「である」ことから「する」ことへ、原発再稼動を許さぬ市民の政治を!
- 2012年 2月 2日
- 時代をみる
- 加藤哲郎原子力原爆原発
2012.2.1 「青空文庫」に入っているSF作家海野十三「敗戦日記」1944年1月1日に、「1月ではない、13月のような気がする」という話が出てきます。敗色濃い東京で、毎日米軍の空襲におびえる日々の続く新年のことでした。その伝で言えば、いよいよ「14月」でしょうか。例年この時期は、1月末のアメリカ大統領一般教書演説、世界経済フォーラム(ダボス会議、WEF)、世界社会フォーラム(WSF)の定点観測に当てるのですが、どうも力が入りません。強い地震が1月も頻繁で、マグニチュード7クラスの首都圏直下型地震が「4年以内に70%」という東大地震研究所の試算が、現実味を帯びてきます。東北沖「日本海溝」の東側の海底で規模の大きな地震が起きやすい状態になっているとも(右図)。北日本は大雪、東日本大震災のさなかに長野県栄村でも大きな地震がありました。その被災者が、仮設住宅の雪下ろしの最中に梯子から転落して死亡するという理不尽。東日本の地震/津波/原発事故被災者の仮設住宅には、お年寄りが多く入居しています。インフルエンザも流行中、暖房は大丈夫でしょうか。原発被災者への補償は、なかなかすすみません。失業保険が切れた人も出てきて、寒さがひとしおです。国会は消費税増税一色で、外では怪しげなロートル新党話、政党政治の機能麻痺が、被災地・被災者を直撃し、おいてけぼりにしています。そのうえ今頃明るみに出た、昨年大震災・原発事故時の議事録未作成という話。政府の緊急災害対策本部にも、原子力災害対策本部にも、被災者生活支援チームにも、公文書管理法に定められた議事録がなかったというのです。本当でしょうか。隠されたか破棄されたのではないでしょうか。あの旧ソ連の共産党政権でさえ、政策決定の行政文書・議事録はきちんと残され、その記録=旧ソ連秘密文書の解読によって、私は数十人の日本人スターリン粛清犠牲者の御遺族に、無実の処刑の事情や命日をお伝えすることができました。2万人近い大津波の犠牲者、30万人以上の避難者、10万人以上といわれるが実数がつかめない原発避難民の記録ーーそれらに責任を持ち、歴史により審判されるはずの国家中枢の失態の記録が、失われてしまったというのです。世界への恥辱であり、後世への侮辱です。防衛省沖縄防衛局の宜野湾市長選介入の話とあわせ、この国の民主主義は、発展途上国なみとみなされるでしょう。
1月27日の枝野経済産業相の記者会見、「夏に全国で稼働している原発をゼロと想定し、今春にも対応策を公表する方針を明らかにした。原発の再稼働が難しくなっているためだ」とあります。これ、朝日新聞では26日の独占インタビューです。27日閣議後記者会見のロイター電は、「原発稼働ゼロでも「夏乗り切れる可能性」=枝野経産相」と中身に即して報じていますが、朝日のウェブ版は、「今夏、原発ゼロを想定 枝野経産相、制限令は回避」の見出しで、「枝野氏は「(今夏は)原発がゼロになる可能性はある」との認識を示した」と述べています。「今夏、原発ゼロを想定」も「ゼロになる可能性はある」も、ある状態を記述しただけです。見方によっては、「だから再稼動が必要だ」「火力のために電気料金値上げもやむをえない」と続きかねません。なぜ「ゼロにする」という政策的決意を引き出せなかったのでしょうか。もちろん枝野大臣のガードが固かったのでしょう。しかし、どうも朝日新聞自体が「脱原発」に確固として踏み出せない、曖昧さを表現しているようです。「であることとすること」とは、よく入試問題にも出る丸山眞男『日本の思想』の名言です。いまではこの言葉だけで、wikipediaに立項されています。「である」価値から「する」価値へとも言われるように、伝統から近代へ、認識から行動・参加への主体的意味も込められています。政治には、まさに「である」Aから「である」Bへと「する」主体的営為が求められるのです。3・11からまもなく1年、政治の停滞・失速は、致命的です。永田町が、霞ヶ関と原子力村の抵抗・巻き返しにあって動かないのなら、市民が自ら「する」こと、行動に出るしかありません。アメリカのWall Streetから始まり、今も続く99%市民政治のように。すでに140日以上続いている、経産省前テント村に集う、福島のおかあさんたちや若者たちのように。そのテント村の強制撤去が狙われています。撤去すべきはテントではなく原発です。2月11日、全国一斉!さようなら原発1000万人アクションがあります。東京では、1時から代々木公園B地区です。大江健三郎さん、山本太郎さんらが発言します。
