小出裕章2011年暮の言葉に思う (2)政治に支配される科学
- 2012年 1月 8日
- 時代をみる
- 小出裕章政治に支配される科学童子丸開
これは「小出裕章2011年暮の言葉に思う (1)弱者に犠牲を集中させる無責任エリート支配」 http://chikyuza.net/archives/18195 からの続きです。
小出裕章さんは科学者としての研究と活動をとおして、科学の持つ根本的な限界を味わわざるを得ませんでした。その「限界」というのは理論的なものでも哲学的なものでもありません。
科学は、この世に生きる科学者の手によって作られ為されるものです。科学はあくまで、科学者という人間とその集団によって作られる認識と活動以上でもなく以下でもないでしょう。人間である科学者から離れて科学は存在しませんし、科学者とその集団の持つ限界は必然的に科学の限界になります。
科学の研究には資金、道具や設備、それを動かすエネルギーが必要です。科学者が研究に集中できる環境とチームも必要です。おまけに科学者自身にしたってお金も地位も名誉もほしいのが当たり前です。そんな学者とその集団を成り立たせるためには、その研究の価値を認めそれを積極的に支える他分野の集団、特にそれを利用するために必要なものを与える人間集団とその組織、つまり政治や経済に携わる集団の存在が必要不可欠となります。科学は政治・経済と、良くも悪くも、離れることができません。これが現実で、政治の枠内でしか科学者とその集団が存在できなことが科学の限界を作るでしょう。
科学者と政治の関係について、一つの悲劇の例ですが、フランス革命のときに旧体制側の人間として処刑されたラボアジェという科学者がいました。英国のダルトンと共に彼の研究がその後の化学の基礎を作ったのですが、彼が革命前に旧体制の中で実入りの良い収税吏として働いていたのは研究資金を捻出するためと言われます。そして革命政府は「革命に科学者は不要だ」としてこの天才の頭を切り落としました。
もう一方の悲劇として(悲劇として見るかどうかは人によるでしょうが)核兵器を開発した学者たちがいるでしょう。これは2011年6月にバルセロナに来た村上春樹氏がカタルーニャ賞授賞式で紹介していたことですが、アメリカが日本に落とした原爆を開発したオッペンハイマー博士が、アメリカ大統領トルーマンに「私の両手は血にまみれています」と語ったそうです。彼がマクベス夫人のように夢遊病者としてさまよったかどうかは知りませんが、あらゆる良心を自ら殺して進んで政治の道具となるのが科学者の宿命なのかもしれません。
でもオッペンハイマーは自分の両手に滴る血を見ただけ、まだましな方だったしょう。原爆が武器であり人殺しの道具だったことが誰の目にもはっきりしているからです。きっと、核(原子力)の「平和利用」に血道をあげた科学者たちの大部分は、ウクライナやベラルーシ、あるいは未来の日本で、奇形のために生まれなかった子供たちや幼い命を失った子どもたち、健康と生活の全てを奪われた人々の涙を、自分の両手に見ることはないのでしょう。実際に我々は、2011年3月11日以来、日本と世界でそんな科学者たちの姿を見せつけられています。学者たちの集団はアメリカの核戦略の枠内で最初からそれに奉仕するように作られたのですが、それに貼り付けられた「平和」というありがたい呪文のおかげで、良心を痛める必要など感じずに済むからです。人間の良心など、逃げ口が用意されていればどうにでも消すことができます。
おまけに、日本の場合には明治政府の国策として科学振興があったわけで、科学者が国策の枠から逃れ得ない事情もあるでしょう。良くも悪くも、科学は政治から離れて存在することは極めて困難なようです。2011年暮に為された小出裕章先生の発言の中から、このテーマに関連するものをいくつか取り上げてみましょう。
(1)で取り上げたものと重なりますが、再度、同年12月26日に発表された日本国政府の事故調査委員会の中間報告に関する小出先生の声を聞いてみましょう。ただしここでは(1)とはやや異なる視点から眺めることにします。
ビデオ(音声)や、この話題についての詳しい内容や関連情報は、次の「ざまあみやがれい」様のサイトをご参照ください。
小出裕章が語る、政府事故調査委員会中間報告
「個人の責任を問わないで済むなんてことが私にとっては想像もできない」
