山路愛山 : 時勢の変化に応じた考えを――先人の営みから――(3)
- 2010年 7月 13日
- スタディルーム
- 歴史の効用民衆史観野沢敏治
歴史の効用について
過去のことを知ると、今ではどうなんだろうと気になる。そうなれば歴史研究は一つの現代研究となるだろう。言うまでもないが、歴史がじかに現在の問題に答えてくれることはない。幕末から明治維新のころは、日本が欧米中心の世界史の動きに触れて巻きこまれそうになった時であるが、その時のことを知ったからといって、今日のグローバリゼーションの本体を解明してくれることはない。そう期待するのは歴史に対する誤解である。歴史研究の意義は過去とは異なる今の状況に対して、もっとぼうっとしていても確かなものを得たいと思わせることである。時間は休みなく流れていく。あんなにも心を奪われていたのに、やがてその記憶は薄れ、眼の前のささいなことで頭はいっぱいになる。そういう日常のなかで歴史から学ぶことは、あることを先人から託されたという思いを忘れまいとする意志でもある。私はこの連載で比較的記録されている人の言葉や行動をとり上げるが、それは有名でよく知られているからではない。「無名」でも、いや無名だからこそ、価値あることをしている人は日本のあちこちにいる。私はそのことに想いを致しながら、名のある人であっても改めて自分でその値打ち見つけてみたいと思う。あるいは時をへたために消え入りそうになっているものを浮かび上がらせてみたいと思う。知られている人の「無名」性に出会いたいのである。
さて、前回の田口卯吉論では鉄道論を材料にして、田口が上からの文明開化に対抗して下からの自由主義と企業経営を実行していったことを見た。これは日本資本主義の発達史において生じた一問題である。こういう彼であるから、「政商」は批判される。政商とは政府とつながりをつけて独占的な経営をする経済人のことである。代表は三菱財閥の祖・岩崎弥太郎のような富豪。政商はかの福沢諭吉のように独立自尊を大事にする者から批判され、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』のなかでも毛嫌いされている。一般にわが国では文化人は経済嫌いである。大学の文学部で経済といえば、生きていくのに基礎的なことと認めつつも、ガリガリの非精神的な行為とみなされがちである。経済人が小説の主人公になることはあまりない。その経済嫌いを作った一つの元が政商の誰はばかるところのない金もうけであった。でもこの政商を人間的な好き嫌いで見るのでなく、冷静にその成立を必然的なことと観察したのが、今回とりあげる山路愛山(1865―1917年)である。愛山は先祖に天文方の家系をもっており、クリスチャンとなる。愛山は号であって、本名は弥吉。彼の財閥弁護からわれわれは何か得るものがあるだろうか。
日本史にも民権の歴史あり
山路愛山は平民主義者である。平民主義者には彼のほかに徳富蘇峰や竹越与三郎らがいる。彼らは明治の中期から活動しだす。中期は初期に対する反動時代と言える。明治初期の日本は矢継ぎ早の制度改革の時であった。江戸幕府が大政奉還したのを受けて、5カ条の誓文・版籍奉還・新貨条例・廃藩置県・全国国勢調査・学制頒布・徴兵令発布・地租改正…と、後に徳富蘆花が振りかえったように、それまで着ぶくれていた衣服を一枚、二枚、三枚というように脱ぎ捨てていった。そして自由民権運動に至るまでその革新は続く。それはそれは壮観な眺めであった。ところが、明治14年に国会開設の方針が定まると、人心は一変する。復古が起きる。政府はそれまで自ら文明開化の先頭を切って実学や知識を尊重していたが、今度は儒学や国学を重視して国民を忠君愛国の臣民にしようと方針を転換する。国家主義が出てきて、自由民権の天賦人権に代わって国賦人権が唱えられる。森有礼はアメリカから帰国した時には男女同権を唱えていたのに、その後でヨーロッパから帰国した時には武士道の兵学教育を主張する。東大総長の加藤弘之は最初、天賦人権を唱えていたが、やがて皇室を第一とする国賦人権論者に変質する。福沢はこの国家主義に対抗して弟子を全国に派遣して独立自尊を広めていく。その福沢とは別に国家主義に対したのが平民主義である。
