音と音楽――その面白くて、不思議なもの(6)
- 2011年 12月 17日
- スタディルーム
- 危険音石塚正英野沢敏治
第6回 耳から侵入する危険音への不安
>往< 野沢敏治さんへ、石塚正英から
かつて拷問に使用された音には、次のような事例があったと言われます。女性の叫び声、矢・ナイフ・斧を投げる音、鎖を切る音、途切れなく続く放電音、発電機の稼動音、レーザーガンの発射音、火炎放射器の噴射音、大型機械の電磁波、等々。それらの幾つかは、いまでも戦争捕虜に対して実際に使用されているかもしれません。いずれもみな、非日常性を帯びた音です。ガラスを爪で引っかいて出る「キーキー」もかなり不快で、私など、胃袋がひん曲がるようでおかしくなります。そのように、いろいろと心理的に不安や不快を招く音がありますが、たいがいは身体への危険や危害を指し示す音です。けれども、それとて、日常化していれば、さして不安や危険は感じません。ある種の騒音・喧騒の中で仕事をしていると、その状態に慣れます。けれども、何度体験しても、けっして慣れることのない不快音があるとすれば、これは一大事です。そのような音は、実際にあるのです。単独で響く低周波音がそうです。野沢さん、今回はちょっとハードな話ですが、聞いてください。
低周波音とは何のこと?
低周波音とは何でしょうか。可聴音の中でおよそ20~100ヘルツの範囲を低周波音といい、可聴音でない20ヘルツ以下は超低周波音とよんでいます。私は専門家ではありませんので詳しくは説明できませんが、次のことだけはハッキリしています。その不快感は、さまざまな周波数からなる自然音の世界から、ただ低周波のみを取り出したときに感じられるのです。低周波音それ自体が不快を招くのではありません。
ところで、鈴の音が高周波音であるとするならば、太鼓の音は低周波音です。とはいえ、太鼓だけきいていても低周波音の音被害は生まれにくいのです。風鈴の音と同じ様に、太鼓の音についても私たちはこれを有機的=生命的な音と捉えて、縄文の昔から文化感性で聞いているのです。音の第二類型に入ります。
文化とはほど遠い無機的=ノイズ的な音、例えば換気扇、送風機、ボイラ、コンプレッサー等が出す音、それが問題なのです。単独に人工的に取り出された低周波音、これは音の身体文化を破壊する元凶、いいえ、生物的な次元での人間身体そのものをさえ壊滅させる元凶となりえます。本来ならば他の周波音とアンサンブルになって低周波音が身体にあたえる健康的で文化的な効果を、低周波音それ自体がダイレクトにそぎおとしてしまうことになるのです。アンサンブルの中の低周波音は第二類型に属しますが、単独でうなる低周波音は第一類型の中でもその極致、喩えて謂うならば<ファシズム型>ですね。なんとかしなくてはなりません。
なんとかするために参考になる話を、最後に一つ紹介します。一箇所のフロア内で同時に複数の会合を行なう場合、よそのグループの会話を聞かないですむためには、フロアに45デシベル程度の強さの音を流すといいのだそうです。人の耳はそちらに気を取られ、となりのグループの会話が気にならなくなるのだそうです。サウンドマスキングシステムといいます。ただし、このマスキングは低周波音被害には、ときとして逆効果をもたらすことがあります。その点を認識するために汐見文隆氏の意見を以下に引用しておきます。
「低周波音も空気振動ですから防音対策により若干低下しますが、透過力が極めて強く、また回折(壁の上を乗り越えて回り込む)する性質も強く、防音対策をしても僅かしか減弱しません。それに対し普通音は反射や吸収が著明で、防音対策が極めて有効です。
普通音の著明な低下はマスキング効果の低下を招き、それが低周波音の僅かな低下を上回れば、防音対策は逆効果になります」(汐見文隆『低周波音症候群――「聞こえない騒音」の被害を問う』アットワークス、2006年、19頁)。
ところで、低周波音を利用してコミュニケーションを取り合う生き物に象がいます。NHKテレビ番組「ダーウィンが来た」の第6回でその映像が流れました。象たちが交し合う低周波音を緑色に表示する技術が使われたので、よく分かりました。反対に人間が放つ低周波音によって被害を受ける生き物がいます。ナシュナルジオグラフィックス日本語サイトに掲載された「ダイオウイカを殺すソナーの騒音」には、深海でダメージをうけたため海面に浮上し、結果としてドロドロになって死んでしまうのです。困ったものです、低周波音は。
低周波音問題研究会
そこで私は仲間たちとともに数年前に「低周波音問題研究会」をつくり、調査研究や社会活動を継続しています。この研究会の目的は以下のようになっています。複合的な原因不明の発生源を含む人為的な発生源による低周波音の発生源解明に寄与することおよび被害状況を把握し、被害の救済・解決を世の中に訴えてゆくこと、解決に向けての研究ならびに被害者等の親睦を図ること。この会のメンバーは被害者とその支援者で構成されますが、支援者には、今後、電波工学・音響工学・医学・心理学・社会学など各方面の専門研究者が含まれることと思います。