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65782475.html
以下の小出先生とインタビューアーの発言内容は、ビデオそのままの文字起こしではなく、読みやすくするために細かい表現を少しだけ変えたり、途中を省略してつなげたりしている部分もあります。なおこの作業には上の「ざまあみやがれい」様のサイトにある文字起こしを同時に参照させていただきました。
【前略】
小出:要するに、一番大切なことは事故の原因をきちっと明らかにするということだと私は思ってきましたし、これまで日本の政府あるいは電力会社は、事故はひたすら津波のせいで起きた、地震はもう何の関係もないということで、宣伝をしてきたわけです。で、本当にそうかどうかということを検証して、この地震国という日本でこれでいいのどうかということを考えなければいけなかったはずだと思うのですが。・・・残念ながらそれに関しては何も触れないまま、ということになっているようにみえます。
水野:地震での大掛かりな破断などは現時点では確認できていないと…。
小出:はい、それを確認するのが仕事だったと私は思うのですが…。
・・・
小出:ただ、この委員会は、畑村さんをヘッドにする委員会、いわゆるテクニカルな専門家は誰もいないという、・・・もともと、原発のテクニカルのことをきちっと分かる人がいないわけですから、まあ、始めからこういう結論になるんだろうなと、私は思っていました。
水野:地震でどの程度の破損があったのかということを、きっちり確かめないことには原因が確定できないわけで。・・・じゃあそれで、いろんなこと論じても意味ないですね。
小出:まあそうですけど、委員の方々がですね、テクニカルなことに関しては、いま聴いていただいたように専門的知識をお持ちでないわけだし。結局ですから制度的にどうであって、連絡体制がどうであった、ま、そういうところしか……興味がなかったというか明らかにする力がなかったということだと思います。
・・・
水野:いくつも細かいポイントで伺うべきところ、あるんでしょうが、私、個人的に引っかかりましたところはですね、小出先生が早くからこれ不思議なんだとおっしゃっていらした3号機の謎がありまして。これは、水素爆発の前日、3月13日にですね。高圧の注水の系統…、水をどんどん入れていく…、で、これが必要なわけですけど、この水を入れていくそのシステムが動いてたのを、運転員が停止させたっていう事実がありますよね。で、なんで止めたんだろうと。それを知りたいと、小出先生、早くからおっしゃっていたというふうに覚えているんです。
で、今回の報告書を見ますとですね、この止めたということについて、誰がその情報を知っていたかと、いう話は触れられているんですよ。停止の判断は幹部に上がっていなかったと、いうふうに報告書は指摘してまして。東電は…いえ、対策本部とこの情報を共有していた、といってるので、ここはコミュニケーションについての見解が食い違っているんです。ただ、なんで止めたかという、小出先生が仰っている根本的理由についてはですね、謎については、答えが読み取れないんですけれど。
小出:はい。私もそうでした。…私はそれは、高圧注入系の配管が破断したがために使えなくなった、それを知った運転員が止めたんではないかということを疑ってきているのですけれども。そういう現場というか、実際に起きているテクニカルな問題の解明ということを実はやって欲しいのですけれども。結局その、連絡体制とかですね、組織的な問題だけに、今回の委員会は終わってしまったということだと思います。
【後略】
この放送(ビデオ音声)を聞きながら、私は思わず、あの世界を揺るがした大事件に関する調査委員会の報告書を思い出してしまいました。2004年にまとめられたアメリカ議会の911事件調査委員会報告書(9/11 Commission Report)です。
このアメリカの委員会は日本の「311畑村《失敗学》委員会」などとは比較にならない強く厳しい法的な権限を持って作られたものですが、しかし「テクニカルな専門家は誰もいない」という点はどちらにも共通しており、「連絡体制とか組織的な問題だけに終わってしまった」という意味でもほとんど瓜二つと言ってよいものでしょう。ただこの911委員会では、CIAやNORADといった国家機関から出された資料と証言にいくつもの重大な虚偽が明らかになり、事件直後にアメリカ政府が大嘘をついていたことがこの委員会を率いた人々によって明白にされました。さてさて、我が日本国の委員会を率いる人々はいったい何を明白にしてくれるんでしょうね。まあ、何の期待もせずに待っておきましょう。
