湯川秀樹博士の発言・・再考
- 2012年 2月 14日
- 交流の広場
- 原発湯川秀樹諸留能興
澤山保太郎氏(現在、高知県東洋町町長)
の「反核の町は福祉の町に変わった」と題する文章を、
アヒンサー『未来に続くいのちのために原発はいらない 第1号』
PKO法『雑則』を広める会発行2010年7月26日初版
という小冊子の2頁~12頁に掲載されています。
この澤山保太郎氏の文の中で、湯川秀樹博士に関する、
非常に興味深い、重要な事柄が述べられています。
私(諸留)は、以前、の原子核エネルギーの研究や応用に関して、湯川秀樹博士がどういう考えであったかについて述べました。前回までは、生前の湯川秀樹博士は「原子核爆弾には終始明白に反対を表明されたけれど、原子力の平和的利用(具体的には原発)にははっきり反対を表明しなかったのでは・・」と、推測しました。
しかし、今回、偶然発見した、以下の、澤山保太郎氏(現在、高知県東洋町町長)の「反核の町は福祉の町に変わった」と題する文章に書かれていることが、もし、事実とすれば、湯川博士は、核兵器だけでなく、「原発も原爆も同じであり、両者とも、コントロールできない危険なものである」と、生前、はっきり言明なさっていたことが、明らかになり、見逃せない、重要な発言と思われます。
なお、この澤山保太郎氏は、1943年1月17日生まれで、2010年7月現在、高知県東洋町町長現職であり、また「玄海原発プルサマール裁判を支える会会長」としても精力的に頑張っておられる方です。
——以下、前掲小冊子の7頁~8頁の該当箇所—
「原爆と原発は同じ」
・・・原発というのは巨大な原子爆弾の装置だととらえています。全国各地に生々しい原爆の装置を白昼堂々と露出しているわけです。原発と原爆はどう違うのか。
学生時分に湯川秀樹博士のシンポジウムに参加したときに、湯川博士は、その当時、原子力委員を辞めたか、なんかの時だったと思いますが。はっきり答えました。原発も原爆も同じなんだと、こういうものはコントロール出来ないものであると。危険だと。こういうようなことを、記録には残っていませんが、私の耳に残っておりますが、そういうふうにおしゃったんですね。
湯川博士以上に、原子力のことを知っている人はいないと思います。湯川秀樹博士を、僕は非常に立派な人だと思っています。信念の人だと思っています。そういうことで、私は、原発というものに対しては、根本から反対だという考えであります。
——以上が前掲小冊子の7頁~8頁の該当箇所—–
この澤山保太郎氏の発言がもし事実だとすると、湯川秀樹氏がこの発言をした「湯川秀樹博士のシンポジウム」が開催された時期は「湯川先生が、原子力委員を辞めたか、なんかの時」だったという箇所から推測すると、1957年3月以降ということになる。
しかし、1943年生まれの澤山保太郎氏は、1957年当時では、14~15歳の筈であるだから、
「湯川秀樹博士のシンポジウムに参加するような学生」であれば、1957年より、更に6~7年ほど後年の、澤山保太郎氏が20歳前後であろうから、澤山保太郎氏の記憶が確かであれば、このシンポジウムが開催された時期は、おそらく、1962~1963年以降ということになる。
私(諸留)が、過日送信した、『京都新聞』紙上に2011年(H23年)10月20日(金)「原発と国家」第5部 独走いさめた湯川氏 (1)政府と科学者の以下の記事と、照合してみることで推測できる。
—–以下、『京都新聞』2011年(H23年)10月20日(金)「原発と国家」第5部 独走いさめた湯川氏、の記事—–
・・・1956年1月4日に首相官邸で「原子力委員会」の初会合が開かれ、初代原子力委員会委員長に、国務大臣正力松太郎が就任し、湯川秀樹博士も同委員会の委員として参加した。しかし「基礎研究の必要を認めない正力松太郎らの方針」に、湯川秀樹博士は「もう辞める」と憤った。湯川スミ夫人の説得で辞任を思いとどまった湯川だが、正カペースで進む原子力委員会は気の重い仕事だったようで、「性に合わない」と愚痴をこぼし、しばしば胃痛を訴えたという。
日本学術会議は1954年4月、「情報の完全な公開」「民主的な研究体制」「外国に依存しない自主性」の、いわゆる「原子力利用三原則」を条件に、原子力研究推進にかじを切る。湯川は政府の監視役を期待された。放射性物質の危険性を知る湯川には「災害防止に万全を期さなければ」との思いもあった。
1956年5月、米国に先んじて商業発電を始めた英国の黒鉛炉輸入を強行した正力松太郎や政府に対し、湯川は随筆で「イネを育てる下地をつくっている時に大きな切り花を買ってくるという話では困る。『急がばまわれ』だ」といさめたが、政府の原発導入の独走は止まらなかった。1957年3月に導入が確定的になると、湯川は体調を理由に委員を辞任した・・・
—–以上、『京都新聞』2011年(H23年)10月20日(金)「原発と国家」第5部 独走いさめた湯川氏 より—–
これと照らし合わせることで、問題の湯川発言がなされたシンポジウムが開催された時期は、1962~1963年以降ということが解る。
同時代に、このシンポジウムに参加した方で、もしまた生存なさっておられる方で、同様の趣旨の湯川秀樹博士の発言を聞いたことを記憶しておられる方が、もし、いらしゃったら是非、私(諸留)まで、お知らせ下さい。
しかし、湯川秀樹博士は、これまでもたびたび紹介したように、核兵器廃絶運動には非常に力を注ぐ一方、原子力の平和利用そのものには疑いを挟むことはなかった、とする見方をする者も多い。1960年には原子力委の核融合専門部会長を務めたのも、核エネルギーの平和的利用を期待したからではなかっただろうか?