低周波音被害が社会的に認知されるよう研究会や学習会、被害報告会の開催、研究会誌発行などを通じて広報活動を展開し、低周波音の測定および被害者からの聞き取り実態調査を継続しています。そうして、低周波音被害が社会的に認知されるよう研究会や報告会の開催を通じて広報活動を展開し、低周波音の測定および被害者からの聞き取り調査を強化し、同時に被害者と支援者が相互に支えあうことを目的としております。
自然界、野外ではいろんな音がアンサンブルとして響きます。それを私は―すでにこのシリーズの第1回でお話ししたように―「野音」と称しております。その中での低周波音は自然音に含まれます。ところが、人工的にある周波数域の音だけが取り出されると、それは自然な音でなくなります。そのうち、心地よいものは教会音楽や風鈴の音として文化的な響きをなします。私はそれを「楽音」と称しております。しかし文化とはほど遠い無機的な音、耳をつんざく音、いや生物的な次元で人間身体そのものを破壊する音、雑音・騒音・破壊音、その発生源はなんとしても解消しなくてはなりません。ひたすら低周波音を送り出す産業機材や家電機器を作るメーカーと、それをゆるす管轄官庁には、低周波音問題をまっさきに認識させたいものですが、そのためには、この問題がまずもって社会的に広く認知される必要があるでしょう。私たちの会はその目的達成に向かって尽力しているのです。野沢さん、きょうは結構深刻というか真面目というか、そんなお話しを差し上げました。
>復< 石塚正英さんへ 野沢敏治から
「アンサンブル」と聞いて…
低周波の健康への被害は以前から問題になっていますね。ぼくはマンションに住んでいますが、まれに夜遅くにどこからか小さい音ですが、洗濯機の低い音が聞こえてきます。途中で眠をさますことがあります。そこには超低周波音が入っていたかもしれません。ところで「超」のつかない可聴範囲のことですが、それは生物ごとに異なるようです。それと関連して、生物ごとに視覚範囲も異なるとある本で教えられたことを思い出しました。音楽演奏を録音する時に可聴範囲に入らない音はどう処理しているのだろうか。それは物理的には耳でキャッチできないとしても、身体のどこかで受けとめていることはないだろうか。さらにはそれが可聴範囲の音に干渉してその合成音を人は耳にすることはないだろうか。ちょっと気になります。そのほか、話題にしたいことがありますが、石塚さんが「アンサンブル」と言っていることが頭から離れなくなってしまい、そちらに話を飛ばします。
石塚さんが指摘したように、機械音でも生活の一部であれば、たいして気になりません。雑音ではなくなります。家内工業で織機の音をガチャガチャさせている。別の部屋で老人が寝たきりになっている。でもその音が老人と家族の生活の中に組み込まれていたので、老人の気に障ることはない。反対にその音で心が落ちつくんだそうです。こんなふうに、それだけとれば不愉快な音でも他のもろもろの音と「アンサンブル」をつくれば身体に悪くならないのでしょう。
居間に机と椅子がある。それらが色でも造作でもつり合いがとれていると見ていて落ち着く。でも机の平面が3角形で椅子がゴッホの絵にあるように5角形に近くゆがんでいると、居心地は良くない。そのことで突飛な面白さは演出できても、生活には向きません。アンサンブルになっていないからです。音楽や芝居でもアンサンブルが大事だと言います。
役者が舞台に出てくる時、肩に力が入っていて自然でない歩きをする。見ている方はそのぎこちなさに舞台とのあいだに距離を感じてしまいます。舞台を自然に歩くことができれば、その役者は一人前だそうです。ト書きには長い坂道を歩いて登ってきたことになっているのに、役者が息も切らさずに淡々と登場するのでは困ります。これでは状況にアンサンブルできていません。アンサンブルは役と役との関係でも重視されます。名優一人の張り切りだけでもつような芝居は歌舞伎ではよいかもしれませんが、それでも主役以外の他の役がそれぞれに神経を行き届かせて全体の場を作っていると、充実したものを感じます。このことで思いだしたんです。落語の「淀五郎」での役作りのことです。
一緒に芝居をするということ
「淀五郎」は故6代目三遊亭円生がよく演じていました。幾つかのバージョンを工夫していて、どれも真に迫ろうとしていました。筋はこういうものです。