平民主義は民権を主張するが、福沢や田口の個人の自由主義と異なって、公共精神や義務をも強調する。まあ、常識的と言えば常識的な思想であって、なにかに一辺倒になることはない。堅固な思想の構造もない。丸山真男のような思想史研究者からは思想的に徹底していないと、評判は良くない。その民権を主張するにしても、西欧的に「天賦人権」を抽象的に説くのでなく、実証主義的である。民権はヨーロッパだけのものでなく、日本の歴史のなかに実際にあったと論じるのである。(ここで一言。抽象的なものだからといって意味ないことはない。何らかの価値が現実に実現していなくてもそれを求める時には現実を超えるものに拠らざるをえない。地上になければ、天に訴えることになる。)その内容も近代的な諸人権でなく公共に関することである。日本人は古代の大化の改新いらい、平安の摂関政治や鎌倉の執権政治等をへて、江戸時代の名主・町人の台頭に至るまで、実権を握ったものが名目上の権力者を自分の意向に合わせて換えてきた。政府を自分の意向に合わせる自由を実現してきた。この考えの底に通じるものは「天下は天下の天下なり、一人の天下にあらず」であった。これが平民史観といわれる。
この平民史観が西洋渡来の民権論・社会契約論とどう関連するか。民衆の間での伝統思想は近代的な自覚に生かしうるか。戦後、色川大吉が明治の自由民権論のなかに両者が同時に追求されていた例を発掘していたが、そのことが思いだされる。また田中正造のことを思い出してもよい。正造は足尾銅山の鉱毒公害を告発した。明治政府はそれに対して谷中村を遊水地にすることで鉱毒を薄めようとした。この谷中村廃村に反対して計画地内に居座る村人が出た。彼ら残留民は都市民と違って伝統的な共同体の考えをもつ。先祖代々の家意識をもっていた。それにもかかわらず、いやそうであったからこそ、自分の代で田畑家屋敷を失っては御先祖様に申し訳ないと、国家の強制収容に最後まで対抗していった。このことを思い出してもよい。こういう伝統 → 近代に一つの可能性を認めることは、しかし、今日でも思想史研究の主流とはなっていない。
この歴史「事実」重視の姿勢は理論よりも現実を重視する態度とつながる。愛山は福沢や田口の主張と反対に、上からの開化や政商の活躍にはちゃんとした理由があったと論じていく。現実にはそうであったのである。彼はその上で経済倫理を考えていく。このことをここで展開するのであるが、その前に「現実的」ということに別の観点から付言しておく。
付言 マキャベリズムは単なる権謀術数のことではない。
日本は幕末に西洋の列強から通商を求められる。その時は列強のナショナリズムが跋扈しており、国際正義や対等交渉を求めることは難しかった。そのなかで日本は日清・日露と2度にわたってヨーロッパの帝国主義的進出にたいして防衛線を築くことに成功する。この間、日本は日清戦争後に得た遼東半島を清国に返還するようにとドイツ・フランス・ロシアの3国から干渉を受けた。内村鑑三はそれに際して、力に対するに力をもってする政策は問題の解決にならないと考え、非暴力の戦争反対を唱えた。愛山は反対に、そんなものは理想であって非現実的だと批判する。国際正義の確立のためには最後の手段として力を用いるべきだと主張する。内村と愛山とはたしてどちらが現実的であったかは簡単には決められない。愛山の現実主義は現実の既成事実に負けてしまう危険を含むが、彼の現実主義には国際間における一国の自立について考えさせるものがある。彼はこう言うのである。
