転形期の日本(その六)~(その九)
- 2011年 12月 19日
- 評論・紹介・意見
- 三上治
転形期の日本(その六)
大震災や原発震災の復旧や復興も何処まで進展しているのか曖昧なままに年越しになりそうである。沖縄で暴言をはいた防衛局長の更迭と連鎖した防衛大臣の辞任問題が解決しないまま政府はアクセス評価書の提出だけは強行する腹のようだ。これだけは現防衛大臣にやらせようとするのか(?)アメリカ議会は海兵隊のグァム移転予算を凍結し、軍事費削減に進まざるを得ない状況になっている。日本政府はアメリカや中国関係の中で今後の構想を持たなければ袋小路に入っていかざるを得ない。その場合に戦争と安全保障についての基本的な理念がどうしても必要である。その意味では憲法9条のことをあらためて考えざるをえない。アジア地域の安全保障と憲法9条でもいいのであるがこのことを念頭において見なければならない。日米関係の見直しとアジア関係の進展にはこのことがなければならない。
憲法9条と安保条約はセットであり、日米関係を見直しアメリカとの距離を取ろうとするなら憲法9条改定は不可避であるという議論がある。1960年に安保改定を岸信介は憲法改正(9条改正)をして自主防衛(核武装を含む)をやり、その後により本格的な安保改定をめざしていた。彼の『証言録』を読む限りそのような構想を抱いていたことは確かである。ただ、憲法9条改正を促してきたのもアメリカであり、自主防衛(軍備増強)はアメリカの日本戦略でもあった。岸がアメリカの代理人であったという説とナショナリストであったという説があるが、ヌエ的な存在であったというのが真相ではないか。僕らは憲法9条とその改正が主に対米関係で論じられてきた歴史を見ているが、それはそのまま戦後の対米関係が日本国家の中心的関係である他なかったことを意味する。安保体制から脱するには憲法9条の改定により本格的な国家武装(核武装を含む国家武装)が必要であるという議論が改憲派の中にあることはよく知られている。岸信介の系譜にあった小泉―安倍が日米同盟の深化と憲法改正を構想していたのを見ると憲法改正(9条改正)による日米関係の改定というのはこの議論がナシナリズムを装うためだけのことであるのも分かる。改憲派の中にも対米従属派(日米同盟派)と日本の独立派《ナショナリスト》がいる。アメリカの要請による憲法改正(9条改正)こそが基本の流れであり、だから日米同盟深化はこれと矛盾なくある。改憲派はアメリカの要請という面をおおい隠すために、ナショナリズム(日本の軍事的独立)を利用してきたのであり、それが改憲派の多数であつたのである。
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転形期の日本(その七)
アメリカとの関係の見直しのために憲法9条の改定による国家武装を強調する連中はそれを口実にしての国家武装を本格化したいだけである。岸信介の系譜にある右翼や保守はアメリカとの関係を見直す気はなく、ナショナリストは仮面である。日本がどのような名目にせよ軍備を強めてもそれだけではアメリカ関係の見直しにはならないのである。親米右翼、あるいは保守に対する反米右翼、あるいは保守も存在する。かつて清水幾太郎はその代表格として「核の選択」を書き核武装による日米の対等関係を主張した。この論理は一見すると正当なように見える。日本が憲法を改正して本格的な武装をしなければアメリカとは対等になれないという論理(国家論理)であり、それは現在の一般的な論理に適合しているように見えるからである。逆に言えば国家が武装すれば日本はアメリカと対等な関係になれるか、という問いかけになる。
この問題は僕らには国家とは何か、戦争とは何かという問いを必然にする。国家は対外的にも体内的にも武装した存在である。交戦権は国家の主権に属する。そうであるとしたらこの武装は何において成立するのか。それは国家の成員の共同意志としてである。武装力とは本質的には国民の意志力である。武力としての武装力はその表現であり、国家本質にたいして国家機関のような位置を持つものである。第二次世界大戦における連合国と枢軸国の勝敗は武装力の点でいえば国民の意志力の差に還元される。枢軸国はウルトラナショナリズムやファシズム《強権的権力体制》をとり、一見すると強固な国家意志を持っているように思われたが、国民の意志の体現度で劣勢にあり、それが敗戦に結果したのである。天皇制の支配力下にあった日本国家の強く見えた構造の背後に国民の意志力の体現には意外な弱点があり、それが露呈したのが敗戦である。日本は物質的力で敗北したといわれるが精神力(意志力)で敗北したのである。
そして戦後の日本の国民の意志とは何かということが問われてきたし、そこにこそ国家武装をめぐる問題が存在してきたのである。戦後の日本国家が本格的な武装に至りえないのは国民の意志がそれを否定しているからである。死を命令すれば受け入れるとし、それを命令する存在としての共同存在(国家)を容認していないからである。自己に死をも命令し得る存在としての国家を受け入れてはいないのである。これは太平洋戦争に対する国民の反省であり、戦争観(国家観)の転換によっている。戦後の日本は本質的な意味で武装を欠如した存在として出発したし、逆にそこに積極性も存在したのである。
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転形期の日本(その八)
