言葉が腐食する国で
- 2011年 12月 25日
- 交流の広場
- 宇井 宙言葉が腐食
今日(12月25日)の東京新聞読書欄は「2011私の3冊」というテーマで、28人の評者が今年印象に残った3冊の本を挙げ、寸評を書いている。中には同じ本も取り上げられているから、全体では80冊ほどの本が紹介されていることになる。それを読み進むうち、私は奇妙な違和感を覚えた。最初それは、私が是非読んでみたいと思う本がほとんどないせいかと思ったが、単にそれだけのことなら個人的感性の相違だから別に大した問題ではない。しかしもっと大きな違和感の原因があることに気付いた。それは原発問題を扱った本がほとんど取り上げられていないことである。東日本大震災を扱った本は多数取り上げられているし、震災と原発をまとめて扱った本も数冊取り上げられているが、(原発小説集は除き)脱原発を主題的に扱っていると思われる本はわずかに一冊紹介されているにすぎない。それも文芸評論家によるもので、専門家によって書かれた脱原発本は一冊もない。逆に反・反原発の立場と思われる本(放射能安全論?)も一冊紹介されている。
“今年”すべての日本人に突きつけられた最大の問題が原発をどうするのか、という問題であったことを否定する人は少ないだろう。現に、今年ほど多くの日本人が原発問題に真剣な関心を寄せた年はなかったし、原発関連本(その多くは脱原発を訴えるものだろう)も大いに売れたはずだ。東京新聞読書欄の評者たちも皆が皆、原発問題に無関心でいたわけではないだろう。では、紹介に値するような脱原発派の本はないと考えたのだろうか?
こうした疑問に対するヒントになるかもしれないことが、水無田気流氏のコラム「新聞を読んで:「なし崩し社会」の問題」に書いてあった。水無田氏は、学生に「人権」や「民主主義」について「良い印象」「悪い印象」のどちらをもつかという意識調査を行ったところ、「悪い印象」が回答の過半数を占めた、という研究報告を聞いたという話を紹介し、これらの言葉は内実よりも「大義名分用語」という印象が強いからだろう、と述べている。そして、美辞麗句の背後で「なし崩しの現実」が淡々とそれを裏切っていくような日本社会においては、言葉への不信が蔓延しているがゆえに「強い言葉で異論を唱える人間にも冷淡であり、必要な討議が成立しがたい」と指摘している。
確かに、言葉への不信は、この国の政治家、官僚、マスコミによって国民の間に広く植え付けられてきたが、それは今年、頂点に達した感がある。晩発性障害の危険性を「ただちに健康に影響はない」と言い、放射能被害を「風評被害」といい、事故を「事象」、汚染水を「滞留水」、老朽化を「高経年化」と言い換え、史上最悪の海洋汚染を引き起こしていながら、保安院は海へ流出した汚染水を「ゼロ扱い」し、冷温停止とは全く無関係だが言葉だけは類似した印象を与える「冷温停止状態」という言葉を作り、今後、事故が収束するまで何十年かかるか誰にもわからないにも関わらず、「事故は収束した」と言い張る首相を持つ国において、言葉が腐食し、シニシズムが蔓延していくのは避けがたいようにも思われる。しかし、そのためにまともな言葉さえも信用されず、言葉そのものへの不信が蔓延してしまうなら、「なし崩しの現実」を押しとどめ、反転させる力の拠り所さえ失われてしまうだろう。
今年は、かつてないほど多くの日本人・日本社会に住む人々が原発問題に関心を持ち、脱原発派の主張に耳を傾け、脱原発に向けた行動に立ちあがった。しかし、残念ながら、現状ではまだ、こうした人々は少数派にとどまっている。脱原発を求める人々が今後ねばり強く闘っていかなければならないのは、上記のような日本社会に蔓延した言葉の腐食、「反言葉」とでも言うべきシニシズムでもあろう。
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