故高木仁三郎さんの9つの「原子力神話」にならった、10の「原爆・原発神話」の検証、前回は「日本人の核アレルギー」を取り上げました。英国シェフィールド大学東アジア研究所グレン・フック教授の論文「言語の核化(ニュークリアライゼーション) : 政治的陰喩としての核アレルギー」(『広島平和科学』1984年7号)、オーストラリア国立大学テッサ・モリス=スズキ教授の英文報告ペーパー「The Atomic Shadow on Japanese Society: Social Movements, Public Opinion and Possible Nuclear Disarmament」(2009年9月)にヒントを得て調べると、「核アレルギー」という表現があらわれる最初は、1964年8月29日『朝日新聞』夕刊ワシントン支局松山幸雄特派員送信「米、日本の自発的協力を喜ぶ」という記事でした。当時の荒瀬豊・岡安茂祐「『核アレルギー』と『安保公害』ーーシンボル操作・1968年」(『世界』1968年9月号)からは、アメリカ原子力空母の寄港問題が「核兵器の持ち込み」と海洋の放射能汚染という「軍事利用」にも「平和利用」にも通じる問題を喚起し、佐藤内閣の「核アレルギー」の多用は、「非核3原則」の裏での沖縄返還交渉「核密約」と結びついていたことを知りました。ちょうど、被爆者森滝市郎と原水禁国民会議が「核と人類は共存できない」という、原爆にも原発にも反対する核絶対否定の立場を確立する時期でした。ただし、「核アレルギー」という言葉には、「日本人の病気」というニュアンスと「治癒=核保有」というイメージが、つきまといます。この点まで踏み込むと、ひどいというか、やはりというか、アメリカ国務省/諜報機関の診断でした。『中国新聞』昨年7月23日「被爆国の原発導入背景、米文書が裏付け」を読むと、1954年のビキニ水爆実験での第5福龍丸被爆のさい、米国国務省極東局は、大統領あて極秘覚書で「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析し、「放射能」に関する日米交流が「日本人の(核への)感情や無知に対する最善の治療法」になる、と指摘していました。典型的な「病気/治癒」の論理です。中曽根康弘・正力松太郎主導の「原子力の平和利用」=原発導入とは、まさにこの、ヤブ医者の誤診による麻薬の注射だったのです。
続いて、「唯一の被爆国」の神話解体に、取り組んでいます。本サイトでは、ずっと「カッコ」つきで使ってきました。もともと盟友袖井林二郎さん『私たちは敵だったのかーー在米被爆者の黙示録』(岩波同時代ライブラリー)や春名幹男さん『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)からも、「唯一の被爆国」の誤りは自明ですが、なぜかくも長く使われるのだろうか、という疑問です。今日では「ヒバクシャ」は、ウラン採掘から核実験、原発事故も含め世界中に広がり、福島の経験からすると、中国・インドを含むすべての原発保有国が「ヒバクシャ」を産み出そうとしているのに。そこで私は、空間的広がりよりも、時間的流れを追うことにしました。占領期の新聞雑誌を網羅し、昨年「占領下日本の『原子力』イメージ 」報告のさいに絶大な力を発揮した、プランゲ文庫の「占領期新聞・雑誌情報データベース」には、「唯一の被爆国」はありません。「被爆」そのものも25件で、「被爆者」も「被爆地」も2件だけです。1946年7月『短歌長崎』に「被爆ののち」という短歌集が入っていますが、あまり定着しなかったようです。広島・長崎は「アトム都市」などと呼ばれていました。森滝市郎さんの日記や中国新聞社編『ヒロシマの記録 年表・資料編』などを追いかけて、あることに気付きました。占領期は、放射能の後発性症状・内部被爆がGHQの検閲で隠ぺいされていたこともありますが、「被爆」そのものは、1945年8月6日広島と9日長崎の地域的「事件」に限定してイメージされ、どうやら「被爆国」という観念はなかったようなのです。中国新聞社編『ヒロシマの記録』によると、もともと米国の教会からはじまった「ノー・モア・ヒロシマズ」運動が、48年原爆3周年に浜井広島市長の世界160都市宛メッセージに使われました。国家を介さない、直接世界へのアピールです。『中国新聞』などは、その後も「被爆地」を強調しますから、「被爆国」になるには、原爆を投下された「日本民族」という意識と、ビキニの水爆実験による「死の灰」=放射能体験が加わることが、必要だったようです。奥田博子さん『原爆の記憶』は「唯一の被爆国」を神話とし、その脱構築をはかっていますが、8月6日新聞社説で「原爆の唯一の体験者である日本人」と述べたのは『朝日新聞』が1955年であり、『毎日新聞』が翌56年8月「唯一の被爆国であるわが国」、『読売新聞』では59年「世界でただ一つの被爆国日本」が初出だったようです。この「広島」と「日本」をつなぐものは何だったのか? どうやら、戦後日本のナショナリズム再生の物語になりそうです。以下の探究は、次回更新で。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1809:120202〕
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