坂本進一郎氏「TPPは日本を日本でなくする」
- 2012年 2月 13日
- 時代をみる
- TPP坂本進一郎諸留能興
先月末、2012[H24]年1月25日付の全日農機関誌『農民新聞』(第1905号)第二面に掲載された、秋田県大潟村・坂本進一郎(全日農ネット会員)氏の「TPPは日本を日本でなくする」と題する投稿を、執筆者の坂本進一郎氏及び農民新聞社の承諾が得られましたので、以下、全文掲載・転記します。
※なお、文中と坂本氏の原稿以下に続く[*註:]は、坂本進一郎氏の原稿には無く、私(諸留)の補足です。
——以下、坂本進一郎氏の投稿———-
「TPP[*註:1]は日本を日本でなくする」
TPPに、私は『不安』より『恐怖』を感じている[*註:2]。
その理由は2つある。最大の理由は、日本は外交がヘタだ[*註:3]ということである。古い話で恐縮だが、日本が満州事変を起こしたのは、1917年の石井菊二郎(日本の特命全権大使)、ロバート・ランシング(アメリカ合衆国国務長官)協定[*註:4]で満鉄の権益を認めさせたのに、その5年後のワシントン会議で、蒋介石とアメリカのタッグにより満州の領有権は中国にありとひっくり返された[*註:5]からである。これで政治解決は難しくなった。とすれば、満州の権益を放棄するか、武力に訴えるしかない。政治の無力が軍部の台頭を許し、満州事変となった[*註:6]。そして、負けると分かっていながら、日米開戦に突っ走った[*註:7]。
戦後の外交はアメリカの言いなりだ[*註:8]。それは日米安保条約第2条のせいでもある。同条約第2条には、両国の経済政策ルールの違いを防ぐと明記されている[*註:9]。
これによって、日本は次々とアメリカの農産物を受け入れてきた[*註:10]。グレープフルーツ、オレンジ、牛肉、米と、そのつど指定され、輸入させられた。満州事変と満州国建国で有名な石原莞爾[*註:11]は、敗戦後間もなく、著書『人類後史へ出発』で、「日本は疾風怒濤の時代を迎える。アメリカは自己の善と信ずる生活文化、様式、思想を滝のごとく注いで日本をアメリカ化せんとするのは明らかである[*註:12]」と書いている。今、日本は骨の髄までアメリカ化させられていることを思えば、石原の洞察力に、私は脱帽している。
TPPはアメリカの言いなりになる最終局面[*註:13]だと思う。この押し付けに対して、日本の政治力は無力であり、『恐怖』を感じるだけである。
では、この間、EUは何をしてきたか。WTO交渉では『食肉一括方式』をアメリカに認めさせ、したたかなところを見せている。これは馬肉を含めたあらゆる肉類の合計の5%を輸入すればいいというものだ。そして、EUは馬肉を肉類合計の70%強も輸入し、全体の輸入量が5%になるように調整したのだ。これにより、ヨーロッパで日本の米に相当する基幹農業である酪農を守ったのだ。日本もこのやり方にならって『穀類一括方式』とすれば、米は輸入しなくても済むことになる[*註:14]。
ヨーロッパの農村は実に美しい。その見事な農村の蔭には、たくましい外交力があることを考えておくべきだろう。フランスのドゴール大統領は「食料自給なくして独立なし」と言った。日本の首相でこのような言葉を吐いた人がいるだろうか。[*註:15]
『恐怖』の2つ目は行き過ぎた自由貿易というか、規制緩和[*註:16]だ。かっての戦争も指導者がないまま1人歩きし、ついには日米開戦となり、結局惨めな結果となった。[*註:17]
今日のTPPも、農地面積が千倍のオーストラリア、百倍のアメリカと競争しようというのだから、初めから負けは分かっている[*註:18]。菅直人は平成の改革と言ったが、門戸を開ければ米価は下がり、農家の困窮は明らかだ[*註:19]。そうなれば大企業にやらせればいいと、農地法の緩和を言い出すに違いない。結果、さらなる規制緩和が進むだろう。昔は軍部様、今は大企業とアメリカ様[*註:20]というわけだ。
いずれすべての分野の規制をなくすというから、TPPは日本の文化、様式、思想までもブルドーザーでなぎ倒すように破壊し、日本を日本でなくしてしまうに違いない[*註:21]。
