明らかにされた朝鮮人強制連行の真実、息をのむその過酷な実態
- 2010年 7月 6日
- 評論・紹介・意見
- 太平洋戦争強制連行書評朝鮮
今年は、日本による韓国併合から100年。朝鮮半島に対する日本の植民地支配は1910年から1945年までの35年に及んだが、その間の植民地支配の一端を明らかにした写真記録が刊行された。ノンフィクション作家、林えいだいさん(76歳)の『《写真記録》筑豊・軍艦島――朝鮮人強制連行、その後』である。日本人が知らない、あるいは知ろうともしない朝鮮人強制連行の真実が、半世紀にわたる林さんの追跡取材で明らかにされている。
本書によると、1937年以降、日本は深刻な労働力不足に陥った。この年、日本は日中戦争に突入し、軍需産業部門が拡大する一方で、工場で働いていた労働者が戦争で戦地に送られたからだ。とりわけ、九州の産炭地・筑豊では炭鉱労働者が次々と軍隊に召集され、石炭企業は労働力不足に直面した。
この結果、石炭生産量が極端に落ち込み、政府としても、朝鮮半島からの労働者の移入を考えざるをえなくなった。このため、政府は1939年、内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」によって各企業に朝鮮人労働者募集を認可、募集方式による労働者移入が始まった。
太平洋戦争になると、労働力不足はますます深刻になった。このため、政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を決定し、それまでの募集方式を改め、国家権力が直接朝鮮人労働者を“募集”する官斡旋方式にした。さらに、戦況が末期的な段階になった1944年には、労働力の充足がより切実な緊急課題となり、ついに国民徴用令によって朝鮮人を日本に連行した。
本書の中で、林さんは書く。「最大の問題点は、建て前としては募集方式であっても、現実には強制であったということである」。林さんは朝鮮から連行されてきた人たちから集めた証言を紹介しているが、それによると、日本に送る朝鮮人労働者については朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、面(村に相当)の募集担当者と日本人巡査が供出リストをつくった。
「たとえ募集方式であろうと、面事務所と面駐在所の巡査の二人がリストアップしたことは、そこに権力が介入したことになる。すでに募集ではなく、あくまで強制となる。該当者の中には、日本行きを逃れるために山奥に潜んだ。夜になると降りてきて畑仕事をし、夜が明ける頃には再び山へと帰る者がいたが、しかし、いつまでも逃れることはできず、駐在所の巡査に捕まり強制連行された」
林さんがソウルで知り合った朝鮮人は、太平洋戦争中、郡守として労働者の徴用にあたった。その人が林さんに話したところによると、徴用は朝鮮総督府から道庁に割り当てがあり、それを郡守に命令した。それを郡守は管轄の面に割り当てるが、山岳地帯が多いために集めるには限度があり、その郡守は徴発隊を組織すると、全員に竹槍を持たせて出動した。いきなり民家を襲い、働けそうな男たちを全員トラックに積んで帰り、炭鉱からきた労務係に引き渡した、という。
朝鮮人のほとんどは、炭鉱で働くことを知らされずに日本に連行された。そして、入山した翌日に坑内見学をして、2、3日休ませるとすぐ入坑させて採炭という無謀なことが行われた。
地下の深いところで石炭を採掘する作業は常に危険にさらされている。天井からの落盤、側壁の崩壊、ガス爆発、炭塵爆発、断層からの出水、炭車の暴走など、突然の事故によって大勢の生命が失われた。「坑内で最も危険な場所で、しかも生産量の上がらない切羽を、朝鮮人坑夫に採炭させた。当然のように朝鮮人の死亡事故も多くなる」と本書は書く。しかも、朝鮮人炭鉱労働者の賃金は日本人の約半分だった。
本書は、さらに続ける。「坑内での過酷な労働。体力回復のための休養と必要な食糧が十分与えられず不満が鬱(うっ)積した。二年満期で帰国させると約束しても、その保障は一切ない。絶望的な状況の中で朝鮮人坑夫たちが考えることは、炭坑から逃走することであった」
