ハックルベリーやジムを生み、吐き捨ててきた米国支配層の尊大意識
- 2011年 12月 14日
- 評論・紹介・意見
- 大木 保尊大意識日本国民米国支配層閉じられた精神
戦争という狂気を含んだ日本国民の共同観念。その閉じられた精神の病理性- –
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毎年のようにこの時節になると、とくに落ち着きがなくなる方をよくみかけます。
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?
社会の気ぜわしい空気に染まったように、気もそぞろの容子がうかがえます。
うつ症状とは反対の、心的な現実解離の方にひきよせられていくようにみえます。
こんなときの自己コントロールには、堅い書物を音読する(理性の左脳活性)、
家の中を汗をかくほど清掃する(乖離を防ぐための行動一致の法則)などが効果的です。
さて先日、東北被災地の或る方からこんな言葉をうかがいました。
「あの津波に、地獄をみたけれど、 あれは・・ やはり・・ 災害・・。
おおきく見れば、いわば地球の生理というべきものにはちがいない。
しかし 東電福島原発事故の被害は、
命の重さと引き換えた『明るい原子力の未来』という、
おいしいとこ取りの美化の妄想が現実に破滅した結果だし、
先頭を走った工学(エンジニアリング)の破綻・敗北にちがいない。
あまりにも残酷な思考の行き着いた果てが、これだった。・・」 —
– かれの 冷え切った心のままにさめた意見は、しごくもっともだ。
さらにくわえて、まえの米国史編(1~7)にあったように
狂気そのものの戦争思考にもてあそばれる人々の悲哀について言えば、
戦争軍事に執着するものたちによって動員され、兵士とされたものは、
その人格も、棒切れのように打ち捨て
ただ銃を撃ち、「テキ」を殺すことだけをしいられる。
かれら敵味方いずれの兵士も、人殺しであり、またいつでも被害者でもある。
当然だが、凄惨でない戦争などなく、残虐をとどめられないほどの狂気を本質とするために、
そこではだれもが、心的に病理をかかえるほかない。
– 戦争軍事思考をよしとするものたちのなかには下級の職業軍人もいる。
だが唯一かれらだけは、それが狂気そのものであることを自覚している。
人を殺すこと、撃ち殺すこと、爆弾で吹き飛ばすこと。
これが戦争行為の具体性であり、直接手を下す者は人殺しとなることをだれよりも理解している。
「ヤラなければやっつけられる」という文字通り必死の言い訳は、
戦場に追いやられた兵士だけに許されるものである。
米軍は、いまではその兵士たちのコスト高を敬遠し、遠隔操作の兵器を導入している。
いかにも米国政権らしいのは、それが兵士の保護をおもってのことではなく、
あの「奴隷解放宣言」の欺瞞性とおなじく、
とことんコスト主義の伝統を継承していることにある。
つまり、いままで奴隷をこき使ってきたけれど、
もっと安価な賃労働者が集められることに気づいて「捨てた」、という動機であり、一方は
人件費高騰に頭を悩ます国防省が兵士に代わる無人機をもとめるという動機によっている。
かれらは、人間の個の存在について一顧だにしなかったし、
いまもコストとしかみていないことにかわりはない。
それは、故郷を捨ててきたり追われてきたり、あるいは売り飛ばされてきた移民たちが、
じつはもっと生き難い暗黒の「新世界アメリカ」に立ったときから、
大地主独占支配のもとに、ずうっと虐げられてきた歴史の中で、ハックルベリーやジムのような、
浮浪児や逃亡黒人奴隷がうみだされてきたことに通底する、
アメリカ支配層の尊大な選民意識のあらわれであり、その連鎖の表現にほかならない。
また、
「民主化!」対外戦略という欺瞞に満ちた戦争を仕掛ける米国特権支配層は、
はじめから無意識に戦争思考がはたらき、
制圧・占領の美化のイメージを右脳に描くものたちであり、
戦闘の具体性をもとから記号化して、乖離ないし回避したものたちであり、その意味で
おのれの狂気ゆえに、つゆほどもおのれの狂気に気づかない病のものたちといえよう。
– かれらの独立以来の連鎖する狂気の有り様も救いがたいが、
もうすこしべつの共同観念の狂気についてもふれてみよう。
たとえば、日本人の明治維新以来の歴史的行動にはそれに近しい共同観念の形成がみられる。
大概のわたしたちの一、二世代まえの人たちはその観念にとりつかれてきたことは疑い得ない。
それは「帝国主義」観念である。
そのはじまりは日清戦争にあり、そのあとの日露戦争によって完成されたといえる。
なにしろその当時の庶民がこぞって、「敵国を破って、領地を獲る」ことになんの疑念ももたなかったのだ。
ふしぎなことに、それが帝国主義思考であることなぞかえりみたこともないのだ。
おそらく世界に疎い庶民がすりこまれた、「清国=敵国」という言葉そのものがすべてに先立って脅威であり、
その大きな不安・恐怖を一刻もはやく消したいという性急な欲求にせっつかれていたところ、
たまたま勝利して興奮し、賠償金を取りあげることまで要求したとかんがえられる。
しかし一度味を占めた庶民の脳の回路には、
すでに恐怖よりは「戦争の成果」のイメージががっちり記憶されている。
恐怖を消す快感ホルモンのドーパミンの記憶でもあるから強烈だ。
日露開戦にのぞみ、政権や軍部の一か八かの危惧をよそに、
「もはやロシアなど怖くはないぞ!」と庶民の方が、マスメディアに乗せられ突っ走った。
それこそたまたまの勝利に冷や汗をかいた政権指導部とちがって、
ちょうちん行列までして勝利を喜んだ庶民は、
すっかり帝国主義者になっていたのだ。
国民が無邪気にとりこんでしまった帝国主義思想は、
自覚が無いゆえに厄介このうえない心の病とみとめられる。
なぜなら戦争を志向し、侵略し、他国民を殺戮することはいくら都合のいい大義をかかげようとも、
その思考と行動は子どもたちにまですりこまれる狂気であり、
まったき狂気の発現・実行および負の学習ととらえるほかないのである。
この二つの帝国主義発動の「快のイメージ」の記憶は、
その後の日本のすみずみまで連鎖し、国民の頭に浸透していった。
結果的に、国民総動員の大日本帝国の大陸侵攻、日米開戦にむすびついたといえる。
そのときの知識人の多くがこれに高揚し、
またマスメディアが扇情的であったことはいうまでもない。
これを狂気であるというものこそが、狂気であるとされるのが
狂気の共同観念の病理性であり、内向する精神の閉じられ方とあまりに似た容貌でもある。
いまでもまだかなりの国民と政府・官僚が米国の帝国主義に無自覚であるように、
主体的ではないとしても、この無邪気な観念が肯定的に流通しているのは否定しがたい。
しかしわたしたちが、
いまだに解(ほど)きがたい、この帝国主義観念の結び目に手をかけずにおけば、
またしてもナショナリズムを悪用した「愛国」を脅迫する輩が、(国を売っていることを知ってか知らずか)
帝国主義とセットの「おいしい未来の話」をプロパガンダしてきたときには手遅れとなるのだが・・。
・・(ブログ・心理カウンセラーがゆく! http://blog.goo.ne.jp/5tetsu より転載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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