で、どうして911委員会報告を連想したかをもう少し詳しく説明します。上にあげた点の他に、どちらの国の委員会でも、物証や物理的現象を記録した資料のチェック、そしてその分析や原因追究といった、即物的で単純な作業を徹底的に無視している点が共通して見られます。それは「テクニカルな専門家がいない」ことだけではなく、委員会自体に最初からそのような即物的で単純な作業にたいする関心がまるで存在しないのです。
フクシマでは地震発生直後にどのような物理的な現象が記録されているのか、それに関する証言はどうなのか、その現象の原因は何かといった実に単純なテーマを、もう意図的にとしか言いようのないほどにみごとに欠落させています。それは上の小出先生の話で十分に分かることでしょう。
では911委員会報告ではどうでしょうか。こちらの『911委員会報告書は自己崩壊を開始した』の一部を引用します。(リンクや強調などは全て外しています。)
【前略】
911委員会報告書には、最大の犯罪現場であるWTC地区で大量の物的証拠を破壊し、ビル崩壊の原因追及を極めて困難にしたFEMAとニューヨーク市当局の行為の過ちが、1行たりとも指摘されていない。委員会はそれらの機関に残骸の撤去について問いただすことすらしなかった。また報告書には、WTC地区やペンタゴンで写真に記録される、エンジンやランディング・ギヤと思われる物体など、凶器と化した飛行機の残骸を回収しながら、そのほとんどを一般に公開せずその分析記録すら残さなかったFBIの怠慢について、全く触れられていない。委員会はそれらの「残骸」の分析記録の提出を求めることすらしなかった。報告書は、ペンシルバニア州シャンクスビルの草原にある奇妙な穴を、一片の疑いも無くの「UA93便墜落地点」としている。彼らは航空写真や地上写真を検討する(させる)作業を行おうとしなかった。WTCツインタワーの崩壊で起こった具体的な事実はことごとく無視されている。崩壊以前の飛行機激突や避難誘導の状態には一応触れているのだが、崩壊の開始から崩壊後の粉塵の発生にいたる過程を、委員たちは、専門家に問いただすことはおろか調べてみようとすらしなかった。さらに粉塵と汚染された空気による撤去作業員や消防署員、警察官などが受けた被害について、何の関心を抱くことも無かった。タワー崩壊5時間後に突然の崩壊を起こした第7ビルについては、ついに1つの単語すら書かれることはなかった。
私は驚きを禁じえない。これほどに犯罪現場とその物的証拠や映像・写真による証拠を軽視して、いかなる事実の真偽判定を行うというのだろうか? この「報告書」はいったい何の報告をしているのだろうか?
・・・
ファーマー氏の著書が「動かぬ真実」となることが出来るのは、ただただ、物的証拠と確実な事実の記録を投げ捨て、文書化や音声化された資料と証言の中から一つの筋書きに沿ったものだけを選択して採用し、その他を投げ捨てた結果としてである。なるほど。これなら、この理論化の達人の手にかかれば、すべてが一貫し完璧に一つの筋が通り、「911委員会報告書は絶対に正しい」ものとなる。当たり前だ。「正しくする」ためにふさわしい資料のみを、選択して採用したわけだから。
【後略】
委員会自体が、最初から物的証拠や物理的な事実に何の関心も持っていない…、というよりは、事件当日の事件現場での物的証拠や物理的な事実を実に注意深く避けた、としか言いようがありません。そして日米ともに、様々な資料から「一つの筋書きに沿ったものだけを選択して採用」します。911事件では「イスラム・テロであった」という筋書き、フクシマでは「津波で事故が起こった」という筋書きです。
そしてそれらの筋書きはどちらも当然のように「それは予見することも予防することもできなかった」、したがって「関係当局者に責任はなかった」、非難されるべきは、一方はイスラム・テロリスト、他方は想定外の津波であった、という結論を導くものになるでしょう。ゆえに今後の課題としては、一方は国外でテロリストを根絶するまで戦争をし国内で警察国家化を徹底させる、他方は津波対策を十分に施して原発の使用を継続する、というようなものになりますね。まさしく「太初(はじめ)に結論ありき」なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。
