「護憲」の立場なるものを問う
- 2012年 1月 5日
- 交流の広場
- 「護憲」とら猫イーチ
本年元旦に掲載された田畑光永氏の「2012年-『崩』の時代」に対して、安東次郎氏が5日付「『増税反対派は駄々っ子』?『駄々っ子』と言われても消費税増税に疑問を呈する」で反論されておられます。
私見では、反論に理があるように思われますが、あえて増税の是非については触れず、ここでは、田畑氏の唱導されておられるところの「護憲・軍縮・共生」のお立場そのものについて若干の疑問を呈したいと思います。
それは、田畑氏の論稿最終末で、「民主主義は最悪の制度である。 これまで行われてきたすべての制度と同じように。」と結論づけられておられるからです。 前段では「今の日本は専制君主制と変わらない。」と日本国憲法で制定されている「国民主権」を非難され、「君主は勿論、国民という専制君主だ。」とまで悪罵を放たれています。 これでどうして「護憲」を言われるのでしょうか。 例え、反語的表現としても、聊か不穏当と言わなければなりません。
そもそも、日本国憲法で制定されています「国民主権」が人類普遍の政治制度として認められるに至るまでには、幾多の血と涙が流れ、長い年月を要した歴史が存在することをお認めになるならば、軽はずみに憲法上の制度を誹謗は出来ないものと信じます。 憲法前文に言う「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」とは、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」(日本国憲法第15条第1項)との条文を始めとしての諸権利を言っているのです。
また、田畑氏とは違い、日本の民主主義は、今日まで試練を経て漸く成熟した政治制度として機能するところまで来たと、私自身は思っています。 それは、戦後永きに渡った保守政権は、国民の冷戦体制下でのやむを得ない消極的選択であり、その証拠に、公害問題が激しくなる頃には、地方政治での革新政権選択という絶妙極まる投票行動として現れました。 これは、地方政治で革新政党が首長を取っても、国防・外交には影響が無い点を考えた改良主義的投票行動として現実的なものでした。
しかしながら、暴力的な「全共闘運動」等は、国民が認めるところとはならずに終わるところとなりました。 これは、当然のことでした。 何故ならば、これら反民主主義的・反国民的暴力主義は、行き着くところは、浅間山荘事件に代表されるとおりの、殺戮に至るものだからです。 カンボジアでのポルポト派だけではないのです。 自己に歯向かう者と規定すれば、誰でも殺戮する者が抱く思想が多数派を占めることはあり得ません。
また、国民が米英を始めとした西側民主主義国家の側に立つことを選択し続けたことが正しかったことは、ソ連邦その他のいわゆる「社会主義」諸国が連続して崩壊したその後に明らかになった国民弾圧の圧政が明らかになるにつれて、歴史的に証明されています。 断罪されるべきは、これらの諸国(北朝鮮を含む)を美化し、一部の国民の判断を過たせたメディアや政治勢力にあると思われます。 特に、朝日新聞他のマスコミは、ためにする北朝鮮美化のキャンペーンを行い、在日朝鮮人の方々の多数を収容所国家に送り届ける運動に寄与された犯罪的行為は眼に余るものがあります。
時間が移ろい、時代に逆らう自公政権に見切りをつけて、民主党を選んだ国民の選択は、その時点では、道理に見合った選択でしたが、選ばれた民主党は、国民の負託に答えることが出来ずに今日に至っています。 民主党のマニフェストが得票のために出来もしないことを知りながら論ったものであるならば、国民を軽く見た代償は高くつくでしょう。 日本人は、それほど馬鹿では無いのですから。
さて、「専制君主」に例えられた「国民」ですが、国際社会での国益を考え、国家の将来を考える折には、「君子は豹変す」の例えどおりに、右から左へ、投票対象の選定を代える必要があるのは当然であり、民主主義の国ではよく見られることです。 例えば、ナチス・ドイツに屈服せず「英国の戦い」に勝利し、第二次大戦を勝ち抜いた指導者「チャーチル」を、戦後には、あっさりと引導を渡して労働党に政権を托したイギリスの国民は、田畑氏の御言葉を借りれば「専制君主」そのものです。 願わくは、国民の選択に難癖をつけずに、選んで貰えるだけの力量を身につけてこそ、この国難の時代に政権を任せるに足る議員であり、政党であるのです。
さて数年前に、民主党は、行政の無駄を省き、官僚制を国民本位のものに改変することをマニフェストに謳いましたが、一旦政権に就くや、反対に、官僚に取り込まれ、国費をばら撒き、無駄使いを増やし、国家財政を危機に晒して居直っています。 首相を始めとして閣僚が外国へ赴く度に、国家財政も考えずに「援助」や「補助」名目で国費の乱費が収まりません。 その挙句に、単年度予算で「歳入」に計上すべき「税収」を借金である「国債」が上回っているのを観ると、彼らが、果たして正常な神経で予算編成をしているのかどうかを疑います。
無駄使いの一例を挙げますと、第4次補正予算案にある「エコカー補助金」です。 車は、補助金等を貰わなくても燃費が良ければ売れるのです。 本当に見え透いた「トヨタ・日産補助金」に3千億円! 馬鹿ものめ! こんなことをしていたら、幾ら金があっても足りません。 この種の予算を挙げれば切がありません。 ざっと観るだけでも、数兆円の不要・不急の予算が挙げられているのを観ますと、腸が煮え刳り返るようです。 こんな予算を東北に向けられれば、同胞を救えるのにと。 本当に、予算の「仕訳」とは掛け声だけだったのですね。 安東氏ならずとも、例え消費税値上げに賛成すべき局面にあったとしても、民主党が政権にある間には、絶対に同意出来ません。 増税した結果、増税分がそれだけ無駄使いとばら撒きに消える運命にあるのですから。
その中で、国民への背信に耐えられずに脱党する議員を非難するのは、如何にも的外れと言わなければなりません。 何が何でも、自分が大事の「どじょう首相」には、そうした良心は無いのでしょうが。 この際に、もっと多くの議員に脱党してもらい、本来は政権の中心に座る予定であった小沢氏を中心として新党を作るのも良とせねばならないと信じます。 別に私は小沢氏を支持している訳ではありませんが。 このまま呉越同舟を継続していれば、民主党全体を国民は見捨てることでしょう。
最後に、もう一度言いますが、この国の国民は、馬鹿ではありません。
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