秋田県大潟村・坂本進一郎(全日農ネット会員)
——以上、坂本進一郎氏の投稿———-
この投稿の筆者である坂本進一郎氏のいる秋田県大潟村は、かっては「八郎潟」と呼ばれた、秋田県中央部よりやや北部の、日本海に着きだした男鹿半島の付け根に位置する東西12キロ、南北27キロ、面積22,024ヘクタールの、琵琶湖に次ぐ、日本第2の広大な内湖でした。
南西端に位置する船越水道で、日本海に通じる「気すい湖」でした。シジミ貝をはじめ、魚介類も70種以上と、漁場としても豊かな湖でした。しかし戦後の食糧不足を解消する「国策」として、全国的にも農地造成政策が推進された1950年代の半ばの1956(昭和31)年に、農林省(当時)は、オランダの対外援助機構の技術協力を得て、1957(昭和32)年「国営八郎潟干拓事業計画」を策定完成させ、同年工事に着手した。私(諸留)が小学校5年生の時だった。また、後述するように、全国一斉に「原子力の平和利用展」も、まさにこの1950年代半ばから、華々しく展開し始めた時期とも、ピッタリ重なっていた。
工事が進み、私(諸留)が大学(農学部)に入学した1966(昭和41)年に、八郎潟の排水工事が完了し、地面が現れる、いわゆる「干陸」が出現した。その後も「新農村建設事業」の一環として、最終的には、20年の歳月と、約852億円もの巨額な国費を投じたこの大干拓事業は、1977(昭和52)年3月に完了した。
子どもの頃、寒い冬の朝に、「フーフー」吹きながら飲んだ暖かい味噌汁(秋田弁では「おづげっこ」といいます)からは、あの美味しいかった八郎潟のシジミ貝の姿も味も、消えていったのも、その頃だった・・
秋田県の農民は、東北地方、他の5県の農民と比べ、地味が豊穣なせいもあってか、性格的におっとりした、穏やかで、控え目な、純朴な性格の農民が多い中で、この八郎潟周辺地域の農民は、昔から際だって自己主張のはっきりした、気性も激しい土地柄として、小作争議など、農民闘争の歴史でも、秋田県内でも、際だった地域でした。
そんな八郎潟周辺の農民を押しのけるかのように、全国から入植希望農家が、先を争うかのように殺到し、入村し、米作を中心の大規模大型農業経営が始まりました。1961年[昭和36年]の農業基本法制定で本格化した基本法農政のスローガンの一つだった「農業経営の選択的拡大」を地で行くモデルケースとして、八郎潟での大型農業は全国農民の期待を集め、注目されました。
しかし、その期待も長続きはしませんでした。その後の食糧管理制度の廃止、自主流通米制度の始まり、米食中心からパン等米以外へと、日本人の食生活パターンの変化などの影響で、米の需要が減衰し始め、古米、古々米に代表される米の過剰問題が声高に言われ、夫れと連動して、食料自給率の減少も進行し、ついに減反・休耕を国が現場農家に強制的に割り当てる事態にまで至った。
こうした日本人の主食の座から米が駆逐されていった背後に、アメリカの対日小麦輸出強化という強力な外交戦略の思惑が、敗戦直後の食糧難時代から強力に働いていた事実を私(諸留)が知ったのは、迂闊なことですが、それよりかなり後の1080年代に入ってからでした。戦後の食糧難という、「相手の弱み」につけ込む形で、小麦やトウモロコシ、乳製品を中心とする、アメリカ産農産物を大量に日本国内で消費させることで、アメリカ政府もアメリカは農家も潤おうという、戦略を仕掛けていたのです。
当初は、食糧不足の解消を!という目的でなされた国策として発足した大潟村でしたが、減反政策強行という180度アベコベの農業政策に変わった結果、希望を持って大潟村に入植した農家は、そのあおりを受け、クルクル目まぐるしく変わる「猫の目農政」に翻弄され続けることとなります。
国の減反強制で「青田刈り」の強制執行を、体を張ってでも阻止した勇気ある入植農民も、次第に世間から忘れられていきました。
[*註:1]