そして911事件で最も恐ろしいことは、科学技術の専門家たちの圧倒的多数が、その科学的な手段と表現を用いた調査と追及を、自ら進んで、その結論と筋書きの範囲内に限定してしまったことです。その結論と筋書きにふさわしくない物的証拠や、実際に起こった物理的な現象の正確な記録とデータを徹底して無視しました。そのうえで、その結論と筋書きにはふさわしいが事実による検証が不可能であるような仮説を、断定的に世界に押し付けました。
私は911事件について、世界貿易センターの3つのビルが崩壊した現象を調査した科学者たちの言動を見て、またそれに対する日本と世界中の科学者・技術者たちの反応を見ながら、なるほど、「正統派」の科学者は政治家の一種、「正統派」の科学は国家の目的を成り立たせるためのテクニカルな理論、および社会に向けた詭弁の一種なんだな、と感じざるを得ませんでした。こちらをご覧ください。
『911事件10周年?違う!証拠が10年間放置され続けるのみ! いま我々が生きている虚構と神話の時代』
東京大学の児玉龍彦教授はあるテレビ番組で「原子力学会や政策の失敗は、専門家が国民に本当のことを言う前に政治家になっちゃったことだ」と述べています。しかし、311フクシマにせよアメリカの911事件にせよ、「カネ・暴力・嘘」の圧倒的な権力を背後に控えた「正統派」の科学者というのは初めから「政治家」なのであって、国民に本当のことを言うなどありえないわけです。最初から政治目的のためになら平気で嘘をつく存在なのです。それに抵抗しようとする学者や技術者たちもいるのですが、いかんせん脇に追いやられる微力な少数派です。おまけに、巨大な権力をバックにして、様々なレッテルを貼って少数派を口汚く罵り社会的排除を促す「政治神話の憲兵」たちが、主要メディアとネット上にあふれています。
311フクシマ「事故調査委員会」は、しょせんは911委員会の再現、それも何の法的拘束力をも持たない茶番、喜劇的な再現に他なりません。
科学が一般的に「客観的・中立的」と考えられているのは、それが、それに関与する人間の立場や私利私欲とは無関係な対象を取り扱い、科学者が自分の私利私欲に基づく主観を抑えてその研究の対象と取り組んでいる(と信じられている)からでしょう。同時にまた、その取り扱う対象が基本的に客観的な事実や現象だからです。
具体的な物体そのものは人間の私利私欲や立場とは無関係にそこに存在します。またたとえば自由落下(空気抵抗すら受けずに重力に従って起こる落下)という現象はそれを観察する人間の願望や期待とは無関係に起こります。ですから、科学者が自分の立場や私利私欲から離れて何かを研究しようとするなら、実際の具体的で物理的な物体や現象、そしてそれを正直に記録しているデータを扱えばよいことになるでしょう。それは実験によるデータの収集とか、事実を正確に記録する資料の分析によって、実現できるはずのものです。
先ごろ急逝した現代世界を代表する科学者の一人、リン・マーギュリス博士はこの点について次のように述べています。
『現代世界最高の知性の一人 リン・マーギュリス博士、科学と911事件を語る』から引用します。
私は過去、つまり自然界の歴史を、具象的だとされる手がかりから再現しますが、それがまさしく、我々が9・11でビルが崩壊した原因を再現する仕方です。つまり、具象的な手がかりを取り上げることです。
・・・
科学について最も重要なことはそれが知るための方法であるという点です。そしてそれは誰にでも実行可能な認識の方法です。
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そしてどんな科学的な行為でも、結局は仮説を説明する証拠を集めることだということにみんな同意するでしょう。そしてもしその証拠が仮説と矛盾するなら、それを棄てて別の仮説を探さなければなりません。そして誰でも、仮説を調べそれを確固たるものにする際には、関連ある証拠の全てを考慮しなければなりません。
・・・
証拠が取り除かれたなら起こったことを再現できる科学者は誰もいなくなります。証拠を奪い取られるなら科学的な研究はできません。
