を掲げているのは、「暴力抑制のための社会的条件」の(全部で5項目挙げられているうちの)第3項目においてである。そこでは、「闘争手段の廃棄・少なくとも徹底縮減」という条件が掲げられており、具体的には、第1のステップとして「核の全面的廃棄」がまず挙げられ、「次いで、戦争を現実に実行する主体=軍隊の解体が、進められるべきである」と述べられている。そして、カントがその『恒久平和論』の中の予備条項の中で挙げた「常備軍は漸次解消すべし」という命題は「いやま現人類はそれを実行すべき秋(とき)に至ったといえよう」(261頁)と述べられている。こうしてみると、戦力の放棄という理想の実現は(仮にそれが可能だとしても)かなり未来の目標として設定されているように思われる。小林氏が「真にやむを得ない暴力」があり得る状況の例として挙げているのは、「悪虐非道の権力者に対する抵抗や、植民地支配からの解放運動」(226頁)や「人間として忍び難い抑圧や奴隷化に抗する暴力」、「不正・不当な侵略や非人道的な暴政に対する反撃」(238頁)などであって、このような状況が生まれないことが何よりも望ましいことは言うまでもない。したがって、そのような「不正・不当な侵略」をなくすためにも常備軍を漸次解消すべしという命題は、「正当化可能な暴力の存在」命題と必ずしも矛盾するわけではないだろう。この場合の漸次的戦力撤廃という理念は、憲法9条のような法的規範ではなく、政治的理念・目標にとどまっていると見るべきであろう。
ところが、小林氏は言うまでもなく、非武装・非暴力抵抗による平和主義を説いた『憲法第九条』(岩波新書)の著者として広く知られているため、日本に適用される法的規範としての9条実現論と、あくまで政治的理念としての世界規模での戦力廃棄という長期的目標とが混同される結果が生じたのではないかと思われる。したがって、小林氏の暴力論=平和論の眼目は、日本においては法規範である9条の非武装・非暴力抵抗による平和主義を可及的速やかに実現すべきであるが、戦力廃棄という世界的な政治目標の実現までには極めて長期に亘る困難で粘り強い努力が必要である、という立場なのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study424:111121〕
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