上記の坂本氏の文は、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定 Trans-Pacific Partnership、またはTrans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement の略称)という国策(外交政策)によって我が国の農家、農民が翻弄され、犠牲にされる問題を語っているだけではありません。ここで書かれている「TPP」を、上記で述べた「八郎潟干拓事業」に置き換えても、そっくり当てはまる構造です。更に、アメリカ主導で開発・設計・製造・運転開始後のメンテナンスまで一括して輸入されてきた、日本の今日までの原発の輸入と導入の「国策」にも、全くそっくり当てはまることを念頭に置いて読んで下さい。
[*註:2]
同様に、原発に対しても『不安』より『恐怖』を感じる点でも共通する。
[*註:3]
戦前の日本外交のヘタさが、朝鮮や満州への開拓入植移民の悲劇を招き、戦後のアメリカ追従一辺倒の対米ペコペコ外交が沖縄基地化と原発密集ニッポン国を産み、福島第一原発事故の悲劇を招いた点でも共通する。
[*註:4]
世に言う「石井・ランシング協定」。アメリカの中国政策と日本の特殊利益との間の妥協の為の協定。日本の対華21ヶ条要求に対し「不承認政策」を取るアメリカと日本両国政府の合意点とされたのは「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸開放または商工業に対する機会均等主義」であった。
一言で言えば、「平等を装った」日本とアメリカ二人が中国という「美味しい餌」を分け合い「共喰い」し合う為の協定。しかも、日本の中国に対する「特殊権利または特典」は除外され、満州・東部内蒙古に対する日本の利益(=侵略)をアメリカも承認した協定でもあった。
当然、この協定に対し、中国政府(中華民国政府)は抗議を表明した。
これを原発に置き換えれば、アメリカ政府や米国内原発輸出企業と我が国に原発誘致を画策する政府と旧財閥系原発関連巨大企業が、「原子力の平和利用を装った」日米両国政府と原発業界が、日本市場を「共喰い」し合ったことで、「放射能に対する安全対策」は除外され、核燃料ウラン採掘現場での先住民族や原発作業員、さらには日本国民の放射能汚染や内部被曝を承認した原発推進政策とも、構造的にも一致する。
[*註:5]
ワシントン会議で、蒋介石政権とアメリカの間で満州の領有権は中国にありと「ひっくり返された」ことは、アメリカにとっては日本はいつでも「棄て駒」とする相手国でしかないことを端的に示す好例。原発もまた然り。アメリカにとって原発が国策に沿わないと判断すれば、いつでも日本の原子力政策を見限り放棄することも明白。後には、放射能に汚染させられた日本国民が放置されるだけ。
[*註:6]
戦前の場合は「政治の無力が軍部の台頭を許し、満州事変となった」が、強引で、場当たり的な戦後の原子力政策が、福島第一原発事故となった。原子力発電は、文字通り「核兵器無き核戦争」と言われる所以。
[*註:7]
「負けると分かっていながら日米開戦に突っ走った」ように、「放射能汚染は回避できないと分かっていながら原発開発、原発導入に突っ走った」点でも共通。
[*註:8]
戦後の日本外交は、日米安保条約同様、原発推進でも、アメリカの言いなりであった。湯川秀樹氏や武谷三男三氏らの提唱した「自主・公開・民主」の原子力三原則も完全に空洞化された。安保問題と(カッコ付きの)「原子力平和利用」が、核エネルギーの産軍利用という共通項を持つものであることが分かる。
[*註:9]
日米安全保障条約第2条:「自由主義を護持し、日米両国が諸分野において協力することを定める。」が正確な条文。「諸分野において協力する」の「諸分野」には、外交や・軍事作戦のみならず、「政治」「経済」「文化」「思想」など、あらゆる分野での「ルールの違いを防ぐ」イコール「日本国民1億総アメリカ化」であった点でも共通。
[*註:10]
牛肉や米がアメリカやそれと同盟する国々の提供する核燃料であり、グレープフルーツやオレンジが原子炉に付属する圧力容器や放射能除去装置、非常用冷却装置など・・その他の関連付属施設であった。設計から建設、メンテナンスに至る全てを GE に委かせ、完成後に日本に引き渡す「フルターンキー方式」でアメリカの原発を、次々と受け入れてきた点でも共通。