マーギュリス博士は科学というものを、あくまでも具体的な物体や現象によって一つの出来事の原因や法則を追究するものだと考えているようです。世の中には、特に「文科系」と呼ばれる人たちは、何か科学用語とか数字とかが書かれていて小難しい理屈がこねられていたら「科学的だ」と考える場合が多いように思えます。もっとひどい場合には、「みんながそう思っているからそうなのだ」とばかりに、多数決で決めることを科学的だと考えている人すらいるのではないかと恐れます。もちろんそうじゃないですね。「関連ある証拠」の全てと付き合わせながら、仮説をチェックし、証拠と合うわなければ廃棄し、新たな仮設をたて・・・、と進めていくのが科学だ、それが科学的な方法論なのだと、博士は言っているわけです。
ところで、911事件で起きた世界貿易センター(WTC)の3つのビルの崩壊を調査・研究した米国国立標準技術院(NIST)の科学者たち、米国連邦緊急事態管理庁(FEMA)の委託を受けた科学者たちはどんなことをしたのでしょうか。詳しくは『911事件10周年?違う!証拠が10年間放置され続けるのみ! いま我々が生きている虚構と神話の時代』に書かれてありますのでそちらをご覧いただきたいのですが、ここで非常に簡単にまとめて言いましょう。
まずほとんどの物的証拠がアメリカ国家当局の手によって破壊され失われました。次に、NISTとFEMAの調査に携わった科学者たちが、ツインタワーの崩壊開始から終了までの事実を正確に記録した資料・データの一切を無視して、調査報告書から崩壊途中の有様を全て省略しました。NISTにいたっては、その報告書を崩壊開始の直前で終わらせたのです。ビルの全面的な崩壊の正式な実験など誰も何もやっていません。つまり、物的証拠を破壊する(それを黙って見過ごす)、資料を無視する、資料の分析もデータ収集もしない、実験をしない…。これが科学者たちによる「事件調査」です。
そのうえで彼らは、具体的な物証と資料・データによっては一切裏付けることの不可能な仮説を立てて、それを「ツインタワー崩壊のモデル」としました。NISTが作ったWTC第7ビルの崩壊モデルは自らのビデオ分析にすら反したものだったのですが、彼らは現在に至るまでそれを修正していません。
マーギュリス博士はどう言っているのでしょうか。
これは科学ではありません。犯罪以外の何なのでしょうか。先入観によるアイデアを証明しようとするもので、モデル作りに使うことのできるデータを何も持たないのに、歴史上全く前例の無いようなビルの崩壊のモデルを証明するというのです。そこでは科学が成り立ちません。それは悪い科学ではなく単に科学ではない。これが私の主張です。
・・・
彼らがやっているのはプロパガンダとか宣伝とかそんなことであって、科学なんかではありません。
科学の中立性と真実性を最後まで信じていた博士は、「良い科学とか悪い科学とかの区別はない。科学か、科学ではないのかの区別があるだけだ、と主張しました。アメリカの公的機関でこの事件の調査に当たった科学者たちのやったことは、単純に科学ではなかった、単純に政治プロパガンダ以外の何ものでもなかった…と。
そして実際に911事件以降のアメリカや、311フクシマ以降の日本で我々が目にするのは、科学なんかではないプロパガンダとか宣伝とかばかりをやっている大勢の科学者の姿です。そしてそんな科学者のやることを「科学的」と持ち上げる「政治神話の憲兵」たちの姿です。マーギュリス博士は、政治にいとも簡単によりすがって科学を投げ捨て、自らプロパガンダの道具と化していく科学者たちに憤っているのですが、しかし現実には政治に支配される科学というのが圧倒的な現実であり、いくら博士が「それは科学ではない」と言ったところで、「いやいや、科学とはそんなものだ」という声が返ってくるばかりなのかもしれません。
科学者が政治から独立することはできないのでしょうか。政治の道具にならない科学は存在しうるのでしょうか。ここでもう一度、小出先生が出演されたラジオ番組に耳を傾けてみましょう。
小出裕章が語る本音「放射能の問題でもなければ原子力の問題でもない」
「弱者が虐げられているという、そのことだけですよ」
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65783081.html
【前略】
水野:先程、内部被ばくについて矢ケ崎先生に伺った時に、来年は政治に支配されない科学を打ち立てたいとおっしゃったんです。政治に支配されない科学というのがしっかりしてもらわないと困るんですけど。小出先生、科学の世界でそうした動きというのはできそうですか?
