維新の会という体制派の偽装チェンジ。・・
- 2012年 2月 19日
- 評論・紹介・意見
- 偽装チェンジ大木 保維新の会
「維新」ブームの茶番のあとに荒廃した日本社会が到来する–
寒波襲来のこの時節はどなたもたいへんお困りでしょうが、
とりわけ、乳幼児を抱えた雪国のお母さん方は難渋されていることとお察しもうしあげます。
こんなときに、なんとしても孤立させない、孤立しない、という人との関係がのぞまれるところです。・・
– それにしても、この国の政権は、震災のあとの被災者救済もへっぺり腰で、成す術もなく、
はなから自力で踏んばる力がなかったことを露呈している。
にもかかわらず、あのドラえもんのスネ夫然とした「裸の王子ちゃま」の見栄っ張りだけで
大臣を張ろうという厚顔(しかし緊張でひきつっている)ぶりには呆れるばかりである。
スネ夫ゆえに国民の側に立って体を張ることなど滅相もなく、
日々、官僚の手の内でもてあそばれる醜態をさらして見苦しいことである。
こんな治世の下で日々暮らしているだけで、
身も心も懐も、冷えびえしてくるのは、わたしだけでしょうか?
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?
– さて、マスメディアでは連日「維新」という言葉がもてはやされていて、やたらと目につきます。
「船中八策」などと、恥ずかしげもなく竜馬ごっこを気取った人と、それを真面目にとりあげるメディアも、
大河ドラマ好きな国民大衆をあなどって平気な、
いかにも尊大な両者が同調しているためでしょうか。
もとより気恥ずかしさという真っ当なデリカシーが、政治家一般には無縁な感性にはちがいない。
それとも両者が結託して政局再編の主導権を取るためにくりひろげようとする、
歴代米政権お得意のメディアをつかったPR戦略にのった国民籠絡キャンペーンなのでしょうか。・・
それにしても、「維新」や「船中八策」というような言葉を本職の政治家がコピーする思考・感性には
まったく、本気なのかとおどろかされる。 歴史オタクの中高生じゃないのだから。・・・
ふつうの人間の感性があれば、歴史上にあったものごとをそっくり自身に擬するということはしないものだ。
もしそれを実行する者がいるとすれば、
そこにはおそろしく逸脱して過大な自己尊大意識が病的に露出していることになる。
さらにいえば、心的に躁症状をかかえたあやうい状態にあるともかんがえられよう。
また、グーグルやヤフーのキイワード広告そのままに、中身の政策からではなく、
ただただ、目新しく集客できそうなキャッチコピーをひねりだし、その旗印を掲げて
こけおどしのパフォーマンスを展開する「営業」手法には、 「真」も 「信」も なく、
吐きだされるものといえば見かけ倒しの「記号」のことばだけである。
なぜなら、その手法が拠っているグーグルなどのキイワード検索の世界は
言葉の意味や内容価値をいっさい不問にすることで成り立った世界だからである。
すなわち、人気度(クリック数)と文字数量(コンテンツ量)だけが尺度の、
すべてのものごとを< 商品化 > するための「異常な平等と公平性」の世界なのである。・・
– ついでだから、竜馬を気取る連中の「営業チラシ」の中身をみてみよう。・・
「地方分権」「多様な大都市制度」「道州制」「首相公選制」「プライマリーバランスの黒字化」「教育改革」「公務員制度改革」「TPP参加」「日米同盟堅持」・・・
書き写しているうちに、ばからしくなってきた。
そもそも、 「地方分権」を言いつのったグローバル教配下の小泉・竹中ラインが
地方を裏切ったことをどのように総括するのかが何も記されていないなかで、
大阪都構想などどうでもいいような話を大仰にわめきちらす者の気が知れない。・・
また、「公務員制度改革」は、職員をろくでなしどもとみなしたあげくの首切り法案で恫喝しているだけで、
最重要である天下り廃止がすっぽりとぬけ落ちている。・・
つぎに、「教育改革」を声高にうたっているものの、何のことはないただの学力テスト至上主義のうえに、
ただもう職員をコストとしてしかみれない、人を裁く権限に固執する強者妄想にとらわれている。・・
「社会保障制度改革」では、官僚の積年の罪を不問にして、何事もなかったように
おかしな取りまきの先生方のつくったペーパーをだしてきただけ。 そこには
つましい中から身銭を切ってきた国民が愚かだったといわんばかりの統治者目線の制度イジリが。・・
その取りまきの中には、大阪万博などというくだらない見世物小屋を「成功」させたと自讃して、
さらに今度は、道頓堀にプールをつくると言いはやす元祖グーグルチックな方もいる。・・
「TPP参加」は、これまた人を食った名前のみんなの党などとの同調ぶりを露呈したわけで、
「日米同盟堅持」「憲法改悪」の意思表示とともに、自民党および第二自民党(現民主党主流派)を含めて、
戦後日本の一貫した対米隷属体制への屈服の姿勢の表明にすぎない。・・
– この「八策」というものにみられるものといえば、統治するものの権力強大化に尽きる。
ここに決定的に欠落しているのが、
「政治はその本質において、治める者と治められる者とからなり、しかも治める者が治められる者に養われながら、しかも権力を行使するものである。」(高橋和巳『邪宗門』より)–
という歴史的認識であり、この欺瞞的なありかたから訣別して 国民の側に立つ意志であり、
国民にどこまでもかぎりなくひらかれた行政組織と制度の思想性である。
– おそまつなこんな連中の神輿をすすんでかつぐマスメディアが、いまや政局を左右する時代というのか。
この閉塞の時代の疎外感を転化したいとねがっている、お人好しの国民性(依存症)をいいことに、
「活きのいい強力なリーダー像」を祭りあげて、国民に取り入ろうとする作為が透けてみえる。
なにせ、まともな対抗馬がいまでは一人もいない情況にお膳立てされた政局において、
事実上、キャスティングとキャッチコピーを変更しただけの体制擁護派のPR戦略が
運よく、功を奏するかもしれないというところが、
いまの、いや、いままでの、日本の政治的な成熟度がしめしている現実でもある。・・
まさしく、国民にとって運悪くこの連中が肩で風きって尊大に「維新」ごっこを実行することになれば、
それは、裁量権だけを過大に手に入れた強権政治によって、国民の活力を根底から殺ぐであろうし、
連中が信仰するグローバルスタンダードの本家ハゲタカ資本がおもむろに飛来し蹂躙したあとには、
「国売られつくして、山河も手離し。」という
荒廃した名ばかりの日本の国が、無残に放りだされる光景をみることになるのは自明のようである。
事実、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」には、「市場原理」などとふれまわったグローバル資本が、
破綻した各国の公共独占サービスを手に入れ、選択肢のない国民が悲惨な状況に陥った事例が紹介されている。・・・
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0777:120219〕
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