アジサイの季節になって―長めの論評(十ハ)
- 2010年 6月 30日
- 評論・紹介・意見
- 三上治安保岸信介
「また立ちかえる水無月の歎きをたれに語るべき 沙羅のみづ枝に花さけばかなしき人の目ぞ見ゆる」(芥川龍之介)。なんとなしに好きで自然に口にのぼる一節だ。去る日、樺美智子さんの遺影を拝したが、その幼に胸がつかれ思いだった。一度ならず拝してはいるのだが、こんな思いははじめてだった。これは彼女の生きられたはずの時間(生)への哀惜にほかならなかったのだが、六月の記憶はどこかでこうした思いとつながっている。
今年は安保50周年ということで想起することを少し書いて見ようと思ってはじめたが、だらだらと長くなってしまった。皆さんにはおわびを申しあげたい。安保闘争の実態をなした戦争についての国民的意識に触れただけだったが、この論評はここで終える。安保闘争はどちらかと言えば岸信介の強権的な政治権力再編に対する抵抗としてあり、民主主義をめぐる闘争といわれた。特に五月二十日の強行採決以降はその側面が全面化した。岸の安保改定のあとの憲法改正という政治的プログラムからいえば、戦後の政治権力の強権化と集中化を目論むものであり、この側面での安保闘争とその後について書く構想があるが、それは長くなるので別の機会にしたい。
この点を少しだけ述べておけば岸の権力観([権力についての思想]は戦前のそれとほとんど変わってはいない。彼は学生時代に国体論の憲法学者である上杉慎吉に師事し、卒業にあたっては大学に残るようにいわれほどであり憲法学には精通していた。だが、彼は憲法の本質的性格を理解していたか、どうかは疑問である。憲法は統治のための手段(道具)であるという理解していたのではないか。統治者の道具と言う理解は国体論も天皇機関説も含めて日本的な憲法理解の根幹にあったものだ。これに対する反省を岸は持たなかったのではないか。彼が戦犯であったことが嫌われたといわれるが、権力観が戦前から変わってなかったところが嫌われたというべきである。これは彼の振舞いとも関係している。1958年に彼が警職法(警察官職務規定法)の改正を提起したことや、六月の反対闘争の盛り上がりに対して自衛隊の出動を強く主張したこととつながっている。当時の防衛庁長官が岸に忠実な人物なら自衛隊の出動はありえたと想像しえる。この権力と民主主義の問題は1960年代の全共闘運動に引き継がれて行くが、安保闘争論がこの領域での影響は大きなところがある。この領域での現在の問題を考えるとき、安保闘争が起源(出発)をなしたと思える点は多い。
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