実際、長く湯川の傍にいた慶大名誉教授小沼通二氏も
「核兵器廃絶の決意は固かったが、原子力政策の批判を聞いたことはない」
と証言している。
湯川博士が書き残したものを調べても、はっきりと「原発も原爆も同じであり、こういうものはコントロール出来ないものである」と明記した資料は、私(諸留)も、いまだ未発見である。
もし、「原発も原爆も同じであり、こういうものはコントロール出来ないものである」と湯川博士が
明記した文や資料を発見なさった方は、是非、私(諸留)まで、お知らせ下されば幸いです。
ともあれ、澤山保太郎氏が耳にしたことが、事実であれば、澤山保太郎氏も言う通り、湯川秀樹博士は、非常に優れた科学者であったと、私も思う。
これに関し、私はいつも思い出す言葉がある。それは、
「人間とその運命に対する配慮が
常にあらゆる科学技術の
よりどころでなくてはならない・・」
という、アルバート・アインシュタイン博士の
言葉である。
真の科学者や技術者とは、こうした
アインシュタイン博士のような明確な「思想」を
はっきり持っている人である。
アインシュタイン博士は、周知のように、ユダヤ系のドイツ国籍であったが
ナチの迫害を避けてアメリカに移住した人である。
科学者としての信念からであろうか、特定の宗教や信仰は持たなかったことは
言われているが、ユダヤ民族の伝統的な思考が
彼、アインシュタインの思索の根底に深く根付いていることは
彼の多くの書き残した言葉からも、明白に伺える。
ニュートン力学を越える理論をうち立てながらも
量子力学的確率論的法則性を、認めることをためらった言葉として
「神様はサイコロをお振りにはならない」という
ジョークともとれる、彼の有名な言葉があるが、
ここからも、彼の思想の根底に豊かなユダヤ教的思考が伺えて
興味深い・・。
しかし、今の日本には、こうした透徹した、明確な「思想」を
キチンと持っている科学者や技術者は、ごく少数を除けば
ほとんど見あたらない。
素人には、難しい専門的理論や技術論に精通した科学者、技術者だと
「錯覚させ得る」ような科学者、技術者は
真の科学者、技術者ではなく、
単なる科学屋、技術屋でしかない。
人間とその運命に対する配慮を欠落させ
とりわけ、未来のわたしたちの子孫の
運命に対する配慮を欠落させ
現在の自分たちの世代の快適さと便利さしか
思考しようとしない・・そんな科学屋や技術屋は
科学野郎、技術野郎でしかない
澤山保太郎氏が言うように、
「湯川博士以上に、原子力のことを知っている人はいない」
というのは、少なくとも、
日進月歩の、いや秒進分歩の・・原子核物理学の世界に関して言うなら、
現在では、もはや、通用しない。
湯川博士以上に、原子力のことを知っている人は、いくらでも存在する。
しかし、湯川秀樹博士が、「非常に立派な人であり、信念の人だった」のか?否か?
その確認は、湯川博士の到達した知識ではなく、彼の思想が
いかなるものであったかで、決定されるべきである。
そうした意味での湯川秀樹博士の「思想」がいかなるものであったかの調査は、
今後も、私(諸留)は追求し続けていきたいと思っている。
P.S.
前回、湯川秀樹博士に関連し、武谷三男批判をした際に「原子力の『応用』はいけないが、『研究』であれば許される。『研究』と『応用』を区別しない諸留の議論(主張)は間違いである・・」との、御指摘(御批判)を、数名の方から頂戴しました。
原子力に限らず『研究』と『応用』を区別するという名目で、実に多くの「政治的」「政策的」研究が遂行されてきている数々の事例があります。
このことからも、そうした批判は、全く無意味であることを、ここで指摘しておきます。
一例・・政財界人らのよく行う「○○政治経済研究会」なるものは言うまでもなく、「放射線医学総合研究所」なる研究機関が代表的な「原発ムラ」機関であり、市民無視の高圧的な傲慢な研究所であることも、過日のニュース報道からも証明できます。
このように、「研究」の名の下に、露骨な政治機関として機能しているものは、いくらでもあるのですから、上記のような「研究」と「応用」区別論が誤りであることも明らか!!
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