[*註:11]
石原莞爾:明治22年(1889年)1月18日~昭和24年(1949年)8月15日。山形県鶴岡出身の旧日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。一時期、京都深草にあった京都第十六師団長も勤める。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者。東條英機と対立し予備役に追われ、病気のため戦犯指定を免れる。『世界最終戦論』『人類後史へ出発』等の著作がある。
[*註:12]
石原の「日本は疾風怒濤の時代を迎える。アメリカは自己の善と信ずる生活文化、様式、思想を滝のごとく注いで日本をアメリカ化せんとするのは明らかである」の指摘は、敗戦直後の1945年[昭和20年]から現在の2012年[平成24]年の現在に至るまでの日本国民大衆の精神的風潮を、正確に言い当てている。
アメリカの提唱する科学や文化や価値観や豊かさを根元的に問い直す精神的営みを、放棄し、アメリカの価値観に洗脳されつづけた66年の行き着いた先が福島第一原発事故であった。
[*註:13]
原発事故で喘ぎ苦しむ真っ最中の時期に、その日本国民に対して、TPPという追い打ちを更にかけるアメリカのやり方は、日本国民のいのちと健康を脅かす放射能だけでなく、いのちを養う源である食料までも押しつぶそうとするものだ。まさに「最終的局面」と言っても大げさではあるまい。放射能の恐怖と同様、それ以上に恐ろしい産業構造の歪みにも恐怖や危機感を感じない日本人大衆の、鈍感さに坂本氏のように『恐怖』を感じる者は極めて少ない。
[*註:14]
坂本氏のEUの、ここの指摘は、少し問題が残る。
日本でもEUにならって『穀類一括方式』にすれば、確かに、米は輸入しなくても済む(あるいは輸入量を大幅に削減し得る)であろう。しかしそれによって、EUの馬肉生産者がしわ寄せを被ったように、国内の米以外の穀類生産農家が、そのしわ寄せを被るという問題も生じる。
米作りを主体とする農家に好都合ではあっても、そのしわ寄せを、米以外の他の穀類生産農家に負担させるようなことは、理想的解決法とは言えない。アメリカ産米の輸入拒否を、堂々と正面からアメリカに向かって打ち出すべきであろう。
原子炉に関して言うなら、再処理核燃料の引き受け量を増やす代わりに、使用前の核燃料輸入量を減らすというような対応策が姑息であるのと同じ。
[*註:15]
フランスではドゴールが「食料自給なくして独立なし」と言ったのに対し、日本では国立大学農学部の農政学教授ですら「農産物国際分業論」を堂々と講義している始末!
[*註:16]
行き過ぎた自由貿易や経済活動の規制緩和が福島第一原発事故の要因の一つになっただけでなく、我が国の若い世代の労働者たちの非正規雇用の増大という、深刻な社会問題にまで発展している。
[*註:17]
福島第一原発事故での、かっことした事故対策や事故処理での指導者がないまま、結局は、回避できたはずの被曝すら阻止できなかったという惨めな結果となった点でも共通する。
[*註:18]
対外的にも、アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国の超五大国の独占的核兵器・原発保有独占国に対抗し反(脱)原子力発電所を闘っても、初めから負けは分かっている。
国内的にも、政府、独占巨大資本、自治体、テクノクラートの原子力ムラ集団を相手に、反(脱)原子力発電所を闘っても、初めから負けは分かっている。しかし、敗北を認めることは希望を棄てることでもある。
巨大資本を相手の闘いは、負けは初めから分かっている。しかし「核兵器無き核戦争」に、最後まで、闘っていかねばならない。むなしい闘いと分かっていても、それでも闘わねばならない点でも、共通している。
[*註:19]
核エネルギーの平和利用で豊かな生活を・・の掛け声を政府・自治体・大企業が叫んできたが、ひとたび圧力容器や格納容器が裂ければ、高濃度汚放射性物質が飛散し、国民のいのちが脅かされるのも明らかな点でも共通する。
