ドイツの脱原発
- 2011年 11月 22日
- 評論・紹介・意見
- グローガー理恵
「Nach Denk Seiten」サイトに記載されていた興味深い記事を見つけましたので、是非ご紹介したいと思いました。 この記事は、「ドイツが1970年代から現在に至るまで辿って来た脱原発への道、その背景」について書かれたもので、ライナー・ロート氏とエンス・ヴェルニケ氏の共著である「メルトダウン ノー チャンス(Der Kernschmelze keine Chance)」からの抜粋です。記事には、ドイツが、こうして脱原発への道を着実に歩み始めることが出来たのは、1970年代から今日に至るまで、力強く反原発のバナーを掲げ続けてきた民衆の力のお蔭であるということが、明らかに述べられています。長い間、反原発のため、国をそして原子力産業を相手に、挫けずに闘い続けてきたドイツ民衆の粘り強さと、彼らの負けず魂に、私は驚嘆させられています。
下がこの原文へのリンクです。
http://www.nachdenkseiten.de/?p=11298#more-11298
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http://www.nachdenkseiten.de/?p=11298#more-11298
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脱原発?ナイン!―いや、耐用年数延長のこと!
ドイツの脱原発への運動が始まったのは、2000年や2011年ではなく、もう既に1986年のチェルノブイリ事故災害以前に始まっていたことである。なぜなら:
ドイツの脱原発への運動が始まったのは、2000年や2011年ではなく、もう既に1986年のチェルノブイリ事故災害以前に始まっていたことである。なぜなら:
─1979年に、最後の原子力発電所建設の注文がなされた。受注者は、Siemens-KWU。
─1986年のチェルノブイリ事故災害以後、ドイツにおいて、新しい原発所建設の申請はなかった。
─1989年の4月、最後の原子力発電所「ネッカーヴェストハイム–2」が、配電を開始(この建設申請は1986年以前のもの)。
ドイツの脱原発は、何よりも、1970年代と1980年代の反原発運動と大衆デモの成功に起因する。
ドイツの社会民主党(SPD)/自由民主党(FDP)連立政権は、1985年までに50基の新しい原子力発電所を建設する事を企図していた。これに従っていたら、ドイツは、少なくとも、計90基の原発所を持つことになっていた。それが実際は、17基となったのである。これは、民衆の原発反対を叫ぶ、力強い決然とした抵抗があったからこそなのである。民衆の猛烈な反対運動が、結果的には、70基以上の新原発所設置を阻止したのだった。
名目上、ドイツでは2000年(社会民主党/グリーン党連立政権)、「原子力コンセンサス I」によって、脱原発が決議された。
─「原子力コンセンサス I」には、「電力会社は、原子力発電を整然とした形で廃止したいという、ドイツ政府の決断を尊重する」と述べてある。
─更に「原子力コンセンサス I」には、「ネッカーヴェストハイム–2原子力発電所は、最後に配電網から外される原発所として、33年の稼動を終了し、2022年には閉鎖される」とも述べてある。
─それと同時に、社会民主党/グリーン党連立政権は、「2,623兆ワット時の電力量」-これには「残余電力量」という名称が付けられた-を原発から生産することを承認したのである。因みに、この電力量、2,623兆ワット時(残余電力量)は、原子力発電所が1968年から2000年にかけて生産した総電力量に相当するものである。そして、この残余電力量は、他の原子力発電所にトランスファーしてもよい事にもなった。
─「原子力コンセンサス I」は、事実上、耐用年数を限定せず、稼動期間の延長を許可したため、結果として稼動期間が少なくとも35年から40年以上を超える年数になった。
─要するに、シュレーダー(ドイツ社会民主党)と トゥリティン(グリーン党)は電力会社に対して唯々諾々な態度をとったのである。
それでも、「原子力コンセンサス I」は原子力産業の期待を充分に満たさなかった。そのため、2009年、ドイツキリスト教民主同盟(CDU-保守党)/自由民主党(FDP)現連立政権は、原発稼動期間を更に延長する事を、原子力産業に約束した。
先ず、彼らは稼動期間を50年から60年にすること延長する事を検討することから始めた。そして、2010年の10月、連邦議会で、「原子力コンセンサス II」を定め、社会民主党・グリーン党が規定した原発稼動期間を、更に8年から14年延長するという事が決定されたのだった。即ち、耐用期間年数を50年まで延長することが認められたわけである。 これは、1980年代に定められた耐用年数期間、25年の二倍となったことになる。原子炉閉鎖は2011/2012年ではなく、先ずは2018年に始まり2035年に終了すべきということになった。
しかし、利潤追求主義の原子力会社にべったりのメルケル政権をびっくり仰天させる、或る事が起こった。福島原発事故・メルトダウンを切っ掛けに、何十万もの民衆が通りに出て、「即脱原発」を叫び、訴え始めたのだった。
そして、3月27日に行われたバーデン・ヴュルテンベルク州選挙で、保守党と自由民主党は惨敗した。グリーン党が著しく勢力を伸ばし、バーデンー・ヴュルテンベルク州にとって最初の、グリーン党/社会民主党連立政権が発足した。この選挙結果は、多数の住民が、出来るだけ速い脱原発を願っていることを明らかに示していた。
この事は、ジャイアンツ電力会社にとっては大きな打撃となり、メルケル首相は、今までの原発政策の方向を180度変換せざるを得なくなった。そして、「原子力コンセンサス II」は廃止され、新しく「原子力コンセンサス III」が誕生した。:
─2002年に既に決定されていたように、7基の原子炉と、この4年間故障続きで機能不能だったクルメル原子炉が閉鎖された。
─残りの9基の原子力発電所の平均稼動年数は、「原子力コンセンサス I」で決定された年数よりも二年間延長された。
─閉鎖された原子炉に割り与えられていた(社会民主党/グリーン党政権の名残である)残余電力量分は、他の稼動中の原子炉へトランスファーされてもよい事になっ
しかし、法令は変更する事が可能である。それ故に、現在、原子力産業は訴訟を起こし、新しく定められた稼動期間の制限を阻止しようと試みている。. 彼らは、新規定された稼動期間制限によって、彼らの残余電力量の所有権が犯されていると主張している。
一方、連邦議会では、其々の原子力発電所の閉鎖期日を基本法に含めるという案を否決した。これは、脱原発からまた脱するという可能性が、これからもあり得るのだということを意味している。即ち、メルケル首相の脱原発政策は、見せかけだけが立派なインチキ包装品のような物だということである。そして、「原子力コンセンサス III」の後には、また「原子力コンセンサス IV」が続き...ということになりかねない。
ロットゥゲン環境大臣(保守党)は、現政権の脱原発政策を「国民の共同プロジェクト」と呼んだ。
それに対して我々は告げる:
─.我々は、単なる、利潤極大化が目的の資本国家間競争を、「国民の共同プロジェクト」と名称し、美化していることに関心を持たない。
─この現政権の政策は、原子力産業の利権のため以外の何物でもない。
─もし、現政権の政策が、先ず国民に優先権を与えたのだとしたら、もうとっくの昔に全ての原子力発電所は閉鎖されていた筈である。
「最初、彼らは君を無視し、次に、君を嘲笑い、その後は、君に挑みかかってくる。そうして、君は勝つのだ。」‐マハトマ・ガンジーの言葉(仮訳)
概説:「Nach Denk Seiten」 記事 (11月15日付)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0694:111122〕
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