小出:矢ケ崎さんは大変まじめな学者ですし、矢ケ崎さんの思いは分かりますけれども、現在の学問の世界は多分、それを許さないと私は思います。みなさんは科学というとですね。無色透明で中立で、本当に真実を求めるものだと思われているのかもしれませんが、残念ながら科学というのはそんなものではなくて、社会の中でしか、もちろん発展の方向がありませんし、きちんと歴史の流れの中でどういう科学だけが発展するかということはきちっと決められているのです。ただ、それに抵抗しようとする方、もちろん矢ケ崎さんもそうですし、いなければいけませんし、いて欲しいと思いますし、私もその一端にいたいと思いますけれども。そう思う人たちの力というのが、科学の中で、本当にその中立で真実を求めるものとして実現できるかといえば、残念ながらそうではないという歴史がずっとありましたので…。
近藤:本当にそう、先生がおっしゃる意味での科学であれば、核のゴミが100万年もそのままほったらかされるということはあり得ないことですよね。
小出:そうです。こんなものをやるなんてことはあり得なかったと思うし、原爆だって、私は本当ならできなかった筈だと思うのですけれども。ようするに、戦争なら戦争という時代の中で、科学がそういう方向にしか発展させられなかったということが…歴史なのです。
【後略】
矢ケ崎博士は先ほどのマーギュリス博士と同様に「中立で真実を求める科学」を信じているし、またその社会的な実現を目指そうとする学者の一人なのでしょう。しかし実際の科学の歴史はそういった意思を持った科学者の敗北の歴史でした。そして小出先生は自らの40年の個人史を「敗北の歴史」としてかみ締めています。それがどうしようもない現実だったわけです。また、私がこの考察の最初に述べたように、実際に科学者の活動には膨大な援助が必要なのです。それ無しで科学の研究は1日とても成り立たないでしょう。そしてその援助者がある政治的な目的を持っている以上、政治と切り離された科学など、本質的に存在不可能と言わざるを得ないでしょうね。
理想的な言い方かもしれませんが、(1)で申しましたように、社会エリートが厳格な責任を背負う社会でなら、少なくとも弱者を痛めつけ殺すような科学は存在できなくなるでしょう。「科学者が政治から独立することは可能なのか?」という問に、私は「No」と答えるしかありません。ならば、政治の関係者と科学の関係者が共に、経済やメディアや司法などの関係者を含めて、弱者(非エリート)を痛めつけずその最低限の生活と人間としての尊厳を保護するという目的とそれを実現させる責任を、自ら明白にして活動するしか方法が無いのではないかと思うのですが、どうでしょうか? 一言で言えば「社会正義の実現」です。マハトマ・ガンジーが目指したもの、マーチン・ルーサー・キングが目指したものです。
資本主義の最も重大な欠陥はこの「社会正義」をその経済活動から外してしまったことでしょう。そんなものを背負っていては窮屈でしょうがない、ということなのでしょうが、彼らはその「社会正義に対する責任の除外」を称して「自由」と名付けました。その最も進化した形がネオリベラル(新自由主義)でしょうが、それは、政治、産業・経済、科学、報道、軍事、保安などの各社会分野の「自由」つまり無責任を一つの巨大な体系として結び付けたものです。
しかし、もうその資本主義が世界中をボロボロにしつつある現在、「お金様は神様です」を脱却して、(1)でも申しましたが、「お客様は神様です」という精神を具現化させる資本主義のあり方が求めなければならないように思います。同時に、政治的にはせっかく形骸だけでも「民主主義」という言葉があるのですから、あらゆる分野でのエリートが下層に対する厳しい責任を背負う「弱者様は神様です」の政治、本当の意味での民主主義が、資本主義の変化と共に作られる必要があるでしょう。その過程で科学も、少なくとも弱者を傷つけないものに変わっていけるのではないか、などと私は夢想します。
まあしかし、そのためには弱者が賢くなる必要があるでしょう。メディアの多くが弱者を愚かなままにさせている現状では、百年河清を待つことになるかもしれませんけどね。(余談ですが、スペインに住み着いている日本人でたまに一時帰国した人が口をそろえて言うのは、日本のテレビのバカ番組はひどすぎる、スペインのテレビの方がよっぽどましだ、ということです。)しかし、私は現状のような社会的不正に対して抗議の声を挙げ続けるでしょうし、変化を主張し続けるでしょう。せめて死ぬまでは人間らしくありたいからです。
最後に、515(キンセ・デ・エメ)シリーズの『第8話(最終回):旅人に道はない。歩いて道が作られる。』にある締めくくりの部分を再掲させていただきます。
我々は歴史の旅人である。そして15M(キンセ・デ・エメ)は長い旅の出発点の一つに過ぎない。泥棒とヤクザと詐欺師の世界を終わらせる旅は世界中で始まった。その旅人に道はない。歩くにつれて道が作られていく。途中で死ぬ人がいれば、子どもたち、孫たちがその先の道を作っていく。何世代かかろうとも人々は歩き続けるだろう。
(2012年1月6日 バルセロナにて 童子丸開)
http://doujibar.ganriki.net/fukushima/independence_of_science.html より転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1774:120108〕
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