現在ヨーロッパの列強は3国干渉で分からされたように、新参者の日本に嫉妬している。だから日本は孤立する。日本はこの現状に対して他国に同情や好意を求めて同盟を求め、援助を乞うべきか。マキャヴェリは何と言っているか。――同盟しても相手の同盟国がもし戦いで敗れれば、それは自国にとって負担となる。反対に同盟国の相手が戦いに勝てば、今度は自国を制するように立場を変えるだろう。だから安易に他国と同盟を結ぶな。またマキャヴェリはこうも言っている。――イタリアは自立のためには、同盟国からの傭兵をもって勝つよりも、自国の兵を用いて負ける方がまだよい。(これは他国から「愛さ」れようとして媚びを売ったり、交際術を駆使することを戒めたもの。)イタリアは自国の運命を自覚してそれを自分の身に引き受けよ、自分の腕の力(ヴァーチュ)に頼って自立すべきである。甘い期待を捨てよ。以上がマキャヴェリズムである。マキャヴェリズムといえば、目的のためには手段を選ばない、倫理など糞くらえの権謀術数の考えであるとみなされていた。今日でもそう受け取られているであろう。愛山は違う。政治に「愛」はいらないというのでない。相手に愛を求めるのは政治にとって禁物なのである。
「富と徳」:大企業は変化した現代資本主義にあわせて社会化すべき
本題に戻る。愛山は彼の平民史観でみたようにものごとを歴史的につかむ。その上でどうすべきかの道徳を考える。こういう歴史主義の方法は時代の変化を捉えるということである。それが彼の『現代金権史』(1908年)によく現われている。この本は彼の他の史論書、『現代日本教会史論』や『社会主義管見』(1906年)と一体をなしている。頁を開いてすぐわかるように、自分の体験したことをも組み入れ、その書きぶりはまことに生彩を放っており、学術書ではとても味わえないものである。『金権史』のなかの「政商論」や「新道徳の現出」に聞いてみよう。
明治になると、みんながお金、お金と言うようになる。拝金主義の世の中になる。それは道徳的でないが、いつまでもそのままでいいか。愛山はこの問題に答える。彼はまず初期の明治政府による上からの経済開発を認める。岩倉具視や大久保利通がやったことを認める。当時の国際情勢は列強が次々とアジアに進出し、日本はそのなかにあって一国を維持し自立させねばならなかった。そのためには田口卯吉のように社会から経済人が育つのを待つ(自由主義の真髄)余裕はなく、国家が急いで介入せねばならなかった。愛山は維新の当時にあっては、官庁なくして町人だけでの文明開化は不可能であったと見る。旧時代からの町人では見識が狭く、世界の状勢を見渡す者はほとんどいない。他方、武士は世界の知識はあっても足の実行力がない。こんな時勢では政府が出てこざるをえない。政府は武士を見渡して知識があってものの分かる者に眼をつけ、それを保護する。そこに「自から出来たる人民の一階級」が出現する。彼はそれを「政商」と名づけた。岩崎弥太郎や三井家の者がそれに当たる。状況は「国家自ら世話を焼きて民業の発達を計らざるを得ず」であったのである。その頃の時勢では国家干渉は「いかにも止むを得ざることなり」。だから自由主義者のように考えることに反対する。自由主義者は町人の仕事と政府の仕事とは違うと考え、前者は自分一個のことを、後者は公共のことを担えばよいと言っていた。愛山はそれで済むかと反論する。
愛山の議論は進む。――明治の最初のころ、民間では金持ちはまだ少ない。金をもっているのは政府であった。そこで少しでも金のある者は政府の御用を勤め、その代わりに政府からお金を廻してもらっていた。小野・島田・三井等がそうである。それが日清戦争後は政府と対等になりだす。政治家の後ろに金持ちがつくようになる。井上馨に三井、大隈重信に三菱、というように。政商はそういう時勢に適合して活躍したのである。特に三菱は時勢に順応するだけのなかなかの決断力があった。政府はその三菱を援助する。その結果、三菱は力をつけ、市場を独占するまでになる。政府と対等に渡りあうだけの力をもつまでになったのである。成り上がりの出現。当然、この独占資本に対して中小の資本は不満をもつ。没落して工場の職人になり下がる者は不平を言う。この時に社会主義者が階級闘争を主張する。こうなると時勢はまた変わる。この時に政商が不満をもつ者に向かって、自分と同じく金持ちになれとか、今の境遇は自己責任だと言うことは、賢くないだろう。明治になって「黄金の封建時代」が生まれたが、それは今は変わらねばならない。階級対立は社会を破壊することであって、それれは何としても避けねばならない。
