原発の存続だけは人々の意志で決めたいものだ
- 2012年 1月 7日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2012年1月6日 連帯・共同ニュース第211号
■ 昨年の暮れに割と親しかった友人が次々と亡くなった。僕らの年代になると櫛の歯が欠けるように周りの人が亡くなり野辺送りをする機会が増えるが、そのたびにこころに引っかかることがある。友人のことを回想し追憶に浸ることもあるが、忘却する(させられる)スピードも速くなっていることだ。「絆」が昨年の言葉であったが、現実はむしろ絆が困難にあるのではないだろうか。関係と言い換えてもいいが、関係の生成や保持が難しいのである。このことに考えをめぐらすと直接的な関係と非直接的な関係の間の距離が広がっていることにあるのではないか。直接的な関係は僕らの日常的な関係であり、具体的な関係であり、生の世界といわれるものだ。他方で非直接的な関係とは何らかの媒介を介した関係であり、政治や社会はこちらを本質として存在している。僕らの直接的な世界(生の世界と関係)は大きいのであるが、媒介を介した世界(政治や社会、あるいは歴史や社会)も大きく成り、かつ流れも速い。そして、僕らはこの二つの間の関係のつながりに距離感を感じているのである。政治や社会に僕らの声が届かず、関係のないところで動いているような実感を持たされているのもそこに原因があるように思う。
■ 昨年は世界の各地で直接民主主義をめざす運動が広がった。アラブの春から、ウォール占拠などの一連の動きである。経産省前テント広場の活動もその一つに数えられるのだろう。この直接とは直接的な関係の世界(生の世界)が、つまりそこでの人々の意志や声(実存から発する声)のことであり、それを政治や社会に反映して行こうということである。あるいは政治や社会を創り変えようとことである。僕らには少し前に沖縄から発せられた「琉球弧の自己決定権の樹立」という事が想起されるが、「経済よりも命」というのも同じことであると思える。女性たちの直接的な生の声が命と言う言葉になっているのであり、その反映なしにはどの様な政治や社会の変革もその構想も現実の肉体や精神を欠如した空想に過ぎないということを告げているのだ。東日本大震災や原発震災の復旧や復興に現地の人々の声が届いていないということも、このことの困難さを僕らに教える。脱原発の運動も原発震災から時間が経てば直接的な声は届きにくくなる。まして、社会は速く動き、辻から次へと事件は起こり課題は提起される。そうであればこそ、脱原発の運動の原点を自覚しそこに立ちかえり闘いつづけなければならない。そこにはこう記されているはずだ。原発の存続は人々の意志と声で決定されなければならないと。 (文責 三上治)
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