林さんによれば、1939年から40年にかけての時期、福岡県内には250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されていたことを田川警察署の特高主任と飯塚警察署の特高主任が証言している。「移入者数に対する逃走者の割合は福岡県全体では、五一・七パーセントに達している。強制連行した朝鮮人のうち、半数以上が逃走した現実は、それ自体が強制であったことの証明である。死亡者数は七一一人、不良坑夫の強制送還者数も一八二四人と非常に多いことに注目したい。単なる募集であれば、半数以上が逃走することは考えられない。さらに労働条件と待遇が最悪であったことの証しである」と林さん。
ここでは、最も過酷な炭鉱労働が行われていた例として、軍艦島の当時の状況が紹介されている。
軍艦島は長崎港外15キロにあった海底炭鉱・端島(はしま)炭鉱だった。採炭のために造られた南北480メートル、東西160メートル、海抜45メートルの人工島だ。島を高さ10メートルの防波堤が囲み、東シナ海の荒波がたたきつける。島の形が軍艦に似ているところから、「軍艦島」と呼ばれた。切羽は深いところで坑口から1キロ以上もあった。
本書によれば、採炭最盛期の1945年には約5300人にのぼる炭鉱労働者がいて、島から溢れそうだった。うち朝鮮人は強制連行者を入れて約500~600人。他に自由渡航でやってきた所帯持ちが約80人働いていた。中国人も捕虜ら204人が働かされていたという。そして「日本人坑夫の多くは、深部の急斜面の採炭現場はどうしても生産量が落ち、落盤の危険があるので敬遠した。結局、危険な場所には、朝鮮人と中国人が投入されたという」。
過酷な労働に耐えかねて、島からの逃走を試み、溺死した朝鮮人もいた。警察は監視を兼ねて野母半島(長崎半島)に警官を配置。警官は島抜けした者を見つけると逮捕した。林さんによれば「死を覚悟して続々と逃走しようとする坑夫たちを見た野母半島の人たちは『端島は監獄島』と呼ぶようになった」
端島炭鉱は1974年に閉山。今、廃墟になった軍艦島を世界遺産にしようという運動が長崎市で起こっている。
朝鮮半島から日本に連れてこられた人たちは、炭鉱ばかりでなく、鉱山、ダム建設工事、軍事施設などで働かされた。その数は全体で何人くらいだったろうか。林さんは本書の末尾で、日本政府の資料を紹介している。それによると――
公安調査庁 724,787人
厚生省勤労局 661,684人
第86回帝国議会説明資料(朝鮮総督府 724,875人
厚生省労務局 667,684人
朝鮮経済統計要覧資料 1,119,032人
政府資料によってもかなりの開きがある。なんともずさんな統計だが、いずれにしても110万から66万にのぼる朝鮮人が強制的に連行されてきたことが分かる。その多さに改めて驚く。
そのうえ、なんともやりきれない思いにかられるのは、この人たちの帰国時の状況だ。
日本敗戦により、日本政府は強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した。が、日本政府による配船の不足、毎日全国から集まる朝鮮人の受け入れ態勢の不備から、博多港の埠頭は大混乱に陥った。朝鮮人たちは持てるだけの荷物をもって船待ちをした。待ちきれない人たちは、闇船をチャーターして帰国しようとした。定員以上乗った闇船の中には、台風や嵐にあって沈没した船もあった。船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国をあきらめた人もいた。
本書の中で強制連行の経験を証言する朝鮮人は、いずれも本名で登場する。しかも、写真つきである。その写真はいずれも林さん自身が撮影したものだ。つまり、本書は、林さんが連行されてきた人たちからじかに話をきいてその実態を明らかにした記録で、伝聞に基づく記録ではない。したがって、その証言は生々しく、説得力をもつ。
林さんは筑豊生まれだが、父の寅治さんは神主だった。炭鉱から脱走した朝鮮人を多数かくまったことから、1943年に逮捕され、特高警察による拷問を受け、その傷がもとで釈放1カ月後に死亡した。48歳だった。
林さんの半世紀に及ぶ朝鮮人強制連行取材の原点には、こうした父の死がある。
本書を読み終わった時、この5月にジャーナリスト訪問団の一員として北朝鮮を訪れた折にこの国の外務省幹部が私たちに語った言葉を思いだした。それは「今年は、わが国が日本に占領され、植民地にされてから100年になるが、いまだにこの罪業が清算されていない」というものだった。朝鮮人強制連行問題はいまなお解決されていない。そう思わずにはいられない。
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