愛山が社会主義に対抗していることは明らかである。でも彼が自由主義者でないことは前にも指摘しておいた。彼は日露戦争後の今、20世紀に入った日本を、次のように発展段階論的におさえる。そこに歴史の機微が観察されていて、さすが史論家である。――現在、自由放任の考えに留まっていてよいか。事態をよく見て考えを改めよ。欧米では第二次産業革命がはじまり、特にドイツとアメリカはかつての世界の工場・イギリスの地位を奪っている。科学技術が発展し、それを用いる産業は大工場の組織となる。こうなると工場主一人では全体を統制できず、自分の自由にはできない。経営を多くの使用人に分担させねばならなくなる。それまでの主人の専制は許されなくなる。工場は自分の財産だからどうしようと自分の勝手だとは言えなくなる。(所有と経営の分離。)資本家と労働者の関係も企業一家的でなくなる。彼らは情で結ばれるのでなく、水くさい功利的な関係になり、労働者は他に良い条件があればさっさとそちらに移ることもできる。しかも多数の労働者は一つの共同体のようになり、その力は工場主を倒すまでになっている。政商はこうして多くの優秀な人材を集め、労働者と世間に対して大きな影響力をもつようになった。つまり私企業は社会的企業になったのである。これは思いもかけなかった結果であった。
愛山は20世紀の現代資本主義を認識するのである。――私企業の社会化は「自然の勢い」・「運命」であって、「人力の如何ともし難きもの」なのである。それはかつて種子島に鉄砲が渡来して戦術の様相を変えてしまったことが、武士を都会に移させ、その都会の商業が次第に武士の勢力を失わせていったことと同じく、ものごと必然の成り行きである。こういう環境の変化に対して、財閥は「旧信条」を変えねばならない。「天下の勢既に一変すればこの勢に応ずるの道を講ぜざるべからず。」政商がかつてのようにわがもの顔の専制をふるうことはできない。彼らは表向きは三菱家や三井家を所有する者であっても、その実際は多くの管理者で経営される「公共の一財団」の経営者でなければならない。こう言う彼はクリスチャンであった。オーナーは「天より財産管理人の職を与えられたる役人に過ぎず」、「我は天のために暫く財産の管理人となりたるもの」とへりくだれ。政商は天に責任をもつ経営をせよ。江戸時代の名君であった上杉鷹山や島津斉彬のように「土地人民は自分のものにあらず、天子将軍より預かりたるもの」と考えたことにみならえ。そして愛山は富豪に時代の変化にふさわしい新しい経済倫理を要求する。金もうけの新たな形態に合う新たな道徳が求められる。
新道徳を推進するのに助けとなるのが社会政策。富豪は社会政策による所得の再分配(金持ちに高率の相続税を課す、労働者の汽車賃や家賃を安くする、高利を禁止する、等)を邪魔扱いにするな。金持ちは労働者に要求されたから社会政策を恵むのだというのでなく、自分のほうからそれを求めるのだと考えなおせ。
以上が愛山の政商論である。こうして「富と仁義」、自由と責任は別物でなく、一体的となる。それを無理なことと言うのが、社会主義者と自由主義者であった。愛山からすれば、彼らは経済学を時勢の変化のなかで考えず、固定した理論のなかで誤解しているのである。この現代資本主義の変化論は経済学史ではふつう欧米のものとされているが、日本でも明治期に資本主義が導入された時から今日に至るまで、その形を変えながら途切れることなく議論されてきている。このことに注意されたい。愛山の後では、戦間期に高橋亀吉や石橋湛山が出てくる。「社会政策」の大河内一男や新興財閥の大河内正敏も出てくる。第2次大戦後になると、都留重人(――資本主義の変わらないマイナス面をも見たうえで)や伊東光晴、宮崎義一などによって展開されていく。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study312:100713〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。