江戸時代に4代目市川団蔵という歌舞伎役者がいた。実在の人物で、芸はうまいが人間が皮肉であった。彼が座頭で『仮名手本忠臣蔵』をやることになる。彼が由良之助と師直の2役をやるのだが、稽古の途中で判官役が倒れてしまった。そこで団蔵はまだ相中(あいちゅう)の身であった沢村淀五郎にやらせることにした。これも実在の人物。当時、歌舞伎は階級制がやかましくて、下立役、相中見習い、相中、相中上分、名題下、名題(なだい)となっていた。芸はいくらうまくても家柄が悪いと名題にはなれない。これは歌舞伎界の困った因習であったが、団蔵は淀五郎に見込みがあるとみて大抜擢したのである。判官の役は当然名題がやるものだから、淀五郎は大喜び。すぐにあちこちに挨拶して見物を願い、初日を迎えることになった。大序と3段目の刃傷の場まで無事に済んで、いよいよ4段目。これは判官が幕府のお咎めをうけて切腹する場面。重要な場面なのでお客さんはじっくり観る、役者もお客に観てもらおうと思う。由良之助の子・力弥が9寸5分の腹切り刀をもってご主人の前へ置き、これが見納めと思うので退ちかねる。判官「力弥、由良之助は…」、力弥「いまだ参上つかまつりませぬ」。判官はもう1度尋ねる。力弥はのびあがって花道の向こうを見やるが、姿はない。判官「存生に対面せで無念じゃと伝えよ」と言って、刀をぷつッと脇腹に突っ込む。そこに忠義一筋の由良之助が一目お目にかかりたいとバタバタッと花道に出てくる。「大星由良之助義金、ただいま、到着」、情のある石堂右馬之丞が「大星由良之助とはその方か。苦しゅうない、近う、近う」と勧める。ところが由良之助役の団蔵、ひょいっと頭をもたげて淀五郎の判官役を見て、そのまずさかげんにいやになり、花道でぶつぶつ愚痴をこぼし、いくら「近う」と言っても寄ってこない。その後の由良之助は判官とつっけんどんにやりとりするだけ。淀五郎、楽屋に引っ込んでから、団蔵にどうしてそばへ来てくれなかったのかと尋ねる。団蔵、皮肉を言いつつ答える。芝居は一人でやるものではない、大勢でやっているんだ、判官は5万3千石の大名、これこれしかじかのいきさつで切腹となる。そのご主人の最後に由良之助はそばに行きたいが、行けない。なぜか。判官でなく淀五郎の腹切りだから、と。淀五郎はどうしたらよいか分からない。団蔵に切り方を聞くが、意地悪く教えてくれない。「本当に切ればいいんだ」、「本当に切ったら死んでしまいます」、「まずい役者なら死んだ方がいい」、思わず「ありがとうございます」と言うが、ちっともありがたくはない。次の日も同じ4段目で由良之助は寄ってこない。淀五郎、団蔵に拒否されたことですっかりしょげてしまう。きまり悪くてもう舞台は踏んでいられないと思う。そこで世話になった中村仲蔵(――これも実在の人物)を訪ね、明日西の方へたつと暇乞いをする。仲蔵驚いてその理由を質す。淀五郎、団蔵に死んだ方がましだと言われたことを話し、明日は舞台で本当に腹を切って死のうと思うと言い切る。仲蔵、偉い、その気概で工夫をするんだと言い、ではどんな腹切りをするのかと聞くと、淀五郎、自分も腹を切るが、由良之助も刺し殺すつもりだと答える(!)。そんな忠臣蔵はないのだが、仲蔵は笑って、団蔵の腹の中を代わりに語ってやる。団蔵はお前ができると思ってやらせたのに、できないのでいらいらしているんだ。そう言って、淀五郎に舞台でやったことを演じさせてみる。仲蔵、ため息をつくように、自分でもそばには行かないと言う。お客から誉めてもらいたいという気持が身体に浮き出ていてきざだ、前の場からその場に至るまでの全体の構造の中での役になりきらないとだめだと助言する。そして団蔵がきっと寄ってくるだろうという工夫を幾つか授ける。さあ、淀五郎うれしくなって夜っぴいて練習し、翌日に備えた。3段目の例の鮒侍呼ばわりのところは相手が団蔵なので、こいつ、叩ッ斬ってやりたいが、1幕早いからとぐっと我慢する(!)。芸はまずいがその意気ごみに団蔵、圧倒される。いよいよ4段目になって、由良之助が登場し、「近う」と勧められる。…と、団蔵、判官を見て「できた、いい判官だなァ。これならそばへ行ってやらなきゃなるまい」とツ、ツ、ツツッと近づき、判官を見上げて「御前ッ」。淀五郎、手負いの感じで「由良之助かァ…」と花道を見ると、いない。いくらまずいといってもまるっきり出ないとは、ちくしょう、楽屋にひっこんだらどうしてくれよう、だが確かに声はしたがと、ひょいっと脇を見たら、三日目にいた。「うーんッ、待ちかねたァッ…」
ぼくは意地悪な団蔵と親切な仲蔵とはある意味で一体だと思います。役作りには瀬戸際まで自分を追い込む必死さとなんとかしたいと絞り出す工夫が必要だからです。教育はどちらが欠けてもいけない。芝居の方では、自分がやらない役でも研究するものだ、他の「役」の台詞に耳を傾ければ自然と自分の「役」の声が出ると教えます。
会議でも必要なアンサンブル
会議でもこういうアンサンブルができる時は気持いいですね。その反対に人の言うことに耳を向けず、香車のようにして相手を突くだけでは白けてしまいます。研究でも研究者は研究対象とアンサンブルを作らねばなりません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study427:111217〕
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