日本のナショナリストたちに欠如しているのは国家の軍事力(軍備力)の強さは国民の意志力であるという点である。日本のアメリカに対する敗北も突き詰めればそこに行きつくことの理解である。どんなに軍備を整備し重武装しようとも意志力の裏打ちがなければそれは精神(魂)を欠いた人形のごときものである。過剰にまで精神の重要さを説き、精神主義の権化のように言われてきた日本思想は何なのかという疑問が出されるかも知れない。これは日本思想が日本人の意志《内在的精神》と乖離した存在であったかを逆説的に示しているだけのことである。日本国家はネーションという国民の意志(共同の意志)を欠如させて存在であったかと連なることである。国体という曖昧な内容の理念が過激な精神主義的な装いで流布されたのは日本の国家意志が国民の意志を欠如させていたためである。
このところをもっともよく知っていたのはアメリカであった。彼らの日本研究や占領過程で手にいれたのは見かけの強靭さにも関わらず本質的な弱さを持つ日本国家の秘密であった。国民の意志力と乖離している日本国家の存在であった。この秘密を握っていたからこそ、アメリカは戦後に天皇を取り込みその協力を得て官僚を戦後統治に利用してきた。日本の独立後のそれを存続させてきた。表面上の独立とアメリカの支配を背後に隠し対等な関係を演出する巧みさはあったにせよ、日本国家(官僚国家)の強さと弱さを知り得たから可能であったことだ。アメリカは国民の意志や動向に細心の注意を払ってもきた。憲法9条に体現された国民の意志や戦争観だって分かっていたのである。アメリカが持ち込んだ憲法9条の意図とそれを日本国民が自己意志に変えた差異も良く分かっているのである。日本の核武装や重武装で日米の対等関係をいう連中をアメリカは怖れてはいないし、組みやすいと考えているだろう。それが国民の意志を体現していないことをよく知っているからである。国民の意志に基づいてアメリカとの関係を見直す動きを彼らは警戒するだろうが、それなりの対応もすると思える。憲法9条の非戦を国家戦略にしてアメリカの軍事戦略と向き合っていくことは空想ごとではない。国民の意志に支えられたものとして戦争について、あるいは平和についての国家的な道を日本の政治家は主張すればいいのである。憲法9条は世界的に見て国家と戦争の関係を先見的に表現しているが、その生命力である国民の意志とともに対米関係に使ったことはないのであり、それをいまこそやって見ていいのである。
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転形期の日本(その九)
韓国の日本大使館前に従軍慰安婦の存在を象徴する少女の像が設立され、日本政府はその撤去を求めたという報道がある。ここに見られるのは日本政府の従軍慰安婦の存在から目をそむけようとする姿である。日韓の首脳会談で李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求め、このままでは「日本の永遠の負担になる」と述べたと報道されているがこれは正しい立場である。野田首相はあらためて像の撤去を求めたというがこれは恥の上塗りである。日本政府はこの問題に向き合い謝罪と賠償をすべきである。
戦後に従軍慰安婦の存在を明るみにしたのは田村泰次郎の小説『春婦傳』であった。この小説はGHQの検閲で出版できず大幅に書き換えられてはじめて出版が出来た。そこでは従軍慰安婦という表現はおろか半島という言葉すら書き換えられた。これは従軍慰安婦の存在をタブーにし、曖昧にするように結果した。しかし、従軍慰安婦は存在しそれに軍が関与していたことは明瞭である。右翼などが国家の神聖さを汚すものとして否定したいのだろうが、ここにあるのは大陸での日本軍の蛮行や非行から目をそむけようとすることである。日本がこうした態度を取り続ければ不信感を存続させるだけである。憲法9条は日本のアジア地域の人々に向けられた反省の弁であるとよく言われる。そこに内在している日本人の意志(戦争観)はそうしたものであると言っても的外れではない。日本が東アジア共同体を志向し、アジアでの民族問題を解決しようとするなら、ここを曖昧にしてはならない。韓国も中国も今や国民国家であり、戦前とは違う。現在の関係から未来志向と言う言葉が出てくるが、それは太平洋戦争に至る近代での韓国や中国の関係を曖昧にしていいと言うのではない。近代史の過程で中国大陸や朝鮮半島で日本や日本軍がやったことをきちんと反省することを媒介にしないと未来志向なんて都合のよい言辞としてしか受け取られない。憲法9条はアジアでの関係、とりわけ安全保障をめぐる関係では重要な役割を担っていることを確認しなければならない。冷戦構造という枠組みが戦後の日本や日本人に中国大陸での戦争のことに目を向けなくて済ますことを許した面がある。その意味では憲法9条のアジア向けた反省という側面を忘れさせるように作用してきた。アメリカの改憲要求に便乗して日本の政治的動きが冷戦思考の中でそれを強めたと言える。日本が憲法9条を根底にしてアジア諸国との関係を構築しようとするなら、この点は特に大事な点である。それなしには信頼関係は築けないからだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0726:111219〕
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