[*註:20]
昔は軍部、天皇陛下様、今はアメリカ産業、アメリカ文化、原子力産業に群がる巨大財閥様・・でも共通。
[*註:21]
原発を従来通り、このまま規制なしに、あるいは尻抜けだらけの規制強化の「だまし」に国民が幻惑され続けるなら、TPPが日本の文化、様式、思想までもブルドーザーでなぎ倒し破壊し、日本を日本でなくしてしまう・・ように、それと同じように、原発もまた、日本国民のいのち、健康、ふるさとの草も水も山も川も海も・・生活様式や、思想までもブルドーザーでなぎ倒すように、放射能によって根こそぎにされ「根こぎ」され、破壊されし、日本を日本でなくしてしまうことも確かだ。
【終わりに】
八郎潟干拓事業が始まった頃、当時秋田県農業試験場の稲作病虫害課長で、稲作栽培技術指導官を勤めていた父に連れられて、何度か八郎潟干拓工事現場まで連れてもらったことがあった。
「オランダから来た技師の世紀の大工事が始まった!」という父の言葉に、小学生だった私の胸も高鳴りを覚えたことも、懐かしい思い出だ。しかし、その父も「ここは海水も混じってるから、その塩気を抜くのには、3年も5年も経るだろうなぁ。それまでは米はまずダメだべなぁ・・」と呟いていたもの耳の底に残っている。
丁度その頃、「原子力の平和利用」を謳い文句とした、国内一大キャンペーンもほぼ同じ時期に、同時進行していた頃と重なっていた。
輝かしい未来への期待と信頼の空気も、しかし、そう長くは続かなかった。干拓工事事業は完成したものの、その後襲ってきた減反政策のあおりを受け、入植農家は次々と失望して大潟村を去った。かろうじて残った農家は、大型大規模農業経営の為に購入した大型機械の返済に喘ぐ、負債農家へと転落を強いられた。「機械化貧乏」という言葉が流行り出したのもこの頃からである。
パイロット・ファームとして華々しく打ち出された、北海道の根釧原野の酪農農家育成も、同様、経営難から次々と離農農家が増えていった。
それは原発導入によって、目に見えない放射能汚染が、日本列島各地に拡散し始め、原発労働者が国民大衆の目の届かない場所で、確実に被曝し、倒れ、労災補償も無く、殺され始める1970年代~1980年代の時期と、まさに、ピッタリ重なっている。
一部の豊かな大規模農家を除き、日本列島の僻地の農林水林産業の第一次産業は、着実に衰退していった。その衰退した農林水林産業の第一次産業の、まさにその僻地に、正確に照準を定めて、全国の九電力会社が原発を次々と建設させていった。
東京電力福島第一原子力発電所の敷地は福島県双葉郡大熊町と双葉町の境界線上に位置しており、東京電力福島第二原子力発電所の敷地も、福島県双葉郡楢葉町、富岡町の二町の行政境目上に位置している。新潟県の東京電力柏崎刈羽原子力発電所も、新潟県柏崎市と刈羽郡刈羽村の2つの行政区域の境界線上に位置している。これらは決して偶然ではない。
かって旧幕藩時代には、隣接する村落は相互に助け合う、密接な村落共同体であったのが、互いに相手の自治体へ転がり落ちてくる「原発交付金」を、羨望の眼差しで羨み合う、対立と競争心と限りないカネへの欲望を駆り立て、競わせるための、巧妙に仕組まれた村落共同体への分断を意図し、周到に計算された上での「線引き」であった。
こうした事が端的に物語るように、1970年代から本格化し始めた全国の原発建設ラッシュ期は、まさに、全国農山村過疎地域での農民同士の足の引っ張り合いと、その必然としての、地域共同体の崩壊を招き、それはとりもなおさず、農業生産活動の衰退期と、軌を一にしている。農林水産業の失敗、農業政策の貧困と低迷が、福島第一原発事故を有無、遠因となっていることは、否定できない確かな事実である。
日本の産業構造の根本的な構造的問題が、原発事故の根底にあること、目には見ないが、根深くはびこっている太く、しつこい「地下の根脈」が横たわっていることも、見逃してはならない重要な視点である。
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